箱庭を照らす月光


 街道を行く人は多い。特にこの道はベンガーナ王都に繋がるためか、テラン方面からやって来た人々も加わり、いくつかのグループが出来ていた。
 しばらく山道を歩いていたため、よく舗装された道はアバンにも嬉しかった。特にいまは同行者がいる。しかもかなり年少の。
「アバン様、ここをずっと進むとベンガーナ王都でしょう。アバン様の目的は、そこから東に折れる村ですか」
 同行者は村の名前を口にする。それは確かに、アバンが目的にしている小さな村の名だった。王都の近くとしか情報がなかったから、道なりに王都に着いてから人に聞いて、乗り合い馬車にでもと思っていたのだが。
「ええ…よく知ってますね、ポップ君。行った事があるんですか?」
「いいえ。さっきの看板に小さく書いてあったから」
「おや、そうでしたか。気付きませんでした。よく見てますねえ」
 おだてたつもりはなく本心だった。同行者――ポップ少年は「へへっ」とはにかむように鼻の下をこすって笑う。
 その軽い笑いを見て、アバンは内心で「どうしたものでしょうか…」と独りごちる。

 この少年――ポップは、アバンが五日前に立ち寄った山奥の村ランカークスの、武器屋の一人息子だ。
 アバンは壊れてしまった自分の剣の修理に村唯一の武器屋に行き、そこで退屈そうに店の手伝いをしているポップに出会った。
 厳つそうな店主の父親とは違い、お母さん似なのだろう。優しい顔立ちの(悪く言えば柔弱な)男の子は、ようやく成長期に入ったばかりといった風で、それくらいの子どもにはありがちな冒険譚などを大変好んだ。
 ランカークスは山村にしては発展しているほうだが、それでも田舎だ。ポップは村の外へはほとんど出かけたこともなく、外の世界への憧れに満ちた目で自分を質問攻めにした。剣の修理にかかる間だけと、アバン自身も、ポップの両親もそれを許し、また色々聞くことで憧れが落ち着くのを願ったのもあったろう。ポップが聞き上手で話を実に嬉しそうに聞いてくれるのもあって、アバンは様々な事を聞かれるままにポップに話したのだった。

 そして次の日、朝早く村を出立したアバンは、昼過ぎに自分を呼ぶ声に気付いて振り向き、目を丸くした。
『ポップ君?!』
『アバン様、おれも連れて行って下さい。お願いします!』
 村からずっと自分を追ってきたのだろうポップ少年が、後ろに立っていた。



 帰るように何度も説得した。しかし、素直な少年はその言葉にだけは耳を貸さなかった。平和な村にいることがどれだけ幸せな事かを説いた。両親が健在で帰る家があることの有り難さも説いた。
 勿論、外の世界の危なさも口を酸っぱくして説いたのだ。
 武器の扱いも出来ない、いかにも旅慣れていない子どもが、アバンを追う為だけにただ一人で村から抜け出した。それがどれだけ無謀で、そして無事に合流できた事がどれだけ幸運なことだったか。
 確かに魔物達はいま、魔王ハドラーの影響が無くなったことで大人しくなった。しかしだからと言って人間を襲わないと言うわけではない。そうでなくとも野生の獣がいる。知らぬうちに彼らの領域に踏み込めば襲ってくるに決まっている。更にもっと性質の悪いものは匪賊のたぐいだ。ポップのような子どもが襲われて無事でいられるはずもないのだ。
『大丈夫です! おれ、凄く運がいいんで! だからアバン様も見つけられたし!!』
『そういう問題ではありませんよ! ご両親だって凄く心配されてるに決まっています!!』
『!…でもっ!』
 家族の話をすれば、黒い瞳は必ず揺れる。それだけで、この少年がどれだけ愛されてきたか、また、その愛情をわかっているかをも伝わってきた。
 年齢は十三というから、アバンがハドラーを斃してすぐに生まれた子どもだ。愛し愛され、平和のうちに育ってきた、甘ったれの子ども。アバンが誰よりも守りたいと思ってきた人々の理想の姿をとって現れた、それがポップだ。そんな理想が、自分から危険に飛び込んでいくだなんて、絶対に許容できない――!!
『じゃあ…じゃあ、少しだけでいいんです! おれ、アバン様についていきたい! 外の世界を見たい!! 初めてなんです、自分から外に出たの! こんなに勇気を出したのも!!』
 アバンは息を飲んだ。
 気圧されるというのも変だが、余りにもポップの様子が必死だったことに半ば説得されそうになる。
 それに…ポップ君の気持ちはわかるのだ。外の世界を見たいという思いは。未知の世界への溢れる好奇心は、だれにとってもきっと抗いがたいものであるから。
(仕方がないですね……)
『…では数日だけですよ。それまででも、あなたが旅について行けないようでしたら、すぐに村に戻ってご両親のもとに帰します』
 結果、アバンは折れた。この少年に少し旅の基本を教え、獣を狩らせ、野宿を経験させれば、家庭のありがたさと幸せがわかるだろう、と。
『!! ありがとうございます!』
 満面の笑みで礼を言われ、仕方なく同行を許した。もとより一人にしておくわけにはいかない。旅をしたという実績を作らせて、満足させればいいだろう――そう思っていた。


     ※※※


 太陽がそろそろ中天に差し掛かる時、前を歩いていたグループが歩みを止めた。昼食をとるのだろう。
 それを機に他のグループも次々と小休止という流れになった。
 行商の者たちは、休憩と同時に店を広げる。さながらその一帯はバザーの様相を呈していた。
「うわぁ…!」
 目を輝かせてポップがその様子を見るのを、アバンは苦笑して見ていた。
(そうですよね。楽しいですよね…)
 今迄の小さな世界から外に出ることは、とても勇気がいって、とても危険で……とても素晴らしいことだ。見るものすべてが輝いて見える。珍しくて不思議に満ちていて、どんな小さな事でも好奇心を刺激してやまない。

 商人たちが街道沿いに敷物を敷き詰める。その様々な色だけで、祭りのようだ。アバンたちと同じく徒歩の者で商売をしない者は、簡易な昼食を片手に頬張りながら、買いものを楽しむ者がほとんどだ。
 かなり前方になるが、だいぶ大所帯の一団もあり、彼らは分けて持っていた荷物から何か様々な棒や布を取り出した。瞬く間にそれらは組み立てられて天幕ができる。遠い地方の遊牧の人々が使うゲルという天幕かもしれない。

「すっげぇ…! こんなの初めて見た! あいつらだってきっと知らねぇ!!」
 嬉しそうに少年が笑う。あいつらというのは、きっと村の友人たちだろう。
(満足しましたかね…)
 ポップはなかなかに利発で、物覚えが良かった。
 野営の仕方だって、ポップは手際よく覚えた。料理も簡単なものを教えてみると二日目からは自分でアレンジしてきた。
 道々薪にできそうな木の枝があれば拾って歩く事や、飲める水の見分け方、市販されるほどでもないが効能のある毒消し草や薬草の特徴、星の見方…そういった基礎の基礎ではあるが、町や村で平和に暮らすなら知らずに済んだだろうことを中心にアバンは教えた。
 一度、戦闘になったことがある。大ナメクジの大群だった。アバンの閃熱呪文であっさり焼き払ったために、ポップは下がっているだけだったが、村に攻撃魔法の使い手はいなかったらしく目を輝かせていた。
『アバン様が呪文を唱える直前に、何かわからないけど身体が光ってて、それが凄く綺麗でした!』
 驚いたことに、ポップは魔法力の高まりを視認することが出来た。もちろん彼は今までどのような呪文も契約したことはないという。魔法未経験者でそれがわかるのは非常に珍しいことだった。

(もしかしたら、魔法の素質が充分にあるのかもしれませんね…。いやいや、それでもこの子は明日には帰さないと……)

 アバンの心の中に葛藤が生まれていた。

 長らく独りで旅をしていたアバンにとって、同行者は久しぶりのことだった。少年に厳しい態度を取れたのは少しの間だけ。明るくて朗らかで素直でお喋りなこの少年と一緒に歩くのは、楽しいの一言に尽きた。本当に村の外に出ることは滅多になかったようで、幼子のようにアバンを質問攻めにしてきたが、忍耐強く答えていると、たまにハッとするような気付きを述べてくることもある。
 この少年の前に教えた子は二人。そのどちらも教えた頃は少年の年齢よりも幼かったが、今はどうしているだろう。このポップとはきょうだい弟子ということに……
(…何を考えているんですか、私は)
 いつの間にか、ポップ少年を弟子にとったと錯覚していた己にアバンは愕然とする。
(この子は、もう親元に帰す子だ。本人も外の世界が見たいだけで、弟子になりたいとは一言も言ってないんですから…)
 平和な村で、平和に過ごせる優しい未来を奪ってはいけない。

 たった数日だけれど、それでもポップ少年の中ではこの旅は大きな経験になったはずだ。このバザーは良い土産話となっただろう。目の前で攻撃呪文を見たのも新鮮だっただろう。当初の予定通り、村に着いたら一泊して、ベッドの良さを思い出させて翌朝キメラの翼でランカークスに送り届ければいい……。

 そう、それが本来の予定。アバンの中で、次の村には大した用事はない。だが、ベンガーナの王都に行けば歓楽街やデパートなどがあり、若い子には刺激が強すぎて絶対に帰らないとなるだろう…そう思い、わざとのんびりと色々教えつつ、田舎巡りをしていたのだ。
(…少し時間をかけすぎたかもしれませんが…いえ、言い訳ですね……)
 アバンは自身で矛盾を指摘した。
 ポップを早く親元に帰すなら、いや、心配しているだろう親御さんの事を考えれば、いつもの速度で歩けばよかったではないか。そうすれば彼はすぐに音を上げただろう。「ほら、君に旅は無理ですよ」と冷たく突き放し、無謀さを自覚させてキメラの翼で村に戻ればいい。一日で問題は解決したはずだ。

 ――何故そうしなかった?

「アバン様、おれ、少し露店を見てきてもいいですか?!」
 きらきらと期待に輝く瞳で見つめられて、アバンは苦笑する。
「仕方ないですねえ。じゃあ私はお弁当の用意をしときますから、少し見たら戻ってきてくださいよ?」
「はい! やっぱアバン様は話がわかるぜ!」
(ああ…)
 顔に「大好き!」と書かれているかのような、その笑顔。
 どこまでも純粋に自分を慕ってくれている、その好意。
(まるで『彼』だ……)
「行ってきます!」
 人を惹き付けてやまない、その在り方。
「気を付けてね」
(ロカ……)
 最早この世界のどこにもいない、失われてしまった親友の名を、アバンは心の中で呼んだ。

 もちろん応じる声はどこにもなかった。

 絆されている。
 もうずっと前から。
 ポップが無謀にも自分を追いかけてきた時から。
 いいや、もしかしたら、村で話したその時からだったのかもしれない。
『おれ、アバン様大好き!!』
 屈託なく、にかっと笑うその表情にどれほど自分が魅了されているかなど、本当はとうにわかっていた。

 親友と同じくらい大切な存在は、故郷のカールにいる。今はもう志尊の冠を戴いた、凛とした美しい女王。
 彼女に望まれ、それは自分の望みでもあった。彼女のそばにいて、共に支え合いたかった。
 だが、周りはそれを許さなかった。
 騎士階級の学者の家系というのは、本当に学術の徒として代々の国王に仕えてきたため、学問の繋がりはあっても、権謀術数の世界を渡るための繋がりは希薄でしかなかった。魔王を倒した勇者という称号があっても、それは余り変わらない。精々が騎士団に心酔者が大量に出たくらいだ。
 もしも声を上げて彼女の横にあることを望めば、叶ったのかもしれない。だがそれは、即位したばかりの、頼れる親兄弟のいない女王の為にならないことは明白だった。魔王との戦いが終わった今、彼女を支えるのは後ろ盾のいない勇者ではなく、国という得体の知れないものを知っている老臣たちなのだから。
 ハドラーを倒して凱旋した時の彼らの目に、温かいものは少なかった。厄介者という表現が相応しかったろう。旅の終わりの頃には、きっとそうなるだろうと予想はしていたが、だからと言ってその視線をうまくいなしたり撥ね退けるには当時の自分は若すぎた。
 かと言って、かつてのようにお道化た学者に戻ろうと思っても戻れなかった。人の輪の中に入り込もうとずっと抑え込んできた闘うための異質な力は、もうカールでは知れ渡っていた。

 魔王ハドラーを倒すための旅は、偽りのない全力をぶつけ続けた旅でもあった。自己を研鑽し、更なる高みにある力を手にして強敵と戦って…。それはそれまでの自分ならどちらかと言えば忌諱していた在り方だったというのに――楽しかったのだ。
 仲間や親友と旅をしている間は、遠慮はいらなかった。闘う力は魔の侵攻に苦しむ人たちを助けるために必要なものだった。自己を高めれば高めるほど感謝され喜ばれた――そう在っていいと、認められたのだと感じた。それが『普通の人間』の中では異質にすぎるものだとしても嬉しかったのだ。

 戦後、もう一度『普通』に戻ろうとしても、周りがそうは扱わず、自分も一度知った自由を愛していた。
 人々の輪の中にいることを望むのも本心からの願いだが、仮面をつけず自分のままでいたいのも本心だった。
 だから旅に出た。故国の近衛師団に籍を残しながらの出奔に、追手がかかっても仕方が無かったはずなのに、後に知ったのは自分は女王たっての願いで密命を帯びて旅に出たということになっていた。

 護りたいと思った女性に、また護られている――その事実に忸怩たる想いを抱きながらも、アバンは旅を続けた。
 魔王軍の残党の掃討。復興の支援。他国の情勢の調査等々、名目はいくらでもあった。時折『普通の人々』の輪に入りながら交流をして、己の立ち位置を確認しながら、生きるために…自由に息をするためにアバンは一人であり続けた。

 朝作った弁当を、敷布の上に広げながら、アバンはちらりとポップ少年が歩いて行った方向を見た。ピンと跳ねた黒髪を揺らしながら、彼は丁度露店で何か楽しそうに話をしているようだった。
(誰とでもすぐに打ち解けられるのは、一種の才能ですよね……)
 ロカもそうだった、と再びそちらに思考が行きそうになるのをアバンは努力して止めた。
 今夜が最後なのだから。明日になれば、あの子どもは平和な故郷に戻るのだから――力の無い人々が精一杯の力で作り上げている平和で尊い箱庭に。


     ※※※


「アバン様、おばさんに言って、お湯もらってきましたよ~」
 ドアの向こうからポップの声がするので、アバンは急ぎ開けにいった。
「ご苦労様。気が利きますねポップ君」
 桶を両手に持ち、お湯をちゃぷちゃぷ揺らしながらポップが入ってくる。
「久しぶりのベッドですもんね、泥はちゃんと落とさないと」
 へらっと笑いながら、ポップはアバンにどうぞ、と片方の桶を渡してきた。「ありがとう」と受け取り、互いのベッドに移動する。
 男同士何も遠慮なく服を脱ぎ、絞ったタオルで旅の垢を拭った。一応、湧き水などがあればそこで適宜身体を拭いて清潔さを保ってはきたが、やはりお湯の良さには代えられない。
「アバン様、この村では何をするんです? 前にしてた薬草の採取ですか? それとも加工?」
「そうですねえ…それもありますが、今晩はゆっくり眠って」
「はい」
「明日の朝、ご飯を食べたあと、キメラの翼でランカークスですね」
「…!」
 視線は合わせなかった。ポップがどんな顔をしているか見てしまえば、きっと決心が揺らぐだろうことくらい、アバンは自身のことをわかっていた。
 窓の向こうで日が沈んだ。東のかたには代わりを務めるように円かな太陰が徐々にその存在感を増しつつあった。
「わかりました……」
 小さな、まだ少し高めの変わりはじめの声が、ぽつりと返された。
「さ、晩御飯を頂きに行きましょう。しっかり食べて、明日、少し逞しくなった姿をご両親に見せて安心させてあげなければ!」
 自分でも残酷だと思いながら、アバンは明るい声を出した。

 小さな宿で他に宿泊客もいないが、食堂では宿屋の主人夫婦との同席だったため二人きりとはならず、ポップはアバンに何もわめいたり懇願したりはしなかった。ただ粛々と食事を食べ終ると「先に部屋に行ってます」と戻っていった。
 いつもならしょっちゅう喋り、楽しい雰囲気にしようとするのに晩御飯前に告げたのは失敗だったな、と考えてからアバンは苦笑する。いつもも何も、まだ数日しか経っていないのに。
(まるで当たり前のように考えるなんて…)
 断ち切らねばならないのだ。それが、ポップのためだ…そんな事を思いつつ部屋に戻ると、ポップは窓を開けて月を見上げていた。
 今夜は満月。さやかな光が部屋を照らす。ランプも不要なほどの明るさに、ベッドに腰かけようとしたアバンは気付く。サイドテーブルに見慣れぬ小瓶が空となって置いてあった。
(…薬品の匂い?)
 ポップに問い質そうと振り向いて、息を飲む。

 月を見ているのだとばかり思っていた少年の身体が、薄ぼんやりとした緑色に光り輝いていた。

「ポップ君…?!」
(これ、は…何と言う…魔法力の感応……!)
 古来より月は人間の精神に大きく作用する。特に満月と新月は影響力が大きいという。そのためそれらの日を選んで儀式を行う魔術もあるほどだ。
 前からポップには魔法力が常人より多いと思っていたが、まさか、月と呼応するほどとは……!
 月光を浴びたまま、くるりとポップが振り向いた。
「お帰りなさい、アバン様」
 アバンの心臓が大きく鳴った。
 どことなく上気して火照っているようなポップのその表情に、一瞬先程の食事の内容を巡らせ、アルコールの類は一切無かったことを確認する。
 脳が警鐘を打ち鳴らしている。
「ポップ君、一体…」
「すげ…身体が光ってる…魅力が高まるってこういう事かあ……」
「え…?」
「アバン様、おれ、明日…どうしても帰らないとダメですか?! おれ…宿代とか確かにご迷惑かけてますけど、でも、何かお手伝いとかいっぱいしますから、だからっ!」
 堰を切ったように喋り出す少年の、口調の勢いに合わせて魔法力が炎のように吹き出していた。本来不可視のはずのその光が、アバンに絡みつき包み込もうとする。
 黒い瞳に緑の光が揺れていた。
(これはまるで、マヌーサ…?!)
 錯乱呪文や幻惑呪文のような、そんな、精神に作用する魔法の効果が感じられた。破邪の力が強いアバンであっても目が離せなくなる。ポップにそういったつもりはないのだろうが、ひとえにアバンを説得しようとするその思いの強さが効力を増しているようだった。
「お願いです、アバン様! おれ、まだ村に帰りたくない! ずっとアバン様に教わりなが、ら、一緒…に……」
 言い募る少年の身体が傾いだ。倒れる彼を慌てて抱き留め、アバンはくらりとする。
 ポップの身体から、かすかに麝香の匂いがした。
(媚薬…やはり…何故こんな……?!)
 何らかの罠をしかけられたのか。まさか、ポップの存在そのものが罠の一環だったのではなどという疑念が一瞬湧いたが、
「あ…アバン…様……何、これ…? こんな…光…熱い……!」
 苦し気にポップは身体を震わせていた。足にも手にも力が入らないようで、震えるというよりは痺れているというのが正しいのかもしれない。自身に何が起こっているのかもわかっていない、そんな不安に満ちた表情で、ただ全力で助けを求めている。
(わかって薬を使ったというわけではないのか……)
 アバンはホッとする。十三歳の一般家庭の少年が、媚薬を使って年長者を篭絡しようとしたなどというのは、さすがにアバンの倫理観に足で砂を掛ける出来事である。違っているようで大いに結構。
「ポップ君、一体何を飲んだんです?」
 精一杯普段の態度で接し、尋ねる。
「昼に…露店で、もらった…薬、です」
 ポップは言う。その露店の商品の中で、その薬だけが輝いて見えたのだと。


     ※※※


『おや坊や、そんな古い薬に興味があるのかい?』
『え? これ古いの? こんなに綺麗なのに?』
『綺麗…?』
『だって光ってるじゃん』
『え………なるほどねえ。私の母親が作ったものなんだよ。魔法力が籠ってるから腐らないし、今でも普通に飲めるはずさ』
『へええ。お姐さんのお母さんは魔法使いだったんだ?』
『占い師も兼ねてたよ。いいよ、それ持って行きな。必要な人が現れたら進呈するように言われてたんだ』
『えっ?! いや、でも、おれ…魔法薬を買う程のお金は持ってねえし…』
『いいんだよ…ずっと売れ残ってたから在庫処分だ。それに坊やには何か悩みがあるんだろう?』
『…なんで』
『母の薬を欲しがる人はいつも決まって悩みを抱えてたからね。どうにもそういう性質のものなんだろう』
 ジプシー女性に言われ、ポップは話した。慕っている人ともうすぐ別れないといけないのだ、と。
『おれ…迷惑でも、それでもずっと一緒にいたくて……』
『なるほど。…それなら、その薬は丁度いいよ。飲んだ者の魅力を高める薬だから』
 目を丸くしたポップに女性は笑う。
『ちょっとばかり身体がぽかぽかする程度だろうけど、そういう時の方が元気が出てしっかり話せるからね。溌剌としてるほうがそりゃあ気に入られるだろう?』
『……これ飲んでから頼んだら、旅にまだ連れていってもらえる、かな?』
 まじないが得意だという彼女は、楽しそうに笑って告げた。

『さあねえ…そこまでは保証できないよ。ただ、気休めだけど今日は満月だ。こういうおまじないはね、満月の夜に試すのが効き目が強いんだよ』



 アバンは眉を顰めた。
 そのジプシー女性にはおそらく悪意はないのだろう。普通に売られている媚薬なら、確かにその程度の…血行が良くなり少々気分が高揚する程度の効果しかない。作って時間が経っているようだから、効果も薄いだろうとの判断かもしれない。
 だが、悪いことに偶然が重なっている。作り手がどうやらかなり腕のいい薬師で魔法使いでもあった事。使用したポップが魔法の素養がありすぎる事。そして満月の夜。
 薬の効果は覿面で、しかもおそらくは材料に痺れ薬が使われている。ポップの身体は先程から細かく震え、呂律もあまりはっきりしない。しかも、ポップ自身には薬が本来そういった目的で使用されるという認識もない。
「あばんさ、ま…」
 ポップが助けを求めて、アバンに縋る。その舌足らずな声。名を呼ばれるだけで、アバンの背筋にぞくぞくと甘い痺れが走る。
(二重の意味で、不味いです!!)
「あうぅ」
 魔法力の暴走が、精神だけでなく肉体にも影響を及ぼしている。
 黒い目に揺蕩う緑の光。縋っているはずのその色は、救いの糸を掴もうとする必死さなのか、それとも獲物を逃すまいとする捕食者の意志なのか。
「ポップ君、とにかく…水を……」
 少しでも水分を摂らせて身体の中の薬を薄めなければ。
 そう思い、抱えて自分のベッドにポップを横たえた。
「待っていて下さい。奥さんに水をもらってきますか……ら」
 ぎゅう
 そんな擬音語が聞こえてきそうなほど、アバンの服は握りしめられていた。
「ポップ君…これでは水をもらいに行けませんよ、離して下さい」
「む…り…です……ごめ、なさい…!」
「え」
「おれ…いま…アバン様から…離れたら…む、り…です」
 無理――?
 何のことを言っているのかと考えたその刹那、アバンの琥珀の瞳は見てしまった。
 先程まで方向性の定まらなかった魔法力が、ポップ自身の身体に再び戻ろうとしている。
「…いけない!」
 それはきっと、ポップ自らの意志だ。早く事を収めたいと願う心の働きなのだろう。だが、制御を外れた魔法力を再び身の内に収めるのは達人でも難しいのだ。魔法を使った事も無い十三の少年に出来る芸当ではない。
(下手をすれば、最悪、この子の精神が壊れる…!)
 何とか手立てを考えないととアバンがその脳をフル回転し出した時だった。
 小さな声が彼の鼓膜を打った。

「あばんさま…そばに…いて……!」

「…ポップ」
 子どもと言っても十三にもなる少年がこうも甘えてくるのは普通ではない。数日一緒だっただけでも、ポップがかなり見栄っ張りな性格だとわかっている。それがこの態度なのだ。それだけ本能が危機を訴えているのだろう。
(いや…それだけではなく…)
 緑の光が揺れる、瞳。
 その奥に、どうしようもないほどの寂しさがあるのはきっと気のせいではない。
 平和な箱庭で愛されて育ってきた子どもが、どうして持っているのかもわからない、孤独。それはきっと、ポップが家出をする理由でもあり、アバンを選んだ理由でもあるはずだった。

 ――どこにも行かないで。見捨てないで。嫌わないで。置いていかないで。
 ――寂しいのはイヤだ。一緒にいたい……!!

 思わず抱きしめていた。
「大丈夫。大丈夫ですよ。ここにいますからね、ずっと…」
(ずっと…?)
 ああ、私は。
 これは、薬のせい?
(ごめんなさい)
 心の中で誰かに謝りながら、アバンは少年を抱き締める腕に力を込めた。

 ふうふうとポップが荒い息を吐くのを繰り返している。抱きしめたことで安堵したのだろう。少しは魔法力が落ち着いたように感じるが、それでもまだ制御できているわけではない。
(上手く循環させなければ…何か道具や環境が整っていれば方法は幾通りかあるのに、この田舎の宿の一室では……)
 アバンの優れた頭脳を以てしても、この状態を解決する方法で思いつくのは一つだけだった。
「ポップ君、聞こえますか?」
 返事はないが、苦し気な瞳がアバンを見た。
「一つだけその魔法力の暴走を何とかする方法を思いつきました。が、君が嫌がる方法かもしれません。私は医療行為だと思ってますけども、どうしても君が無理だというならやめた方がいいだろうとも思うんですよ…」
 告げれば、ポップの口が「はい」と微かに動いた。次いで「おねがいします」とも。
「いいんですか? その…口付けて相手の身体に自分の魔法力を流し込むことになるんです。あなたのような若い子が、こんなおじさんにそんな事されたら辛いでしょう?」
 ポップはさすがに理解が及べば驚いたようで、しばらく目をぱちぱちとしばたいていた。だが、次の瞬間ふわりと笑う。生理的な涙で濡れた目が、月の光に黒曜石のように輝いた。
「ぉれ…アバンさま…だいすきですよ」



 呼吸を合わせるように、口付ける。吸気と共にポップの魔法力もまたアバンの中に入ってくる。
 若葉のような柔らかく瑞々しい力に溢れた魔法力に、アバンは自分が包まれるのを感じた。同時に自身の魔法力を呼気と共にポップの中へと送り込む。
「ぅ…ん」
 少しくすぐったそうな、幼さの残る高めの声が、合わせた相手の口から漏れるのを、アバンは愛しく思いながら聞いていた。シャツを脱ぎ、ポップの胸元をはだけさせ、肌と肌を密着させて互いの鼓動を感じ取る。
(溶けるように。同調して。全てを私に合わせて)
 ポップに素質がいくらあろうとも、今はまだ魔法力の総量はアバンの方が多い。水が高きから低きへと流れるように、アバンはポップに自分の魔法力を流して循環させていった。
 繋がりが多いほど、このやり方は効力を発揮する。
「んっ…?! んぅう…」
 舌を挿入し、歯列をなぞり、薄く開いた隙間から逃げようとする少年の舌を絡めとる。驚きに目を見開くポップに、アバンは目だけで微笑を返した。自分でもわかるほどの、綺麗でズルい笑みを。
(受け容れてくださいね…)
 そよがせる舌に乗せて、唾液を送り込む。息苦しさにポップの喉がこくりと上下するのを見て、アバンは黒い髪を梳き、ゆっくりと頭を撫でてやった。
(よくできました、ポップ)
 安心したという表情でポップが縋りついてくるのを、アバンは歓喜をもって抱き締め返す。互いの魔法力が混ざり合い、融け合い、波のように寄せては返して――。
 徐々にそれは奏功し、ポップの中で荒れ狂っていた魔法力は、もとの落ち着きを取り戻した。苦し気な呼吸もない。
 もう大丈夫だろう。そう思い、唇を離す。その時。
 月が、雲に翳った。
「ァバ、ン…さま」
 ――もっと
 互いの唇を橋のように繋いだ唾液の糸が、銀色に光る。
「……ごめんなさいね、ポップ」

 その謝罪がどういう意味だったのかは、月だけが知っている。


(※かのこ様の挿絵をご覧になる方は、こちら


     ※※※


 アバン様…ごめんなさい。最後なのに…こんな迷惑かけて……
 おれ、やっぱり何をしてもダメなんだ…腰抜けなんだ……
 ねえアバン様、おれ、どうしても村に帰りたくないんです。だから、王都に置いていってくれませんか?
 それは…どこかで下働きでも何でもします。おれは、アバン様には会えなかったけど、何とか王都までたどり着いた。アバン様だっておれの事なんか知らない、会ってない、村で分かれてそれっきり。ね? それでいいでしょう?

 ……わかってます。母さんも親父もおれのこと大事にしてくれてます
 …でも、おれ…あの家にいたらダメなんだ……

 ………親父がね…困ってるんです。おれが力無いから…腕力なんて全然つかねえし。火は見れても鎚を振るったってナイフ作れればいい方だ。親父の鍛冶の腕はきっとどこでだって通用するくらい凄いのに、一人息子のおれにはその才能はゼロで……。じゃあ店だけでもって思ったけど、あんな村で、魔物だって暴れてないのに武器が売れることなんてないんです。親父の打った武器だから行商人が仲買いにくるんであって、おれが店を継いだって仕方ないんだ。親父が打てなくなったら別の鍛冶師を雇う…なんて、そこまで儲けはないですから。
 そうですね…親父みたいに強くなって、一生懸命鎚を振るって、剣や斧を作って、立派な鍛冶師になるんだ…って、思ってましたよ。小さい頃は。
 でも……
 ダチも皆、自分のとこの店継いだり、畑継いだり、王都に奉公とか徒弟に行っちゃった。おれだけが…まだ何も決まってなくて…でも何も出来なくて…向いてなくて……
 村の皆がこう思ってるんだ。
『ジャンクの倅は本当に親に似ずにダメな奴だ』
『あの夫婦は立派なのに、一人息子があれじゃなあ』
 ……アバン様、そんな顔しないで下さいよ。小さい村なんてそんなものじゃ無いんですか? それでもおれ、仲間外れとかにされたこともないし、満足しなきゃって…思ってます。わかってるんです。
 でも…イヤなんです。苦しいんだ。
 邪険にされるんじゃないですよ、気遣われるんですって。優しいから。皆いいやつですから。
 十二歳くらいまでは耳にタコが出来るくらい色々言われました。『もっとしっかりしろ』『そんな臆病じゃ大人になったら苦労するぞ』『ジャンクの息子だろう』って。ムカついたけどそんなのわかってるって、おれは…おれなりに色々試して…でも……

 今はもう…誰も、何も、言ってこない。
 優しいっすよね…。無理だってわかってるのに言ったらダメだって…皆、理解してくれて。親切で。
 おれが贅沢なんだ。

 おばさんたちも…女の人ってお喋りっすよね。店とか井戸の周りとかでよく話してるけど、街に行ったダチの事を話す時とかは、おれや母さんがいないの見越して話すんです。『この前手紙送って来たけど、うちの息子なんて、まだまだよ~』なーんて、嬉しそうに愚痴るんだ。
 おれは…母さんをあの輪の中に入れてやれない……

 親父のため息を、聞きたくないんです。母さんが無理して笑うの、見たくないんです。

 もしも『いつかきっと』なんて言うのがあるなら、おれ、あの村から出て見つけたいんだ。ずっと…ずっとそう思ってた。
 誰か、おれを導いて欲しいって。

 アバン様が店に来てくれて、一人で旅ができるくらいすごく強くて、何でも知ってて、おれが…こんなバカな事しでかしても、助けてくれて…今だって…甘えたの情けねえガキの話をちゃんと聞いてくれて……

 嬉しかったです。ありがとうございました。最後の最後まで迷惑かけて…ごめんなさい。
 明日、ちゃんと帰ります。馬鹿にされたって、舐められたって、平和に安全に暮らせるのが一番ですもんね…。生きてるのがきっと、一番…大事ですもんね……



「ポップ君…?」
 腕の中から、静かな寝息が聞こえてきた。さっきまで喋っていた少年は、眠りに落ちていた。旅の疲労もあったろうし、何より魔法力の暴走で精神も痛めつけられただろう。眠れるならば、とにかく眠った方がいい。
 だが、少年のその表情は酷かった。どこまでも哀切で、涙の痕がしっかり残り、見る者に哀れを誘うそれは、口元だけが無理やり笑おうとした名残があった。
「………すみませんでした、ポップ」
 こんな、つらい想いを吐露させてしまった。
(もっとちゃんと、わかってあげられていれば、あるいはポップを上手く受け止めてあげられたかもしれないのに……)
 思い知らされた気分だった。
 自分が望んでやまない『理想の平和』の中で、優しさゆえに弱さゆえに…平和ゆえに苦しむ人だっているのだと。
 優しい言葉と態度ゆえに立場を失くす者だっているのだと。
 安全を守るための措置が、強い逼塞感に変わることもあるのだと。
 平和という尊い概念を守るために、犠牲となる弱者がいるのだ。弱いまま足掻いて浮かび上がることさえ出来ず、沈んでいることを強要される存在が。

 それはアバン自身の状況にも似ていた。

(気になってしまうのは…『同じ』だからかもしれませんね……)
 箱庭の中では生きられない。
 才能を示したせいで忌避されて戻りたくとも戻れないアバンと、才能を見つけることも伸ばすことも出来ずに劣等感から飛び出してきたポップ。
 立場は全く逆のようで、実に似ている。
 あの幸せで平和な、尊い世界の中で、自分たちは息が出来ない。じっと…目立たず、大人しく縮こまっていれば、あるいは留まれるのかもしれないけれど――それでは『生きる』が出来ない。死んでいないだけだ。
『アバン様、おれも連れて行って下さい。お願いします!』
 たった数日、それだけのつもりだったのに。
『おれ、アバン様についていきたい! 外の世界を見たい!!』
 絆されたのだと、仕方ないからと、未知への好奇心を少しだけ満たしてあげるだけのつもりだったのに。
『初めてなんです、自分から外に出たの! こんなに勇気を出したのも!!』
 あの時すでに、もう自分は喜んでいたのだ。求められた事に。

『おれ、アバン様大好き!!』

 勇者アバンでなくとも、そんな事を何も知らなくても、純粋に自分を見て好意を示してくれる。
 必要として欲しい…アバン個人を。そんな根底からの望みをあっという間に叶えてくれた。
 ここに居ていいのだと。
 魔王がいなくとも。
 抑止力などでなくとも。
 己を構ってくれる年長者という、それだけの、ごく自然な人として当たり前の触れ合いの関係だけで。


「…良いご両親なのに……」
 それは、自制を促すための独り言だった。既に傾いている心をいま一度見つめ直すための。だが、呟いてすぐに否定する。良いご両親だからこそ、この子はこんなにも必死なのだ。愛情を受け取っていて、その愛情ゆえにちゃんとそれを自分からも返したいと思い、願い、箱庭の中で生き抜くために必死に……。

 ポップにとって、あの平和なランカークス村は、箱庭ではあっても安らげる場所ではなかったのかもしれない。
(あの魔法力……)
 身体を合わせて循環を促し、自らの中にポップの魔法力を巡らせたが、本当に何の契約もした事が無いなどというのが信じられなかった。
 けして一般の人々が普通持っているような魔力量ではなかった。普通は魔法力というものは血統に因るところが大きいが、彼の両親からとて何も特別なものは感じなかった。という事は、まさに天性の才能なのだろう。
 それが良いことか悪いことかは、アバンの判断する所ではない。ポップはあの両親の元だからこそ、少々臆病で甘えたな所のある愛情深く育てられた子どもとして育ってこれたのだ。だが、もしも両親どちらかにそういった素養があったならば、ポップにもそれがあるとして伸ばすための手立てを与えられただろうし、その事によって彼は村で劣等感を持たずにいられただろう。
(いえ…もしもなんて関係ないですね。起こらなかった事は、無かった事と同じなんですから……)
 雲間から月が顔を出してアバンを照らした。その光は、昏昏と眠るポップにも届く。
 アバンは一瞬ドキリとした。
 涙の痕が残る以外は、本当に子どもの…あどけない寝顔だった。あの魔法力の暴走を引き起こしていた人物とは思えないほどの幼さ。けれど、少なくともアバンは知ってしまった…あの危うさを。
 思春期とも言い、成長期とも言う、その時期特有の未来への輝きに満ちた魅力と、どこにでも転がり落ちうる危険な不安定さ。
 大きく伸びようとする樹があったとして、枝を伸ばす前に伐られるのは…庭に合うように整えられるのは、苦痛でしかないだろう。
(いや、自分が伸びる事が出来るということすら知らないのですね、この子は…)
 未だ孵らない卵だった少年は、先程の出来事で自身に魔法力があることはわかっただろう。
 だが、まだ雛ですらない。自らがどのような鳥になるのか…なれるのか。何も知らないままでは、この少年の未来は危険に満ちている。

『誰か、おれを導いて欲しい』

(巡り合わせとはよく言ったものだ……)
 アバンは薄く笑った。
 もう、意地を張るのはやめにしよう。

(せっかく私に懐いてくれたのですから……ね)


     ※※※


「ほ、本当にいいんですか?! アバン様?!」
 朝の食堂に、少年の声が響く。
「ええ。ただし、弟子としてですよ。修行は厳しいですし、恐い事だって、つらいことだってあるんです。私はビシビシ鍛えますよ? それでも良いと言うなら――」
「もちろんです!! おれ…おれ、何だってします。どんな修行だって頑張りますから!!」
 後にお互い、自身のその宣言をしっかり破ることになるのだが、この時の気持ちだけは本物だったろう。
 宿の主人が面白そうに見守る中、どこかノリの似ている師弟が誕生していた。
「さ、そうと決まれば朝ごはんを頂いちゃいましょう! 今日はまず最初に魔法の適正を見て、契約まで進めたら進みますからね」
「はい! アバン様!!」
 その返事に、アバンは苦笑してポップに手を伸ばした。ツンと、指で鼻先を押す。

「先生、でしょう?」
「…! はい!! アバン先生!!」

 出来立ての師弟を、窓から差し込む眩しい陽光が照らしていた。光の差す世界に、陰はどこにも存在しない。
 全てを知るのは、月のみだった。



(終)



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