「よく来てくれました、ポップ。待っていましたよ」
明るく優しい空気が、部屋に通された途端に自分を包み込むのを感じて、ポップは反射的に身を強張らせた。
「…お久し振りです、先生」
部屋の入口に立ったまま、ポップは会釈する。途端に彼を案内してきた侍従から、小さく叱咤の声が飛んだ。
「無礼ですぞ、大魔道士殿! アバン様に向かって、そのような」
「構いませんよ」
責める侍従の言葉をピシャリと遮り、アバンは自らポップの元まで来ると手を引いた。
「あ、もう下がってもらって結構ですよ。後は私がしますから」
それは侍従に向けた言葉。「しかし」と言い募ろうとする男に、アバンは笑って告げる。
「可愛い弟子が訪ねてくれたんです。積もる話もあるので、二人きりにしてほしい。…そう言っておいた筈ですが?」
最後はとても低い声音だった。有無を言わせぬ迫力に侍従は慌てて退室し、部屋には師弟二人だけが残された。

ポップに椅子を勧めたアバンは、慣れた手つきでお茶を淹れていく。かつて二人だけで旅をしていた一年の間に、毎日のように見た流れるような所作は、その旅が随分な昔となったいまでも、全く衰えていない。
ポップは唇を噛んだ。変わらぬ師の様子に、旅の間の風景が脳内に再生されそうになるのがわかったからだ。
優しくあたたかなのが当たり前だった空気。鮮やかに輝いて見えるのが当然だった世界の風景。―――いまの彼があえて見るまいとしているものが、ドッと押し寄せてくる。
「ポップ、今日は栗のタルトを焼いたんですよ。あなた、これが好きだったでしょう? 旅の間に何度もリクエストしてましたもんね。あ、それとも昨日作っておいたクッキーの方がいいですかね? これは自信作なんですよ!」
「先生、」
うつむいて発せられた呼び声は、何かをこらえるように震えていた。
「…ご用は、何ですか?」
少しの間のあと、小さな溜息が部屋に響いた。湯気をたてる紅茶が置かれたが、菓子は出さぬままに、アバンはポップの対に座った。
しばらく無言だった二人だが、アバンの方から口火を切った。
「毎日、研究で忙しそうですね」
「っ…はい」
思わず声が硬くなる。
アバンが、自分のやろうとしている事に思い至っているのかどうか、ポップには判断がつかない。知らないのならば、この会話によって探ろうとするのだろうし、知っているのであれば、協力してくれるのか、それとも阻止しようとするのか……一体どちらだろう。

親友を救うために過去へ戻る―――常人が聞けば狂っていると断じられるだろう目的のため、ポップは研究をしている。その事を彼は他の誰にも話したことはない。ただ…研究のために結構な無茶をやらかした事がしばしばあり、その報せがカールという一国のトップに立つアバンに届いていないはずもなかった。
尊敬する師である彼に「私以上の切れ者」と称されたポップではあるが、知識や経験はまだまだアバンに遠く及ばない事くらい承知している。学者の家系に生まれて膨大な学問を修めている師が、伝え聞いただろう自分の『無茶』の片鱗から、目的を探り当てている可能性は決して低くないのだ。

「噂は聞いています。色んな所を巡っているようですね……」
紅茶を飲みながら、アバンは静かに話す。非難めいた口調ではないことに、ポップは顔には出さずほっとした。
「難しい研究なのでしょう?」
「…はい」
―――難しいと言うならば、これ以上はないほどの難解さだ。求めるのは、神の定めた摂理の網をかいくぐる方法。それは、見る者によっては絶対者への反逆ととられても仕方がない行為だった。
「一人で、やっているのですか? 誰の協力もなしに?」
「はい。……皆、それぞれの役割がありますから」
―――だから巻き込む事はしない。…巻き込みたくはない。平和を勝ち取った世界で、仲間たちはそれぞれの道を前に歩いていくべきなのだ。この世界にはまだまだ皆の力が必要なのだから。そう………それぞれにすべき事がある。役割がある。ならば、親友を救う役割を担うのが自分なのだというだけだ。
「そうですか…」
愛弟子の黒い瞳をじっと見つめた後、アバンは軽く目を伏せた。腕を組み、何かを考える風だった。その表情からは何も読み取ることが出来ず、ポップは落ち着かない。
ややあって、彼はポップに微笑んだ。
「辛く苦しい事なら、やめるように言いたいんですが……」
優しいその言葉に、ポップは静かに頭を振った。師の薄茶の瞳を真っ向から見据えてその動作をするのは、非常に勇気のいることだった。
軽い注意や叱責なら修行期間に何度ももらったが、どんな小さなそれであれ、自分を想っての言葉なのだ。逆らう事など夢にも思わなかった。だと言うのに―――
「そうですね。あなたは、そういう子です…」
―――ここまで大きな想いを向けられて、それでも自分は師の手は取れないでいる。取りたい手は、もう決まっているからだ。

あの日、蹴り落とされて離してしまった親友の手。次に掴んだならば、もう二度と離さない…!

「先生…、先生は……」
何かを言いかけて、ポップは口を噤む。
アバンがどこか哀しそうな微笑を浮かべ、弟子の肩に手を乗せた。
「人にはそれぞれ、役割がある…その通りです、ポップ。…私は私が己に課した役割を果たしましょう。そして、あなたがあなたの役割を果たすことを……心から願っています」



その会話があってから数日後、再びポップはカールの王城へと招かれた。
今度は、アバンだけでなくその妻であるフローラ女王の姿もある。戸惑う彼に、一人の少年が引き合わされた。
「キャトルと申します。はじめまして、大魔道士様!」
両親に似て、とても綺麗な顔立ちの王太子は、きらきら光る目でポップを興味深げに見つめ、笑った。
そうしてポップは、王太子の魔法の師を拝命したのだった。―――爾来、彼は長年に渡ってカールに出入りし、代が替わっても、王の信厚く余人に代え難しという事で、再び王子に魔法を教えることとなる……。





最早はるか昔にも思われる過去を、ポップはサンクの青い髪から思い起こしていた。

どちらかと言うと攻撃魔法に偏ってはいるが、現国王であるキャトルに魔法の素質は充分あった。彼は、ポップの教えることを素直に受け取り、自分なりに努力をして力をつけていく……良い弟子だった。今でも国内では一番の使い手だろう。
もっとも、ポップは最初、弟子を持つことを断った。自分は人を導けるような出来た人間でもなければ、そんな時間もないというのがその理由だ。だが、アバンは頑として聞いてはくれなかった。
我が子に優秀な師をつけたいという親心を理解しろだの、給金を弾むだの、色々と言われたが……
『王族とコネクションを持っておくことは、プラスになると思いますよ? 様々な事で、融通が利きますからね。…あなたの為にもなると思うんですが?』
決め手となったのはその言葉だった。
事実、大戦の功労者であるアバンの使徒の一人であり、更には当代のカール国王とその世継ぎの王子二代に渡っての魔法の師というポップの肩書きは、カール王国はもとより、他国でも、少々の無茶を無茶とはされなくしてくれた。
おそらく、アバンはポップの目的を察していたのだろう。けれどその事には一切言及することのないまま世を去った。
その上で王子である我が子をポップに預けてくれたのは、為政者としての役割を逸脱しない範囲で、遠回しに支援してくれたのだ―――

当時を振り返りつつ、ポップは遠い目をする。
「師匠?」
サンクが怪訝そうに首を傾げた。その顔は、父親よりも更に祖父に似て、ポップに既視感を抱かさざるをえない。
彼も父親と同じく、良い弟子だ。こっちは本当に赤ん坊の頃から見てきたため、どうしても子供扱いしてしまうのだが、それでももうすぐ父親が王位を継いだのと同じ歳になる。
ポップには子供はいない。けれど、彼らを通して人の成長というものを見せてもらった気がする。繋がっていく命と、支えあい、結ばれていく絆を……
「……しょう? 師匠? ……先生?!」
サンクの大きな声が、彼の思考を遮った。
「…なんだよ?」
「ああ、良かった。あんまり返事をされないもんですから、心配したんですよ」
大袈裟に肩を竦める弟子に、ポップは鼻を鳴らす。
「馬鹿野郎。こんな所でくたばるか。…それより、お前…」
「はい?」
低く言い差した声に、サンクは明るい瞳を瞬かせる。
「また『先生』つったろ…やめろって言っただろうが」
「あれ? そんな呼び方しました?」
とぼけた表情に、ポップは溜息をつく。サンクの態度は、無論わざとだ。
「したよ……。まったく…お前も、キャトルも、俺があれだけイヤだって言ったのに、たまに呼ぶよな」
むすっとした彼に、若い弟子は「だって」と笑う。
「師匠は、私にとっても父にとっても先生でしょう?」
「………やめろって。俺は…先生って柄じゃねぇんだ」
年老いた大魔道士はぽつりと呟いた。彼にとって、先生という単語は特別なものだった。
ならば師匠はというと、この単語にも無論特別な想いがあるのだが、こちらが『追いつきたい存在』であるならば、先生と言うのは『仰ぎ見る存在』と言うべきかもしれない。
まだ世界の裏側を知らない頃の真っ直ぐな自分が、絶対の存在として導き手に選んだ人―――それがポップの中での『先生』のイメージだった。…己がそれに見合う人間だとはとても思えない。
だから、彼らを弟子に迎えた時にしっかりと釘を刺したのだった。具体的には『先生って呼ぶのは勘弁な。それ以外なら好きに呼んでくれて構わない』と。……二人とも諒承してくれたはずだったのだが、何故か時たま『先生』と呼びかける事がある。
「―――と言われましてもね」
「……何だよ?」
意味ありげにサンクは微笑んだ。

「お祖父様の遺言みたいなものですし」

「………なに?」
時間の流れが急に止まったかのような錯覚の中、サンクの微笑が深くなった。





小走りに廊下を過ぎ、目的の部屋の前でサンクは立ち止まった。
ノックをすれば、すぐさま返ってきた「どうぞ」の声。
「おじいさま!」
開けてすぐに目に入った人…自分と同じ青い髪の人物に、サンクは抱きついた。抱きつかれた方は、動じることも無く、サンクの頭を撫でてくれる。
「ああ、サンク。もう勉強は終わったんですか?」
「はい! 今日ははじめて魔法を習いました!」
祖父の瞳が眼鏡の奥で瞬いた。ややあって、「そうですか」と祖父―――アバンはいつもの笑みを浮かべ、サンクをお茶の席に招いてくれた。
あたたかいお茶、手作りのお菓子。いつもそれらをスッと出してくれる優しくて楽しくて不思議な人―――それがサンクの大好きな「おじいさま」だ。今も、飴色に光る山盛りのクッキーとミルクをたっぷり入れた紅茶が目の前に置かれ、彼は授業で疲れたのもあって、むしゃぶりついた。テーブルマナーにうるさい母とは違い、祖父はこれしきの事でガミガミ言わないのだという事を彼は知っている。
少しいつもと違うのは、お茶を出してくれる間でも色々と話してくれる祖父が、今日は無言だったという事だろうか。
「……魔法の授業と言うと、大魔道士殿が先生ですね?」
「はい。えっと…ホイミとメラの契約をしました。それから、瞑想の仕方も…」
授業の出来事を勢いよく話すサンクに、祖父は鷹揚に頷いた。
「楽しかったみたいですね。ですが、ポップ先生は結構厳しい鍛え方をしますから、頑張らないといけませんよ」
「はい。せんせ…師匠は、父さまに負けないように頑張れって、仰ってました」
言い直した彼に、アバンは苦笑した。
「『先生』じゃないんですね……」
「あ……『先生って呼ぶのは勘弁な』って。前に、父さまも同じように言われたって…」
どうしてなんでしょう? 素朴な疑問に首を傾げる。今日彼が弟子入りしたばかりの師は、その禁止令を出す時に、とても遠い目をしていた。その事も引っ掛かっている。
「さあ…どうしてでしょうね」
とても静かな声だった。
祖父を見上げて、ああ…と思う。いまの祖父の目は、大魔道士がしていたのと同じものだったから。
大きくあたたかな手が、髪を梳くように軽くサンクの頭を撫でる。
「呼んでも良いと思いますよ」
「え?」
「先生って。呼んであげなさい、ね?」
「で、でも…」
「たまに、なら良いと思いますよ。たまに…そう…あなたがポップに、どうしても振り向いてほしいと思うような時にでも……」
サンクは、祖父がどうしてそのような事を提案するのか測りかねた。しかも、たまにと言いつつ、やけに具体的だ。
振り向いてほしい―――そんな風に思うくらいならば、追いついて声を掛ければ良いだけではないだろうか?
そう言えば、祖父は小さく微笑って「そのうちわかります」とだけ応えた。
「はい…。でも…大魔道士様、嫌がらないかなぁ…?」
それが心配だった。他人の嫌がる事は、なるべくすべきでない―――というのは当たり前だ。それとも、自分がわかっていないだけで、大魔道士は『先生』と呼ばれるのをそれほど嫌がってはいないのだろうか? 祖父と彼も師弟の関係だから、暗黙の了解というものがあるのかも知れない。
だが、祖父アバンはしれっと答えた。
「そりゃあ嫌がるでしょうねぇ」
「…え? …じゃ、じゃあ、どうして?」
尋ね直したサンクへ、祖父は笑った。至極あっさりとした口調と笑顔で。

「無論、嫌がらせです」

今度こそ言葉を失ったサンクに、アバンは苦く笑う。
彼はやおらサンクを引き寄せた。椅子に座ったまま、立っている祖父の肩のあたりに頭を預ける形で、サンクは抱きしめられた。小さな子供じゃないんだから…と思わないでもなかったが、されるに任す。
そんな彼の頭上に、ぽつりと呟きが降った。

「だって、悔しいじゃないですか。頼ってももらえないなんて……。可愛い弟子が何をやらかしたって、迷惑でもなんでもないんですよ…少なくとも私はね……」

「…おじいさま?」
どうしたんですか、という問いは永遠に咽喉の奥に引っ込んだ。見上げた祖父は自分を見ておらず、その瞳は哀しみで満ちていて、声などかけられなかったのだ。

「本当に…そんな気遣いが出来るくらいに大きくなって…昔の、子供のままでいてほしいなんて言うのは、私のワガママですけど……。…巻き込んでくれても良かった…巻き込まれてこそ、出来ることもあったでしょうに…。ですが、それが更にあの子を苦しめるのなら……このままでいいんでしょうね………」

呟きの意味はまるでわからなかった。だが『あの子』というのは、誰だかわかった気がした。
これほどまでに苦渋の色を浮かべた祖父を見るのは、サンクには初めての事だった。一体どうしてこんなにも、祖父は苦しんでいるのだろう? ―――答えをサンクは持たず、また、尋ねても祖父が答えてくれないだろう事がわかっていた。
(おじいさま、そんな苦しそうな顔をしないで。ねえ、僕を見て。いつもみたいに笑って下さい…!)
言い出せるはずもない想いが、胸の内で木霊する。
明るい日差しの降り注ぐ窓辺。伝わる鼓動と体温が心地良い。…けれど、祖父が抱きしめているのは、自分ではない。このぬくもりは、自分へのものではない。
その事を指摘して祖父を責めるほど、サンクは幼くはなかったが、祖父の傷を癒す言葉の一つをかけられるほど、大人でもなかった。出来る事など何も無く…だから彼は、祖父の表情から逃げるように、瞼を閉じた。





「もう随分前の話ですけど……」
話された内容に、ポップは動揺を隠せなかった。あのアバン先生がそんな事を言っていたなど、思ってもみなかった。
「そんな…ことが………」
ポップは呻く。
やはりあの人は、自分の目的を察していたのだ。わかっていて、それでも止めずにいてくれた。むしろ、自分が打ち明けるのを待っていたのだ―――天に唾しようとする行為であるというのに…!
「ええ。だから、私はお祖父さまの言葉を守ったまでです……先生」
「っ…!」
『先生』―――その単語が、ポップの胸を突いた。
自分にとって、どれだけあの人の存在が偉大だったことだろう。
何もかもを話して相談して…どれだけ縋りつきたかったかわからない。それをしなかったのは、巻き込みたくないという想いだけではなかった。反対され、諦めるように諭された時、揺らがないでいる自信がなかったからだ。

『…あなたの為にもなると思うんですが?』

不意にアバンの声が脳裏に甦って、ポップは手で顔を覆う。
協力してくれたのだと、そう思っていた。表立って支援することが出来ないが故に、王子の師という立場を与えてくれたのだと……。
もちろん、その意味もあったのだろう。だが、それだけだと思っていた自分は、なんと愚かだったのだろう。
日夜、研究に明け暮れ、様々なトラブルを巻き起こしていた当時の自分。目的のために進むことしか考えず、周りとの軋轢を気にも留めない、そんな男を次代の王の師とするなど、家臣団から激烈な反対があったはずなのだ。…なのにあの人は、それを押し通した。

―――自分を孤独から護るために。

ツンと鼻が痛くなった。指の間からサンクの顔が見える。
赤ん坊の頃から見てきた弟子。その父親も子供の時から世話をしてきた。つっけんどんに教える自分に何故か彼らは懐き、纏わりつくような事さえあって。戸惑いながらも相手をしつつ、いつしか、その成長を心から喜ぶようになった自分がいる。
そんな自分の姿を、いつでも見守ってくれている目があった。伊達眼鏡を通して自分に向けられている優しい視線を、いつだって背中に感じていたはずなのに…!

「…………っ」
一度深く呼吸をして、彼はふるりと頭を振った。
顔から離した手を見つめる。
深く皺を刻んだ己の手……思い返せばこれは、多くの人と繋いできた手だ。そして、同じだけの数を振り解いてきた。

『―――思いはみんな一緒よ』

浮かんだのは、犠牲にしてしまった…愛した女の声だった。枕辺にあって背中をさする自分に、息を切らしながら告げられた言葉だった。
(ああ、本当だ…。お前の言ったとおりだったんだな……)
こんな年齢になって、今更のように思い知るだなんて、本当に自分は愚かだ。
ただ一つの願いにのみ生きる愚者をそれでも愛してくれた彼女は、既にこの世にはない。もう何年前になるのだろう。彼女を送ったころから、流れる年月を数えるのはやめてしまった。
そうして師も旅立ち、仲間達も次々と見送って、最後に残ったのは自分だけ…。そう…自分の役割だけが、残っている。

心底愛した女の手、尊敬する師の手…様々な人、様々な出来事。その都度、誰かしらが差し伸べてくれた手を、自分は取らずにやってきた。そして―――

脳裏をよぎった記憶の波が、ゆっくりと引いていく。優しく、あたたかな想いを与えられていたことを思い出し、それでもなお残るのは現実という名の岸。過ぎ去った年月に削られ、より存在を増した決意と覚悟という名の岩場だった。
ポップの目が、細く、鋭くなる。
手を下ろし、正面に向き直った彼は、もう普段通りの平静さを取り戻していた。



サンクが、紅茶を飲み終わり、カップをテーブルに戻した。
「師匠、お願いがあるんです」
「…ん?」
おもむろに口を開き、若い王太子は依頼をする。
「半年後に即位式があるんです。先日の閣議で決まりました。……師匠に、出席してもらいたいんです」
はにかむような表情になり、彼は続ける。
「父も、是非にと申しております。ご都合がつくようでしたら、どうか」
招待された側は、薄く笑う。
「即位…か。お前ももう、王様になるんだな…」
それはどこか確認めいた口調だった。「早いもんだ」とポップは続ける。キャトルの式に参列したのも、つい最近のような気がするのに。
「…まぁ、考えとくよ」
小さな笑みを口元に刷いて、彼は立ち上がった。
半年後…そんな先の話など、約束は出来ない。いや、きっと、その日を迎えてしまえばあっという間だったと感じるのだろう。…自分が生きてきたこの数十年が、そうであったように。
だが、半年後…おそらくその頃には、自分は……。
「宜しくお願いします。師匠に出席してもらえれば、私も嬉しいです」
ほがらかに笑うサンク。祖父母や両親の真っ直ぐな気質を受け継いだ彼は、きっと良い王になるだろう。騎士の国らしく、実直で堅実な政治を敷き、民を守っていくはずだ。
はっきりとした答えは返さぬまま、ポップは腰を伸ばす。
「そろそろ帰るよ。…お茶、ありがとうな」
告げるなり、ドアではなくテラスの方に歩き出す彼を、サンクが慌てて追いかける。
「父には会っていかれないのですか?」
「…いいんだ。さっきもう別れは告げたから」
ほんの少し、返事に間があったが、サンクは気付かなかった。
「では、せめて門から。お見送りさせていただきます」
「いらねえって。俺一人のために、人数割くなって言ったろ?」
王太子の部屋。そこに設けられたテラスへと通じるガラス戸に、ポップは手をかける。
サンクが呆れたという顔をして、小さく溜息をついた。たまの事ではあるが、ポップは城の門まで歩くのが面倒だと、このテラスから発つ事があった。今回もそうしようというのだろう。それは本来とてつもなく無礼なことなのだが、城の者が大魔道士の破天荒な行動に慣れているのもあって、問題視される事は最早なかった。

弟子の溜息を知ってか知らずか、大魔道士はガラス戸を軽く押した。
開けた先には内海に面した世界が広がっている。王都を臨むこの風景は、とても美しかった。
平和な…どこまでも幸せに満ちた世界。
それは確かに自分達が望んだものであるはずなのに、どうしてこんなにも恨めしいのだろう…。
「…先生……」
その声に振り返る。サンクが、杖を持つ手を己のそれで包み込んでいる。
「……何でもねぇよ、サンク…」
自嘲する。これと同じような事が何度もあったなと。
愛した女の手、尊敬する師の手、そして―――大切な弟子の手も、自分は結局振り解くのだ。

「…王太子殿下」
ポップはサンクを呼んだ。その呼称に、サンクの目が丸くなった。…無理もない。彼が弟子にこんな風に改まった呼びかけをすることなど、これまで一度たりともなかったのだから。
立ち尽くす王太子に、大魔道士は微笑んだ。

「殿下、良い王になられませ。何卒この国を善き方向へと導いていかれますように。自分は、いつまでも…いつまでも、御身の繁栄を願っております」

ポップは微笑み、そして、一礼した―――未来を担う者に対しての、最大限の敬意を込めて。
「せん…」
サンクの声を振り切るように、身を翻し。次の瞬間、飛翔呪文の軌跡を残して、大魔道士は場を辞した。
残された弟子は、言葉もなく空の彼方を見つめた。
何故か一瞬、幼い頃の祖父との会話が脳裏をよぎる。
…ああ、本当だ。追いついて声をかけることなど、出来はしない。残される者は、とどまるしかないのだ。
「先生……」
ならばせめて、振り向いてほしいと呼ぶのだけれど。最早、それすら叶わないのだということを、サンクは心のどこかで理解していた。
先程まで掴んでいた師の手の温もりが、何だかとても哀しかった。




眼下に広がる景色は雄大だった。
大戦の荒廃から復興を果たしたこの国は、現在、繁栄の真っ只中にある。
青空の下、赤いレンガ造りの建物が連なり、路地では子供達が遊びに夢中になって走り回っている。一角では市が立っており、威勢のよい声が飛び交っていた。上空から見回しても、人々の幸せそうな様子が手に取るようにわかり、ポップは目を細める。
もはや、大戦の時代を知っている者はほとんどおらず、平和は当たり前のものとなっている。少なくとも、人間はその幸せを満喫している…いまはそんな時代だ。
当たり前のものとなった平和…。だが、ポップにとってはそうではなかった。いまのこの平和は、ポップと仲間達とが命懸けで戦い、幼い親友がその身を呈して守り抜いてくれたものだ。…だからこそ、見守り続けることが出来たとも言える。親友が守り抜いてくれたものを、ポップが疎かにしてしまっては、再会したときに会わせる顔がない。
(だけど…もういいよな……)
心の中で呟く。もういいだろうと。
自分はもう、老いた。人の世界は二代を交代せんとするほどに時間が流れた。子供は大人になり、更に次の世代に伝えるべきものを作り出す時期に来ている。もうお守りは必要なかった。
どれほど魔法力を高めても、どれほど身体を鍛えても、哀しいかなポップの身体は人以外の何者でもない。……もう時間は残されていない。

見下ろす街は、幸せに溢れ、どこまでも平和だった。そしてこの風景は、規模の大小こそあれ世界中どこでも見られる景色だ。
人々が行ったり来たり、笑ったり泣いたりするそのささやかな日常…一人ひとりの幸せが集まって、この街の、国の、世界の平和を形作っている。
百万の人がいれば、百万通りの幸せがそこにはあるのだろう。それぞれの幸せが、パズルのピースのように組み合わさって、『平和』という一枚の美しい絵を作り上げている。

百万の平和。百万のピース。―――けれど、その中に、お前はいない。お前という、誰よりも何よりも必要なピースが、どこにもない…!!

「ダイ…!」
震える声が、名前を紡ぐ。
「ダイ……!!!」
天に向かって、ポップは吼えた。あの日、青空に消えた親友の名を。彼の中で決して完成しないままの『平和』の絵、その欠けた最後のピースの名を。
青い空は、何も答えない。
彼は天を睨み、拳を作る。
それは、幾度も振り解いてきた手だった。
『あなたの願いは、もうあなた一人の願いじゃない。―――思いはみんな一緒よ』
『あなたがあなたの役割を果たすことを……心から願っています』
幾度も幾度も差し伸べられ、振り解き……そのたびに、託されてきた想いを握り締めてきた手だ。



「…俺は、必ずお前を救う。救ってみせる……!」



この手で必ず、お前を掴もう。託された想いごと。お前の幸せごと。―――今度こそ絶対に離さないように。



(終)



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