十三夜のまま満ちて
波の音が耳につく。
こんなことは珍しい。この洞窟に居を構えてから年単位で聞き続けてきた、いつもと変わらぬ音だというのに……潮騒という言葉の通り、騒がしいと感じるなんて。
マトリフは何度目かもわからぬ寝返りをうった。
溜息を一つ。
このまま目を閉じていれば、そのうちまた眠りの腕に抱かれるのだろうが、生憎ともう頭が冴えてしまった。
魔法使いという人種は、夜を好み、夜に好まれるものだが、それでも年をとった彼がこんなにも寝付けないというのは珍しかった。
昼間、滅多にない来客――というかマトリフが半ば無理やり喚びつけた――の相手をしていたから神経が高ぶっているのかもしれない。
数十年ぶりに会えた弟弟子と、その若い仲間たちに、柄にもなく説教をかまして尻を叩いた。あの幼く純粋で真っ直ぐな…いまは行方不明となってしまった勇者ダイと比べれば、あまりにもヒネて情けない小物の『ニセ勇者』一行だったが、自ら『ニセ』と言うあたりがまだ見所がある奴らだった。
(ああいう奴らは嫌いじゃない)
マトリフは口角を上げる。
ニセ勇者たちは、ようやく居場所を見つけることが出来た弟弟子に相応しい仲間だった。
まぞっほは、師やアバンのような、偉大な者には憧れてもついていく事の出来ない人間だ。それでもあのパーティの中では年長者で実力者。若造たちに頼られ、守る事だとてあっただろう。頼られる事で立つことが出来るという事もある――そうやって上手いことやっていけるなら、それでいい。
(色々とあくどいことやってそうだが…ま、ああいうタイプは根は悪くねえからな)
頭目のニセ勇者の顔を思い出す。一喝してみれば案外素直に頑張りそうだった。惚れた女の為なら身綺麗になってみようかという単純で真っ直ぐなな善性は、マトリフに愛弟子や、もう失われた親愛なる仲間の戦士の顔を思い出させた。
彼らの顔が思い浮かんだあと、笑みの次に痛みが訪れる。
弟子はまだいい。大魔王との戦いで最後まで勇者をサポートし、無事に帰ってきてくれた。かなり無茶をしたようだから心配ではあるが、とりあえずは元気でいてくれた。きっともう自分などでは及ばない程の魔法使いとしての高みに上っていってしまうという寂しさはあるが、それでもあの笑顔はまだちゃんと手の届くところにある。
だが、もう一人……あの豪放磊落な仲間はもういない。自分の三分の一ほども生きない内に、旅立ってしまった。最愛の妻と、目に入れても痛くない娘を残して。
再び溜息が出る。
泣くような事はない。その方法で素直に感情をあらわすには、耐えてきた年月が長すぎる。
けれども、波がうるさい。あの喧しいニセ勇者たちが去ったのだから静かであろうはずなのに耳につく。
喚ばれている。潮が騒ぐ。血が…騒ぐ。
マトリフは毛布を払いのけた。
明日か明後日には訪ねてくる予定の弟子に、出かける旨のメッセージを書き残すと、巡る魔法力を持て余すかのようにギュータの法衣に袖を通した。
※※※※※
夜の空を飛翔する。
最初は気の向くままに飛んでいたが途中からは月を追うようになっていた。何故そうするようになったのか、明確な理由はない。ただ、ギュータ跡にルーラしようとした時に女の声で笑われたような気がした。
今晩の月は満ちてはおらず、さりとて半分でもない。十三夜月――中途半端な形と明るさだった。
雲一つなく、模様がよく見える。地方によってはウサギだと言い、カニだとも言い、女性の横顔だとも様々に言われているそれは、白い部分を見るのか、黒い部分を見るのかでも形は変わるらしい。
どのように高く飛ぼうと、速く飛ぼうと、月に追いつける筈も到達する筈もないことなど承知している。それなのに追うのは――追っているその間だけは求めていられるからだ。追うのをやめて止まってしまえば、諦めたことになってしまうと心のどこかが叫んでいる。
(今更だな…)
叫びを打ち消すような冷静な声が脳裏に響く。
本当に今更だ。十五年もの間、ずっと止まっていたではないか。
(それがどうして、あのニセ勇者たちに会ったからと言って……)
そこまで考えて、いや、と思考は応えた。そうか…と納得が生まれる。
ニセ勇者に会ったというよりは、弟弟子に再会したからだ。
そしてアバンにも。
(帰ってきてくれた。また会えた。とり戻せた――)
失ったと思っていた相手に再会できた。その望外の喜びに心に光が差した。
それ故に、見ようとしていなかった陰に気付かざるをえない。
(――けれど「あいつ」は帰ってこない。「あいつ」にも会えない)
時は巻き戻らない。戻ってこない。
かえって、もう会えない相手がいるのだという現実が尚更重く心の内で荒れ狂っている。
喪失の痛みを忘れていたわけではない。麻痺していたわけでもない。……慣れてしまう事などないはずなのに。
夜風が吹く。海の面を強く撫でて通り過ぎ、それを追うように波が大きく騒いだ。
(そうか…俺は……寂しいのか)
波の揺り返しのように、普段抑え込んでいた寂しさが、喜びの後に顔を出したのだ。
月の面に幾人もの顔が浮かぶ。それは、生者も死者もごちゃまぜだった。
親や幼い時を過ごした村の者たちの顔。ギュータでの師バルゴートの箴言(しんげん)。里を出ての旅での出会いと別れ。雄敵との戦いでの縁……。
再びついてしまった溜息は、震えていた。
相変わらずその頬に涙はない――きっと『彼』なら泣くのだろうに。
寂しさを胡麻化し続け逃げ続けるような男を『彼女』なら呆れて笑うだろうに。
ロカなら…カノンなら……そんな風に事あるごとに思い続けた十五年。それは月を追うのに似ていた。
※※※※※
眼下に島が見えた。
計ってはいないが、数時間は飛び続けただろうか。大呪文を使わぬ限り身体に影響はないとは言え、さすがに疲れを覚え、マトリフはその島に降りることにした。
ヤシなどの南方特有の木が茂っている。火山も見えたことから、地熱も高い。パプニカも暖かな国だがそれよりも更に暑さを感じる。年中薄着で過ごせそうな土地だ。マントが熱い風を孕んでマトリフを煽る。
余所者が空から訪れれば、島民が驚くだろうか?ちらりとそんな事を考えたが、まあいいかと雑に降りる事に決めた。こういう場所の住民は明るく大らかな者が多いのをマトリフは経験から知っていた。
太陽の光を浴びて開放的な空間で明るく笑う人々――そう、まるであの小さな勇者のような…と、ダイの顔を思い浮かべてマトリフは気付いた。
(なるほど。ここがデルムリン島か)
納得したところで島を覆う魔法力をマトリフは感じる。
嗚呼と思う。アバンの奴の破邪呪文だ、と。
清浄で大らかな、アバンらしい魔法力だった。先代勇者として、小さな勇者の故郷を包み守り、その帰りを優しく待つマホカトールは、当然のようにマトリフを通し、排除するようなことはなかった。
苦い笑いが出てしまう。
先日再会出来た、マトリフの感覚では『とり戻せた』友人――マトリフ( ア バ)の勇者( ン)は、変わらぬ笑顔だった。あの笑みも綺麗な顔も、旅の頃とほとんど変わらない。最早、十五年という年月が経つと言うのに。
(優しいものは変わらねえんだな――)
月のように。どれほど追っても変わらぬ距離がある。
じゃり ちゃり
浜に着地した足が砂を鳴らした。その音に、かぶさるように声がかけられた。
「おや。これは懐かしい客だね」
※※※※※
ひょこりひょこりとやって来るのはゴースト…のような姿の人間だった。ふざけた白い被り物の下から、細い足が見えている。
「驚いた…あんた、ここに住んでたのかい。大将」
マトリフは純粋に驚いた。まさか、こんな最果ての島で知り合いに会うとは思いもしなかった。しかもマトリフがここに来たのは偶然にすぎないというのに。
「わしも驚いたよ。こっち目掛けて流れ星が飛んでくるもんだから気を張っていたんだが、突然それが止まってしまうんだから」
いそいそと言った態で、ゴーストの服が脱がれた。よく見知った、それでも懐かしい姿にマトリフは目を細めた。かつての魔王ハドラー戦で組んだ…パーティの助っ人という立場だった拳聖ブロキーナ。
当時より痩せたなとマトリフは感じ、それは正しかった。まとう雰囲気は同じで元気に見えても、老いは確実にこの仙人めいた男にも降り積もっている。
「流れ星? あぁ、そうか。トベルーラの光だな」
かなりスピードを出してがむしゃらに飛んでいた為、魔法力の輝きが流星に見えたのだろう。
「そうそう。あんまり鮮やかなもんだったからね。流れ星が拾えるかもしれないと年甲斐もなくワクワクしちゃってねえ」
剽軽(ひょうきん)に笑うブロキーナの口ぶりに、ついうっかりマトリフは楽しい偶然を信じそうになる。だが、皺深い手に握られた物を見る限り、きっとブロキーナは飛来したのがマトリフだという事には気付いていたのだろう――
「どうだい、マトリフ殿。呑まないかい?」
掲げられた手には、酒瓶にグラスが二つ(・・)。
用意のいいことだ、とマトリフは吹き出した。思い返してもこの拳聖は特に酒好きといったわけでもないのに。
――気付いて、だからこそ待ってくれていたのだ。
「そうだな。いただくよ」
月下の酒は、通夜に合う。
※※※※※
「モンスターの弟子か。大将らしいな」
近況を…いや、十五年の歳月を語り合って飲む酒は、からかった。
苦くもなく、甘くもない。
辛(から)く、辛(つら)く喉を焼く。だが今は、それが良かった。
ブロキーナが穏やかに笑う。
「まだまだ頼りないけどね、クロコダイン殿から獣王を引き継いだらしい。あの御仁の目は確かだから、きっと、このまま修行を続けていればいつかは立派になってくれると思ってるよ。
それに、最近はハドラー君の息子も隊員になったんだよ」
ゲホ
想像もしなかった言葉に、マトリフは咳き込んだ。
「はあ? ハドラーの息子って、あの三流魔王には家族がいたのか?!」
衝撃である。ポップから親衛騎団の話を聞いていたので、ハドラーが武人として一皮?けたようだというのは推測していたし、実際にその後の話を聞いてはいた。だが、マトリフ自身がハドラーと直接相対したのはテランでの戦闘が最後だ。魔王軍内での立場を気にして勇者一行の寝込みを襲ってきた、魔軍司令を名乗る三流に堕した元魔王の情けない姿から、息子を育てる父親魔族を想像するのは難しかった。
ブロキーナが「ちがうちがう」と笑ってくれた事で、どこか安堵したほどだ。
「ハドラーの部下の一人でね。親衛騎団の兵士(ポーン)だったが、呪法生命体だったのにハドラーの死の後も、その遺志を継ぐ形でしっかり生きているんだ。しかも、ハドラーそっくりの銀髪も生えてね。ありゃあ息子って言っても良いだろうと思うんだよ――本人は『俺はハドラー様の部下だ』って否定するんだろうけどねえ」
メガネの奥で、ブロキーナの瞳が細くなったのがわかった。随分とそいつを気に入っているのだろう。
波が静かに寄せては返す。
ヤシの木がしゃわしゃわと葉擦れの音を立てた。
暖かな島の優しい見えざる手に、心が撫でられるような…そんな感覚。
「息子…家族か……」
血の繋がりなどなくても、そこに想いがあり絆があるならば、それは家族であり身内だ。少なくともマトリフはそう思っている。マトリフにとり、アバンやロカやレイラといった仲間たちや、唯一の弟子がそうであるように。
「あのハドラーも、遺せるものがあったんだな……」
ふと脳裏に浮かんだのは、もう閉じてしまった故地、その麓で今や立派な魔道士として頑張っているチョコマの顔だった。あのカノンを祖母のように慕い、愛し愛されていた。口が裂けてもチョコマ本人に言わないが、マトリフにとっても彼女は孫のような感覚がある。
だってあの娘はカノンにとってそう(・・)なのだから。
だから尚更なのだろうか。
愛した女に告白も出来ずに迷惑ばかりをかけて、最期すら看取れなかった――
カノン本人がそう望んだ生き方で、彼女は笑って逝ったのだとわかっていても。
自分はこれからもクズ野郎として生きていくと、宣言したとはいっても。
――いつまでも『あの時こうしていれば』という思いは消えることはない。反省はいくらしても良いだろうが、後悔などいくらしても過去は変わらぬとわかっているのに。
普段はこういう思いになる事はない。けれどこのところ、色んな出会いが重なったことで、波のように押し寄せてくる感情があった。
可愛がっていた弟分が無事に生きており、最終局面で根性を見せてくれた。
自己犠牲呪文で散ったと聞いていたアバン(俺の勇者)が無事でいてくれた。
まだまだ頼りない粗削りな若造たちの尻を叩いて道を示してやれた。
そして、一番大きいのは…息子のように思うようになった弟子(ポップ)が、見事に成長して巣立ち、己の力で飛んでいったことだろう。
まっぞほとアバンとの再会は『とり戻せた』とでも表現すべきだろう幸せであり喜びだった。ニセ勇者たちや、誰よりも…ポップの未来に己が何らかの光となってやれた事は、マトリフの魂に『報われた』と思わせてくれる――身に流れる血が熱くなるような歓喜だった。
その陰で――失った人々の笑顔がつらかった。無性に寂しくてたまらない。
叫びたくなるほどの狂おしい寂しさと後悔に、住処(すみか)を飛び出し月を追った。どこまで丸く見えても決して満ちてはいない今晩の月は、欠けてしまったマトリフの心と同じだった。どこまで追っても届かないのは失った魂の一部だ。
カノンの馬鹿にした口調と呆れたような苦笑。
ロカの眩(まばゆ)いばかりの真っ直ぐさと義侠であふれた笑み。
失ってしまったものへの想いは、胸に秘めていた分だけ残る。このつらさは誰にも話せなかった。話せば減るからだ。幸せな感情が誰かに話せば話すだけ、分かち合うだけ増えるものだとするならば、悲しみや寂しさや後悔といったつらい想いは、誰かに話して分け合うだけ軽くなる…ラクになるものだ。
そうしたいと思わなかった。
十五年もの間、ずっと堪えていたのに。
――いい歳して泣き上戸かい? 相変わらず情けない男だねえ。
――マトリフ、どうした? 泣いてんのかよ…しゃあねえなぁ。悪酔いはすんなよ?
「?みなよ、マトリフ殿。酒は別名を忘憂って言うからね……」
「…すまねえな、大将」
酒の辛さが喉を焼いてくれるのが、良かった。震える声をまだ誤魔化せる。目の前の仙人めいた御仁にはとっくにバレているのだろうけれど、それでも同性の前で大っぴらに泣かないのは最後の恰好つけだ。
(今更涙が出るなんてな…なあ二人とも、俺も歳喰っちまったな)
こんな、暖かな、優しい海辺には……きっと、祝い酒のほうが似合うのだろうけれど。
カノンもロカも生きていれば、アバンもレイラも呼んで、まぞっほも、チョコマだって招いて……宴会を開いて『そうして皆幸せに暮らしました』で終われるのに。
叶うはずのない埒のない夢想は、満月のように欠けが無い幸せだ。
現実は、どれだけ眩しく見えても完璧ではない。黄金の時はもう戻らない。今宵の十三夜月のように、どこかが欠けて足りないのだ。
涙を拭うと、月に照らされた己の手の皺が目に入った。
「ジジイの手だなあ」
マトリフ自身が驚くほど、しみじみとした声が出た。ブロキーナがハハと笑う。
「歳とったねえ、お互いに。…前回でもちゃんと有名ご長寿コンビだったのに」
「違いねえ。俺は前でもロカの奴に背負ってもらってたぜ」
少し笑いが零れる。
「歳とってもまだ一分間なら地上の誰にだって魔法力で負けねえ自信があったんだが……もうダメだな。今回は魔族を不意打ちの一発で倒した程度で動けなくなっちまったんだ」
オーザムの柱(ピラァ)での出来事だ。
「情けねえよ。最後の最後で役に立てなかった」
まさかあんな場所で、まぞっほと再会出来るとは思わなかったし、結果的には柱は凍り、まぞっほ達ニセ勇者御一行様に『世界の危機を救った』というデカすぎる華を持たせてやれて更生の後押しをしてやれたのだから、悪いことばかりではなかった。とは言え、それは巡り合わせの妙というだけの話だ。
考え、備えるべきは、次はそんな幸運を当てにせずにどう対処するかだ。そして、マトリフには、その『次』というものは無い――これは明らかだった。今回でよくわかった。もう飛翔呪文のような補助系ならともかく、戦闘で攻撃呪文など無理だ。
愛弟子などという言い方をすれば、ポップは戸惑うだろうが、唯一の自慢の弟子と言い切れるあの子どもが全てを継いでくれる。その嬉しさを味わえただけでも自分は果報者なのだと思うべきだ。
「…って、『べき』なんて思うのは本当は納得してねえっつう事なんだよなあ」
グラスを置いて、浜に寝転がる。乾いた砂は細かくて、下手なクッションよりも柔らかい。東の空は僅かに白み始めていた。
苦笑していたブロキーナの顔から、笑みが消えた。目は優しく柔らかいまま、老拳聖は「わかるよ」と呟いた。苦い声だった。
「わしも役に立てなかったよ。最後の最後で技が不発だった」
「……そうなのか? けど大将、アンタは大魔宮まで行って、ミストバーンとか言う大幹部とやり合ったって聞いたぞ。俺なんかとは違うじゃねえか」
「違わないさ。ポップ君にメドローアのチャンスをと思ったのに、人質にされる始末だったよ」
「え、それは知らなかったぜ」
初めて聞いた情報に、マトリフは目を丸くした。ブロキーナが力無く笑う。
「マァムが…ロカ君とレイラ君の娘が、弟子入りしてきた日に、わしは運命を感じた」
「…運命、か」
「ああ。この娘にわしの技の全てを授けようって思ったよ。けどねえ、奥義も極意もちゃんと伝えられはしたけれど、きっとあの娘にはもう少し時間が必要なんだとも思ったんだ」
両親に似て優しい娘だから、非情になりきれない。
マァムの戦い方は鏡のようなもので、敵が非情で下劣な者ならば躊躇などしないだろうけれど、敵であっても対話し、その心に通じるものがあればどこかで争いを避けたいという思いが湧くのだろう。それは美点であり人間の善性の発露と言っていい。竜騎士に神が与えたという一つが『人間の心』であるのも、きっとそういうところだろうとブロキーナは思っている。
人体の強さと精神の高みを目指す武神流の後継に、マァムほど相応しい者はいない。
けれど、戦争という極限の負の環境においては、彼女の美点は枷になる。優しさは弱者には慈悲となっても強者には甘さと映るものだ。
「だからって十六の優しい子に、『戦場に出たのだから非情になれ!』だなんて言うのは間違ってる。そんなの本来は理解も納得も必要ないんだ」
「…まあ、そうだな。そういうのは本来、大人の役割って奴だ」
「ああ。…マァムにはその時間が無かった。ポップ君にも、ダイ君にも足りてなかったんだと思うよ。補ってくれる年長の仲間には恵まれてるけど、それでも…見てて遣る瀬無かった」
ぽそぽそと語られる若い弟子やその仲間への想い。マトリフにはわかる。それはマァムを通してのロカとレイラへの想いでもあった。もちろん、勇者アバンへにも。黒い眼鏡の奥の優しい瞳は、哀しさに満ちていた。
ブロキーナが水平線に視線を投げた。まだ曙光は伸びていないが、今にも昇るだろうそれに、夜の星々は退散しようとしている。
ざわわ、という南国の音と共に、ブロキーナの長めの白髪が揺れた。本人曰く枯れ木のような身体は、仄(ほの)明るく照らされて、白々と乾いた像のようだとマトリフは思う。
油の抜けた、皺の深く刻まれた体躯が二人分、海を漂い打ち上げられた木片のように浜にあった。
老拳聖は十五年前の戦いの記憶を手繰るかのように語りだした。
それは問わず語りだった。
勇者アバンを筆頭に、ロカもレイラも若年だった。それでも彼らはハドラーの侵攻が本格的になった頃には、実力もあり、既に戦闘職としての覚悟があった。誰にだって初陣はあるが、年長組も彼らも、徐々に力と痛みと恐怖と蛮性に慣れていく期間があったのだ、と。
そんな自分たちや、自身もまだ若い勇者は、後に続く子どもらがこういう思いをしなくて良いようにと、剣を取り呪文の腕を磨いた筈だった。だというのに、再びその娘がハドラーや更に強い大魔王に立ち向かうのか――運命とは意味を考える者にはいつだって突き付けられるものだと思い知らされた。
永遠の平和など求めるべくもないけれど。当の本人たちは納得しているのだとしても。それでも年を経た自分が戦わねば…そう思い参加した最終局面で、今度は自らの限界と老いの残酷さを思い知ることになった。
「勇んで前に出たんだがね。フルパワーで戦うのは一分ももたなかった」
あれはショックだったなあ。と苦く笑う横顔。その声に、表情に、マトリフは覚えがある。
マトリフ自身が同じように限界を感じていたからだ――
「大将も、か」
――だから、それだけの言葉で伝わる感覚がある。
「うん。もういいかなって…思っちゃうねえ。元々、山奥の隠居生活だったけど、もう今度こそ本当に、リタイアする時なんだろうね」
マトリフは点頭した。きっと前大戦の頃に今の台詞をブロキーナから聞けば『謙遜するな』『まだまだ戦えるだろう』などという風に返しただろう。けれどあんな話の後でそんな言葉が出るはずもなかった。
互いに通じる年経た者同士の後悔と諦念――孵らぬ卵を抱え込んでいるかのような重さが、胸の内にあった。
一線を退くという言葉があるが、そういう事ではない。老いても戦える。技は時間があればあるほど練れるし勝負所の勘も鍛えられる。それでもこれは、もうそういう段階をすら通り過ぎたという話なのだ。
朝日が眩(まばゆ)い。これからどんどん昇っていくその光は、まるで弟子たち次世代の若さを表しているようだ。照らされた海が輝き、空の色が深い群青からどんどん変わっていく。
起こした身体から砂を落とし、マトリフは伸びをした。背後の森で鳥たちが喧(やかま)しく囀り始める。
「話し込んじまったな」
「そうだねえ。チウたちもそろそろ起きるかな」
日が昇れば通夜は終わりだ。寂しさ悲しさに沈む心を何とか奮い起こして立たなければ。そしてその後は……
「どうすっかね……。こう、どうも気持ちが整理できて、やり遂げた感もあるからな……」
「マトリフ殿……」
ブロキーナのその声に、心配されているのだとわかる。
「なぁに、別にこの歳になって世を儚むなんて殊勝さは持ってねえよ」
ただ、こうして『未来』というものが見えた時、この夜のように振り返る時が必要だったのだろう。
終焉を迎える時がくると、姿を隠す獣がいる―― そういう身の処し方を、弟子たちに手本として残してやるのが最後の役割かもしれない。
ふ、と笑う。月を追ってここまで来たが、まさかの旧友との再会が待っていた。カノンやロカが、うじうじ悩むより動けと、導いてくれたようではないか。
その月は、もう空に無い。辺りはすっかり明るかった。
だというのに、星はまだ見える。明けの明星というやつだろうか。それは東の空で強く瞬いて……
「星…か?」
「あれは…」
二人は同時に呟いた。星ではない。猛スピードで飛んでくるあれは……!
「ポップ?!」
「マァム?!」
派手なルーラの着地音が、砂浜に響き渡った。
※※※※※
ポップは余程に慌てていたのか、いつもより更に着地が荒かった。マァムが崩れた体勢をすぐに直したのは流石に武闘家ということだろう。
だが、彼女も表情に余裕が無かった。
「老師! ああ! 良かった、こんなにすぐにお会いできるなんて!!」
岩場に腰かけているブロキーナが目に入ったのだろう。ポップ達の方角からはマトリフは死角だ。マァムは師に駆け寄った。
「おお、マァム。どうしたんだい、そんなに慌てて?」
「はい! あの! 急で申し訳ないんですが、以前仰っていた『気』で人の居場所を探る方法を教えていただきたくて!」
弟子の必死の形相に「落ち着きなさい」となだめるブロキーナ。
ダイの捜索に出ている二人には、確かに有益なスキルだなとマトリフは思う。もう一人占い師の娘がいるが、彼女はいま家族の不調でパーティから抜けていると聞いたから、それでだろう。
それにしてもマァムは随分と慌てている。自分のことが目に入っていないようだ。
「勿論かまわないが、一体どうしたんだね?」
「それは…」
「老師! すんません、急に! でも師匠が! 師匠がいなくなっちまって!」
今度は武闘家師弟に割り込む形でポップが入ってきた。こちらはマァムよりも更にアレだ。必死というよりも取り乱していると言った方が正しい。顔が涙と鼻水で濡れている。
情けない。魔法使いは常にクールでなきゃいけないと教えたというのに――と、呆れた息が出そうになって、はたと気付く。
(待て。こいつ今、何て言った?)
「は? マトリフ殿がいなくなった?」
「俺が?!」
声を上げたマトリフに、気付いた若い視線が四本突き刺さった。
「し…しょう……?」
ポップがへなへなとその場に崩れ落ちた。「良かったぁあ」と泣きそうな声を出す横で、マァムが「おじさん、無事だったのね」と、これまた泣きそうになっている。今度はマトリフが慌てる番だった。
「お、おい? 一体どうしたんだ。何で俺がいなくなったなんて話になる?」
二人が自分を訪ねるのは不思議ではない。ポップが先日立ち寄るという連絡を寄越していたのだから。だからこの夜に洞窟を飛び出す前に、メモを残しておいた筈だ。
「そうだよ! そのメモ! 師匠、何なんだよアレは!」
「はあ? ちゃんと書いただろうが?」
「師匠の歳で、『俺を探す必要はない 必ず帰ってくる』とか書かれたら、逆に心配するに決まってるじゃねえか!!」
心配とその分の怒りで忙しいポップに、マトリフは言葉に詰まる。…確かにそう書いた。今考えてみれば、あのメモでは誤解を招くかもしれない。だが書いた時には、飛び出て向かう場所も決めていなかったし……と言おうとしたが、ポップとマァムの表情にそんな言い訳は飲み込んだ。
「あ〜…すまんすまん。お前らがこんな朝早くに来るとは思ってなかったし、もう帰ってるつもりだったんだ」
「朝早いって…あっちはもう結構経ってるぜ、師匠」
「は?」
そんな馬鹿なと思ったがブロキーナが「なるほど」と相槌を打つ。
「パプニカはこっちよりもずっと東だからねえ」
「…そう言や、そうか」
月を追って飛んだために、その辺りの事が抜けていた。自分も大概、冷静さを失っている。
「んで、俺を心配してくれたのはわかったが、ポップ、お前の用は何なんだ?」
「え?」
気恥ずかしさに話を変えれば、ポップはきょとんとして首を傾げた。
「用なんてねえよ。そりゃ、師匠に会った後で何か思い出せば相談したかもしれねえけどさ」
「何だそりゃ。お前らはダイを探すんだろ? そんな意味も無く会いに来なくてもいいだ、ろ……う」
マトリフは最後まで言えなかった。ポップがひどく傷ついた顔をしたからだ。マァムからも痛々しい視線が注がれた。
「おじさん」
「…会いたいって思うのは、意味の無いことじゃねえだろ」
ダイという唯一の勇者を探し続けるポップに言っていい言葉ではなかった。
「……悪かった」
そうだ。この弟子達も月を追っている。ダイが生きているという点では希望があるけれども、手掛かりというものは無いに等しいのだ。
噂や伝説を頼りに雲を掴むような旅。
マトリフ自身がしてやれる事も、あまり無い。その事実もあって、さっきまでのブロキーナとのやり取りが再び胸を突く。
老拳聖が「すまないね」と呟いた。
「老師?」
「マトリフ殿を責めんでおくれ。さっきまでねえ、ちょっと老人会をしてたんだよ」
「老人会?」
「うん。わしらみたいな歳になるとね、色々と後悔とか振り返る事が必要になるのさ。
それで、君たち弟子世代が一気に立派になって…もう、わしらは役に立たないなあって」
「老師!」
「何言ってんすか?!」
二人の剣幕にたじろぐブロキーナにマトリフは実際そうだろうと援護しようとして――出来なかった。
「役に立つとか立たねえとか、関係ねえだろ!」
「そうよ! 私たち、ゴメちゃんを失って、ダイまで行方不明で…! 老師やおじさんが無事で、こうして ただいてくれるだけで嬉しいのに!」
ズキリと胸が痛む。
マァムの顔は、二親(ふたおや)に似ていた。最愛の夫を想って泣き、それでも強く生きようとするレイラに。ピンクの髪を揺らしこちらを叱咤する懐深きロカに。
酒と共に飲みこんだ筈の寂しさが、切なさが、また顔を出す。
子供…いや、孫のような世代のこの二人も、既にその苦しさを知ってしまっている。そんな体験をさせたくなかったのに、だのに、もう代わってやることも守ってやることも出来ないのだ。それが情けなかった――申し訳なかった。…そう俯きかけた時だった。
繰り返される波の音が、ふと消えた気がした。
ポップがしゃがみ込み、視線を合わせていた。
出会った当初の洟垂(はなた)れ小僧は、どんどん成長してもう魔法の腕だけでなく背もマトリフをあっさり抜いてしまった。こんな風に斜めではなく真っ直ぐに見るのは久しぶりだ。
「師匠…おれらはダイを探すのも勿論だけど、あいつがいない間、この地上を守るって決めたんだ」
真っ直ぐに見つめられ、告げられる。その言葉には覚えがある。
「ああ…そうだな。ダイに、あいつが守った平和な地上を見せてやって、あいつが誇らしく胸を張れるようにしようって…お前、旅に出る時に言ってたな」
それを聞いた時、立派になったなと感慨深かったのを覚えている。
修行の後半から見直すことしきりだった弟子が、本当に一人前になり、人間として並んだと感じた瞬間だった。そう。今のように。
ポップの目元が優しく弧を描いた。それは、全く似てなどいないはずなのに、カノンを思い出させる笑みだった。
「うん。そうだぜ。でも、それだけじゃねえよ」
「なに…?」
「あいつが守った地上を…、おれらが勝ち取った平和を――」
――今度は、ずっとおれらを守ってくれてた先生や師匠や老師に味わってもらいてぇんだ。
※※※※※
な? と笑顔で振り向くポップに、マァムが微笑み頷いている。彼女は彼女で、その手は老いた師の手を包んでいた。
それをぼぅと見ながら、マトリフは己の身体を風が通り抜けていくのを感じた。ブロキーナが微かに仰(の)け反(ぞ)るようにしたのは、きっと自分と同じだろう。
風の中に、皆がいた。カノンがいた。ロカがいた。皆が笑い、この平和を尊び喜び、マトリフの肩を叩いていく。時はどんどん下り、最後に小さな金色の翼を持つスライムが弟子達の周りを飛んで、マトリフを純真な目で見つめて、風に解けた。
待ってくれ、とはもう思わなかった。追わずとも、もう皆は――マトリフの中にいる。
(嗚呼…長く生きたもんだ……)
同じ事を、幾度も思った。その時と今では全く違う意味なのがおかしかった。
「…ありがとうよ」
本当に有り難いことだ。このクズ野郎が弟子に諭されるだなんて、そんな幸せを知るだなんて。
「ああ本当に。長生きはするもんだねぇ」
肩を震わせてブロキーナが笑いだす。眼鏡の奥が光っていた。
「よし! それじゃあ、これからも口うるさいジジイとしてしぶとく生きてやらあ! ポップ、後で課題出すからな、楽しみにしとけよ」
げぇと顔を顰める弟子に笑い、そのかっちりしてきた肩を叩く――皆と同じように。
「全部、託されてくれるんだろ? そんで…お前の勇者をとり戻せよ」
「おう。…せいぜい長生きしろよな、師匠」
寂しさは消えない。悲しさも消えない。痛みは消えない。薄れることはあっても、消えることはない。
十三夜月のまま、永遠に満月にはならない。
それでもこの心は、魂は、もう二度と
月を追うことはないだろう。
(終)
(25.09.15UP)
