※

 十分も歩くと妖怪アパートが見えてくる。

 昔は長屋だったそれは、段々と住みかを無くしてゆくだろう妖怪達のために、砂かけ婆が発起人となって建てたものだ。
 初めのデザインではかなりの高さがあったそれも、西洋悪魔ベリアルに襲われた時にピサの斜塔のように傾いてしまったので、二度目の建築ではごく簡単な二階建てになっている。当時は白木で造られたそれも、年月によっていい塩梅にくすんできていた。

「こんちは」
 ガラガラと扉を開けると、入ってすぐの管理人室から砂かけ婆が顔を出した。
「おお。今度は兄貴の方じゃの。さっき雪姫が帰ったんじゃが……」
「来る途中であったよ。凄く喜んでた。ありがとう、お婆」
 礼を言うと、砂かけ婆は「いやいや」と微笑んた。
「熱心に読んでおったからの。本でも何でも、必要とされる所にあるのが一番じゃ。良かったら他の本もあげるから、今度ウチまでおいで」
 親切な言葉に「うん。その内に」と笑顔で応えながら、鬼太郎はチラと下足棚の方に目をやった。―――ねこ娘の靴がある…部屋にいるのだ。
「ところで今日は一体どうしたんじゃ? 誰かに用事かい?」
 お婆の問いに、うん、とうなずく。
「ねこ娘に。部屋だよね?」
「うむ。…そう言えば、最近はほとんど外に出ておらんのう」
 下駄を脱いでいた少年の動作は一瞬ピクリと硬くなったが、彼はさりげなく一連の動作を済ますと、砂かけ婆に尋ねた。
「外に出てないって…何かあったの?」
「いいや。ただ、何か考え事をしていたようじゃが」
 首を振って答えた砂かけに、ふーん…と分かったような分かってないような返事をしながら、鬼太郎は階段を上った。
 ぎしぎしと軋む音が鳴る。真夏に踏みしめる木造建築の廊下は、素足に心地良い。

 二階。
 日のよく当たる南向きの部屋。にゃんにゃんで弐拾弐号室―――そこがねこ娘の部屋だ。
 女の子の部屋だから、特に用があるとき以外は余り入ることはない。部屋の前まで来たのも、実は久し振りだった。
 深呼吸してからノックすると、小さく「どうぞ」と返る。
 開けると、ぎいぃ…とドアが鳴いた。

「え…! 鬼太郎?!」

 驚きを顔中であらわして、ねこ娘がこちらを見ていた。
「うん、僕だけど…誰だと思ったわけ?」

「お婆かと…。あ、ゴメン。入って」
 散らかってるけど…と、少女は卓袱台に置いてあった紙をポケットにしまった。

 鬼太郎は部屋に入り、勝手に座布団を出してその辺に座った。以前とほとんど変わっていない部屋―――しかし記憶にあるそれよりも受ける印象がかなり柔らかいのは、その場を包む雰囲気がそうさせるのかもしれない。

 良かった…病気とかじゃないみたいだ……

 奥からお茶を持ってきてくれるねこ娘を見て、鬼太郎は安堵した。何も心配する事はない。ねこ娘は元気にしている…杞憂だったのだ。

 ことん

 コップ―――中身は麦茶(常温)―――を卓袱台に置いて、ねこ娘が座った。
「あ。ありがとう」
 ちょうど喉が乾いており、飲み物をもらえるのは嬉しかった。
 ゴクゴクと三分の一ほどを飲んで一息つくと、ねこ娘と目が合った。彼女はどこかぎこちない笑顔になり、口を開いた。

「で?」
「………え?」

 同じ笑顔のまま、少女は問う。

「何か用があって来たんでしょ?」
「用…? あ、あぁ! …うん……」

 うなずきはしたものの、鬼太郎は戸惑った。用というほどの用はないのだ。
 これが本当に、ねこ娘が病気や怪我であったのなら「見舞い」という事になるのだろうが、どうやらそうではない。「理由」ならあるが…何となく言いにくい。

 ここに来たのは…「会いたかったから」…だし……

「鬼太郎?」
 黙りこくってしまった彼の顔を、ねこ娘が覗きこんできた。この大きな瞳に見つめられると、鬼太郎はいつも心のどこかが焦るのを感じるのだ。それは今回も例外ではなかった。

「あ…いや、その……ほら、最近ちっとも君に会ってなかったから…だから…何となく心配になって……」
 自分の話し方のまずさに、鬼太郎は内心ため息をつき、苦笑した。だが、話し方がまずいのは、何故かねこ娘も同じだった。
「わ…私は、そんな…心配なんてしてもらわなくても、元気だけど……」
 しどろもどろで応える彼女の頬は、陽が差しているからか、紅かった。
「うん。そうみたいだね。…安心した」
 心底から安堵して少年は微笑んだ。ねこ娘が小さく呟く。
「…ありがとう。鬼太郎」

    ※

 ミーン  ミーン ミーン   ミーン………

 どうしよう…訊いた方がいいかな……?
 手作りのネコ型クッキーを鬼太郎とつまみながら、ねこ娘は心で呟いた。
 この数日というもの、ずーっと考えていた問題なのだが、中々良い案が出ず困っていたのだ。
 だが今は偶然にも鬼太郎本人が目の前にいる。その問題とは、彼に訊けば、すぐに解決するもので、あとは仕上げに取りかかるだけなのだ。もちろん、今まで尋ねに行かなかったのにも、充分な理由があるのだが、そのために見当違いな結果になっても悔やまれる。

 考え続けていても埒があかない……。アイディアが全部無駄になるかもしれないけど…でもやっぱり、確実な方がいいよね……

 思い耽っていた彼女が現実に引き戻されたのは、その相手の声でだった。

「ねこ娘」

「えっ?」

 思わず声を上げた彼女が見たのは、くすくす笑う鬼太郎の顔だった。
「考え事でもしてた?」
 どうやら彼は何度も自分を呼んでいたらしい。照れつつこくりとうなずくと、少年はクッキーを一枚口に含んで告げた。

「僕、そろそろ帰るよ。長居しちゃったね、ゴメン」

 ………え?

 立ち上がった鬼太郎をねこ娘は見上げる。
「もう帰るの? もっとゆっくりしていけばいいじゃない」
「元気だって事がわかったから、充分だよ。ホントに良かった…」
 微笑みながら、少年は言う。
 疑っていたわけではない。けれど…けれど本当に…本当にそれだけの為に来てくれたのだ。

 トクン…

「クッキー、本当に美味しかったよ。ありがとう」
 満面の笑みで礼を言われ、ねこ娘は身体の芯がカーッと熱くなるのを感じた。
「じゃ、また。…ごちそうさま」
 くるりと向けられる背。

 あ…

 少年がノブに手をかける。

 帰っちゃう…!

「ね、ねえ鬼太郎!」

 勢い余って、卓袱台がガタンと揺れた。その所為だけでもないだろうが、「何?」と振り向いた鬼太郎は多少驚いたようだった。

「えっ…と……」

 ごくりと唾を飲み込んで、少女は言葉を紡いだ。

「鬼太郎、好きな物って…欲しい物ってある?」

 問われた方は目をパチクリとさせた。
「欲しい物? …僕が?」
 いきなり何を訊くのだろう? 鬼太郎はそんな顔をしていた。当然よね……と思いながら、ねこ娘はうなずく。
「例えば私だったら、魚とか、鰹節とか…」
「そうだなぁ…」
 ねこ娘には数十分に感じられる数秒間、鬼太郎は宙を睨んでいたが、組んでいた腕をはずすと首を横に振った。

「特に無いよ」

「……無い…の?」
 ねこ娘の身体から力という力が抜ける。
 思いつかないんだよ…。と鬼太郎は申し訳なさそうに苦笑した。

「お父さんがいて、雪姫がいて、皆がいて…そこに僕がいる事が出来るなら…許されるなら…。毎日のんびり穏やかに暮らせたら、それで満足だよ」

 深い想いに根ざす、穏やかな笑顔。
 ねこ娘はそれを見て、あぁそうか…と妙に納得する。
 鬼太郎らしいわ……

「僕は、一生懸命生きるだけだから…」

 当たり前のように口にされる言葉―――そう。当たり前の事。そうあって然るべき事。けれど、それはとても難しくて、大切な事でも、ある。

「…でも何でそんなこと訊くんだい?」
「何でって、だってもうす……ぐ…」

 ミーン……

 そこまで言いかけて、ねこ娘は口をつぐんだ。数瞬の後、彼女の口をついて出たのは、続きではなく全く別の事だった。
「そっか…」
 小さく呟く。「え?」と鬼太郎が聞き返した。
「そうよね。鬼太郎はいつも一生懸命だもんね…」
 いつもそうだから…だから……
「…ねこ娘?」
 怪訝そうな鬼太郎の声に、ねこ娘は心を戻し「何でもない」と頭を振った。

 セミの声が部屋にこだまする。

 ミーン  ミン  ミーーーーン……

    ※

 いつのまにか、陽は随分と傾いている。セミ達も少しずつ静かになってきた。
 家路を行く鬼太郎を、ねこ娘は部屋の窓から見送っていた。後ろ姿を見つめながら、ぼんやりと、彼が来た際ポケットにしまった紙の事を思い出す。

 あれだけいっぱい考えて、思い付いたものを色々メモって…、なのに結局はどうでもよくなっちゃったわね……

 ポケットから取り出し、ため息をつく。

 ―――毎日のんびり穏やかに暮らせたら、それで満足だよ

「鬼太郎…」

 ―――僕は、一生懸命生きるだけだから…

 笑顔が目に焼き付いて、どうしようもなかった。

 気付いた事が二つある。…いや、三つだ。
 鬼太郎の言葉に偽りなどない。平穏な毎日…彼は真実それをこそ願っている。それがどんなにか大切な事かわかっているからこそ、彼は…鬼太郎は一日一日を一生懸命に生きるのだ。―――それが一つ目。
 そして、いつだって一生懸命なら、特別な時など無いのかもしれないのだ。自分が想うその日も、彼にとっては特別でも何でもない日なのかもしれない。―――それが二つ目。

「…それでも」

 窓の向こう。にじむような夕陽を背景に、カラス達が跳び行き、森の翠緑は照らされて金色に輝いている。そして、長く長くのびている鬼太郎の影―――…。

「それでもやっぱり…私は…」

 何かで示したい。例えあんたにとって、その日が縷縷と流れる時の一部にすぎないのだとしても、私にとっては違うのだ。だって…

 私にとっては、あんたの存在そのものが……

 ―――特別なのだから。

 …それが、三つ目。
 夕陽の彼方に消えゆく影の主を想い、ねこ娘はうなずいた。



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