縷々の日々の中で

 ミーン ミーン ミーン……

 窓の外で行われているセミ達の大合唱。
「…………。」
 それを聞くともなしに聞きながら、鬼太郎は寝転んでいた。

 …―ン  ミーン  ミーン  ミーン ミーン    ミーン………

 不意に彼は、ベッドからむくりと身体を起こし、父に告げる。
「…お父さん、僕ちょっと妖怪アパートまで行ってきます」
 傍ら、水を入れた茶碗の中で鼻歌を歌っていた父が、不思議そうに首をかしげた。
「ああ、構わんが…急にどうしたんじゃ? 何か用事か?」
 訊かれるとわかっていただろう当然の問いに、しかし息子は即答しない。
「用……ってわけじゃないんですけど」
 それをきいて、「何じゃそりゃ?」と目玉親父は呆れたように肩を上下させる。鬼太郎は少しだけ困った表情になりながら、言葉を続けた。
「ん…その…」
 ぽりぽりと頬をかいて、少年は父からほんの少しだけ視線をそらし「ねこ娘なんですけど…」と呟いた。
「ねこ娘が…どうかしたのか?」
「いえ、どうもしないんですけど、ただ…最近全然遊びに来ないでしょう?」
 それは事実だった。いつもはしょっちゅう遊びに来る少女が、この月に入ってからは、全くやって来ていない―――これは小さな異常事態と言っても、そう変ではないと思う。
目玉親父もうなずく。
「そう言われればそうじゃな。…気になるのぅ」
「ええ…。すぐ帰りますから」
 立ち上がり、鬼太郎はベッドの横に置いてあったちゃんちゃんこ―――夏は暑いので、外出する時以外は脱いである―――に腕を通した。
「すぐじゃなくても構わんよ。じゃが夕飯は…」
「ちゃんと作ります。ご心配なく。そうそう、今日はお父さんの大好きなサクランボがデザートに付きますから」
 にっこり笑って少年は木戸を押した。途端にセミの声が割れんばかりに大きくなる。
「そりゃあ嬉しいのう。楽しみにしとるよ」
「沢山ありますよ。貰い物ですけどね」
 そのまま「行ってきます」と告げて、鬼太郎は梯子を降りた。父との話の流れでか、今晩食べる予定のサクランボが、ふと思い浮かぶ。

 先日の事件解決の際「お礼に…」と依頼者がくれたパック入りのサクランボ。
 それは外国産で、大きさも色もこの国のものとは随分違っていた。傷など一つも無く、妖しいまでに艶があり、丸々と肥えた実ばかり。いびつなものなど一つも無い―――みんな同じに見えた。

 僕が調布とかに住んでた頃とは比べモノにならないなぁ…。今のこの国は豊かで…便利で…。だけど……。

 脳裏に浮かぶのは、時節誤解させられ実った野菜。薬にまみれた果実。育ったモノではなく作られたモノ。遠つ国のモノが日々運ばれて巷に溢れ、腹八分目どころか十二分目にも食べられる。そして、溢れたものは―――…。

  カラン

 硬い音がなる。乾燥した大地を、下駄が踏みしめる。
 …自分が幼かった時代に比べ、大部分の人々はひもじさを記憶の隅に追いやる事が出来た。ならば…豊かなのだろう。人間が選んだ「目標」は、決して間違いではないのだ。

 鬼太郎は頭を振った―――釈然としない思いを、ひと時忘れるために。

  ミーン  ミーン  ミーン ミーン

 周りでは、セミ達が鳴き続けている。彼らが止まっていない木など、おそらく一本も無いに違いない。外に出た今、最早うるさいを通り越してけたたましかった。
 背中を汗が伝う。やはり脱ごうか…と少年はちゃんちゃんこの結び目に手をかけたが、結局思いとどまった。荷物が出来るだけだ。
 代わりに袖をまくってしばらく歩いていると、前方からちょこちょこと駆け寄ってくる影が見えた。

「おにいちゃーーーん!」

 鬼太郎の事を兄と呼ぶのは、この世でただ一人、妹―――雪姫だけだ。
 彼は首を傾げた。妹は昼を食べてすぐに砂かけ婆の所に遊びに出かけたが、この道にいるという事は家に帰る途中だったという事になる。毎日夕方まで外で遊んでいるのに、何かあったのだろうか?
「どうした? えらく早いじゃないか?」
 もっと遊んできていいのに…
 そんな思いが伝わったのだろう。飛びついてきた妹は、息を切らしながら「うん、でも」と笑った。
「あのね、砂かけのおばあちゃんがね、ご本ね、くれたの。…だからね、ユキね、はやくね、みせたくて…」
「砂かけ婆が?」
 こくこくとうなずいて、雪姫はもらったという本を見せてきた。

 それは大分古ぼけてはいるが立派な装丁の本で、ぼんやりとではあるが、鬼太郎にも見覚えのある物だった。確か、この森に住み始めたころ、砂かけ婆の家で時たま読ませてもらった本の中の一冊ではなかったか。
「へえ…」
 妹から本を受け取り、ぱらぱらとめくる。古い埃のにおいと共に、目が拾う単語の一つ一つが思い出の領域を刺激し、やはりそうだ…と彼は思った。
 色々な本がある中、自分は妖界の英雄譚などを好んで読んだが、いわゆる御伽噺の類も入っていたように記憶している―――妹がもらってきたのは、つまるところそういう子供用の本らしい。
「いい物もらったなぁ、ユキ。お父さんにも見せといで」
「うん。…おにいちゃんはどこにいくの?」
「ねこ娘のトコ。ああそうだ、妖怪アパートにいたかい?」
 雪姫は首を傾げた。
「ネコねえちゃん? ん…みなかった……けど、たぶんいるとおもうよ」
「…そっか」

  カラン  コロン

 鬼太郎は雪姫の頭をなで、目的地に向って再び歩き出す。小さな妹の明るい「いってらっしゃい!」を背中に受け、彼は大きく手を振った。

  カラカラ コロン……



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