番外編 黄金色の希望



 青く澄みきった空に浮かびながら、ポップは伸びをした。
 デルムリン島に来るといつも思うのは、空が高いという事だ。
 広い世界を旅してきて、最早ポップには行けない場所の方が少ない。そうしてこれまでの記憶を辿れば、地域によって気候が変わり、その気候によって空が変わるという覚えがある。
 空は空だ。いずこに在っても同じ空の下―――という言葉もある。にも関わらず、地域によって空の色も高さも変わるというのは、実際に飛翔呪文で飛ぶことが出来るポップにとって、身を以て知る体感だった。

 そのポップ、今はデルムリン島の上空を飛行中だった。時期外れの嵐の後、島の周囲には雲ひとつ無い。普段なら感じるだろう湿度も少なく、実に気持のいい空中散歩である。
 さして広くない島をひと巡りし、眼下に親友の家を見て、その横で自分を待っていてくれたらしい恋人が手を振ってくれているのを認めると、ポップは口元を綻ばせて下降を始めた。

「ポップ、どうだった?」
 たたっと小走りで駆け寄ってくるマァムと、その後ろをやおら歩いてくるブラス老に、ポップは笑みを返す。
「大丈夫。特に異常はねぇよ。何箇所か木が折れてるとこはあったけど、魚の打ち上げも座礁船も無い。平和なもんさ」
 その言葉にマァムはにこりとし、ブラスも「そうかい」と頷いた。この時期には珍しい嵐だったため、ブラスは念のためにポップに見回りを頼んだのだ。魚の打ち上げだけならともかく、船が座礁したとなれば放置すれば大変なことになる。怪我人がいるなら助けてやらねばならない―――というのは何も道徳的なことばかりで言うのではなく、『怪物島』の周囲で人間の船が壊れたという事実が、悪意と偏見のメガネを通されれば、どんな災厄となるかわからないからでもある。いくら現在の地上世界が人間と魔物全般にとっての「佳き時代」であるとしても、そういった問題は厳然として存在するのだ。
 だが、今回は杞憂であったようだ。ブラスは孫の友人たちに杖で家を示した。
「手間をかけさせたね、ポップ君。マァムちゃんも、さあ、お茶でも飲んでおくれ」


「それにしても、凄い風だったな」
 ブラス御手製の茶菓子を摘まみながらポップが言うのに、マァムは頷いた。
「本当に。満ち潮と時間が一緒だったらと思うとゾッとするわね」
 この場所が特に海抜が低いというわけではないが、高波は時に怖ろしい被害をもたらすものだ。彼らの師が島全体に施した破邪呪文も、自然災害には効果は無い。
 たまたま休暇を利用してブラスに会いに来ていたポップとマァムは、時ならぬ嵐に島での一泊を余儀なくされた。一晩中の暴風雨は頑丈な作りであるはずのブラスの家の屋根や壁の一部を傷つけ、二人は朝からその補修を手伝っていたのだ。
 この一年は、こういった自然災害が世界各地で頻発した。よくある事ではある。むしろ、何もない年のほうが珍しいだろう。だが一部の人々は、魔界での戦の影響ではないか? と声を潜めて囁き合い―――そしてそれは事実だった。

 天地魔の三界のバランスを担う存在は、現在、魔界にいる。

 かの大戦で地上を救ってくれた勇者ダイは、新たな敵との戦いのため、魔界へと降りた。およそ一年前の話である。
 時折もたらされる情報では、現在の魔界は群雄割拠の態から徐々に二つに纏まりつつあるという。一つは地上を狙う覇王の勢力であり、もう一つが調和を求める勇者ダイを中心とした勢力だ。両軍の戦いの規模は、地上の人間国家同士の戦争とは別次元であり、その魔界での戦いの余波が、地上の『気』にも影響を与えているのだ。
 その事実を知るポップは、昨晩の嵐の激しさを思い出すに、それがそのまま魔界での戦いの深刻さに繋がっているのだろうと眉を顰めた。マァムの顔が曇りがちなのも、同じ理由だろう。
 沈黙が落ちた。晴れた外に対して今度は家の中が暗くなりかけた時、ブラスがお茶を運んできた。二人は慌てて笑顔を作る。
 こういった話をわざわざ言うまでもなく、この優しい老鬼面導師は愛孫の無事を日夜祈り続けているのだ。不安を煽るような真似をすべきではないだろう。

 当のブラスは穏やかな笑顔で、島名物の香草茶を二人と自分の前に置いた。
「このお茶はダイが好きでのぅ。その菓子も、あの子が小さい頃からよく食べていたんじゃよ」
 にこにこと笑って、彼は、ポップとマァムにお茶を飲むように促した。
 微かな甘い香りが鼻腔をくすぐり、温かさが身体を中から整えてくれる。どちらともなく小さな溜息をついた時だった。
「よく晴れた。あれもこんな日じゃったのぅ」
 ブラスが窓の外に視線をやりながら、ぽつりと呟いた。
「ブラスさん?」
 マァムが呼ぶのに、ブラスは振り向いてにこりとした。
「ダイがの、ゴメをつれてきたのも、こんな―――嵐の後じゃったんじゃよ」




『じいちゃん! じいちゃん!! ぼく、トモダチができた!!』




 よちよち歩きから抜け出して、一気に沢山の言葉を覚えだした愛孫が、ようやく晴れ上がった空に嬉しそうに遊びに出掛け―――息せききって帰ってきた。その頭上には、翼持つ金色のスライムの、可愛く飛び回る姿があった。

「ダイが二歳になったくらいの頃じゃったなぁ…」

 それからは、ずっと二人は一緒だった。雨の日も風の日も、毎日のように共に遊び、時には喧嘩をし、けれどすぐに仲直りをして。ゴメちゃんと呼んでいたそのゴールデンメタルスライムは、ダイの望むままにずっと一緒だった。
 まさかその正体が、『神の涙』と呼ばれる伝説のアイテムだなどと誰が思うだろう。知った今でも、ブラスの中ではゴメは愛孫の大切な友人であり、家族に等しい存在であるのに変わりはない。
 それは、ポップやマァムにとっても同じことだ。正体が何であっても、ゴメちゃんは大切な仲間の一人で―――大戦での最後の戦いで死なせてしまった寂さは、消える事が無い。勇者のパーティーとして考えれば、大戦で亡くなった唯一の犠牲者でもあるのだ。

「ゴメちゃん…」
「ゴメ……」

   二人は同時に小さな友人の名を呟いた。同居人の元大魔王がこの場にいないのは、互いにとって幸いだったろう。戦いの場での恨みつらみを蒸し返すつもりは無いけれども、彼がこの心の痛みを共有する等ということは、決して叶わないのだから。
 ブラスは窓から差し込む明るい光を、眩しそうに見遣った。
 ダイは、バーンとの最終決戦の時の出来事をブラスに何度も語ったのだという。嘆くでもなく、悔やむでもなく、ただ噛みしめるように。

「最期にゴメは時を止めて、ダイと二人きりで話したんじゃと」

 己が『神の涙』と呼ばれるアイテムだということを。
 幼いダイの「友達が欲しい」という願いを叶えて、ずっとゴールデンメタルスライムの姿で共にいたことを。

 ポップは頷いた。その辺りの事は、ポップもダイから聞いていたのだ。
 彼自身バランとの戦いで不帰路を行こうとしたときに、ゴメに呼び止められて会話を交わした覚えがあるため、不思議には思わなかった。あの黄金色の小さな友人は、その身命をすり減らしながら、ダイだけでなくポップや皆を守り続けてくれたのだった。

「会いたいわね…もう一度……」

 マァムがぽつりと言った。叶わないとわかっていても、思わず口をついて出てしまった―――そんな声だった。
 齢数千歳の同居人がいるため、『神の涙』については二人は少し知識がある。今まで幾度も三界のバランスが崩されてきたという歴史から、いずれは復活するのかもしれないという漠然とした希望もあった。
 けれど、復活するのだとしても、それがいつ・どこでなのかは調べようがないのだ。マァムの声が多分に諦めを含んでいるのも無理からぬ事だった。
 ブラスの次の言葉は、それ故に、二人にとっては衝撃だった。

「復活までは、あと五年か六年かかるはずじゃ」




 『神の涙』の復活までの時間を、何故そこまで詳しく言えるのか。
 そもそも、どうして一介の鬼面導師でしかないブラスが、大魔王も知らないそんな情報を知っているのか。
 衝撃故の硬直から立ち直ったポップとマァムは、ブラスに縋りつくように前のめりになって質問をした。二人のあまりの勢いに、ブラスは目を丸くする。彼は、二人も同じように、ダイから話を聞いているものとばかり思っていたのだ。

「いや…俺は…ダイに『ゴメちゃんとは、最期に話が出来たんだ』って聞かされただけで……」
「私も…私は、ポップからそう聞いただけだったわ…」

「なんと…いや、そうか…。言えぬかもしれんなぁ…」

 緩やかに頭を振り、ブラスは孫から伝えられた事を二人に語った。

 『神の涙』に心があるのは、悪しき願いを叶えないようにするためだということ。
 願いを叶えてきたのと同じだけ復活まで時間がかかるということ。
 大魔王バーンとの大戦時で、それは「十年以上」であったこと。
 世界で最も汚れていない場所に落ちるということ。
 復活した時には、以前の記憶は消えてしまっているということ。

「じゃあ…」
 ポップは短く呟いて、言葉を切った。その顔に笑みがじわじわと広がっていく。
「それなら…」
 こちらはマァムだった。やはり彼女も綻ぶように笑顔になっていく。
 そんな若者二人を、ブラスは見つめていた。
 ブラスの瞳にあるのは、痛みだった。彼には、二人の考えている事が、以前に己も思い至った事であると容易に想像ができたのだ。
 そしてそれは、孫も当初思っていた…想っていた事だった。想い続け、想い描いて、そして―――
「じゃあ、じゃあブラスさん! あと五・六年くらいすれば、またこの島でゴメを見つけて、それで……っ!!」
「そうよ、ダイに同じ願いを…!!」



「いいや……ダイはそれを望んでおらん」



 ―――断念した願いだった。





『うん…オレも最初はそう思ったんだ。いつかゴメちゃんが復活したら、きっと見つけて…それで、また願いを言おうって』

『オレの友達になって欲しいって……。そしたら、またずっと一緒にいられるから……』

『でも……』


 ブラスは、魔界で戦いの日々を送っているのだろう愛孫の、静かな声を脳裏に蘇らせる。
 行方不明となって三年が過ぎたあと、立派に成長して帰ってきてくれたダイは、もう十二歳の頃の子供ではなかった。
 顔つきも、声も、背丈も、そして、心も―――大人と言うには早すぎても、既に子供ではなかった。天界での三年は一体どのようなものであったのだろうか……、ダイは、実に思慮深い面を見せるようになっていたのだ。

 あのゴメが、『神の涙』と呼ばれる心あるアイテムであったなど、当然ブラスは思いもしなかったし、そもそもそのようなアイテムの存在自体、聞いたこともなかった。だからダイにゴメとの会話の内容を聞かされた時は、ブラスは大いに驚き、悲しみ、そして……喜んだのだった。
『それなら、いま一度ゴメを見つけて、同じように願いを言えば―――』
 ブラスの言葉は、ポップやマァムの言った内容と変わるところはない。再び地上に降りてきた『神の涙』を見つけて、ダイの友達になってほしいと願えば、きっとまたゴメちゃんとして側にいてくれる。また一緒に楽しく暮らすことが出来る―――そう告げようとした言葉を、ダイは頭を振る事で封じた。
『じいちゃん、それはやっちゃダメだと思うんだ』
 何故だと問うブラスに、ダイは言った。

『オレ…ゴメちゃんを失いたくない』

 どういう意味なのか、ブラスには初めはわからなかった。少し考え、再びゴメちゃんとして側にいることで、戦いに巻き込んで死なせてしまうのが怖いのか…そう思った。竜の騎士としての運命を持ったダイは、本人が望まずとも戦いのほうが彼を放っておかないだろうから。
 けれどもダイは再び頭を振った。『それもあるけど』と彼は言う。

『またゴメちゃんを見つけて、オレの友達になってって頼んで……それでもしまた死なせてしまったりしたら? きっと悲しいだろうけど、でも、オレは…オレはもう、ゴメちゃんが「神の涙」だってこと知ってるから、「よし、また見つけて同じ願いを言うぞ!」ってなると思うんだ』

 話しながら、ダイは拳を作っていた。微かに身体が震えている。戦士らしく逞しい筋肉が付きだした、まだまだ伸び盛りの生命力に溢れる身体が、何かおぞましい物でも見たかのように小さく縮こまるようだった。

『もしも、そんなことが何回かあったら、そのうちオレは、ゴメちゃんの事を…本当に……アイテムとしてしか見なくなってしまう気がするんだ。「どうせまた蘇らせるから、だからちょっと願い事を聞いてもらおう」とか考えるかもしれない』

 握られた拳は、血の気が無いほどに真っ白になっていた。ブラスには、愛孫が必死に泣くのを堪えているのがわかった。

『オレ……そんなの…嫌だ』

 そんなことにはならない、と言ってやるのは簡単だ。しかし出来なかった。
 ダイの言葉の正しさをブラスは認めた。人の心の移ろいは避けられ得ぬところだ。どれほど自己を律しても、防ぐことは難しい。自らの安寧の為に、掛け替えがないはずだった存在を貶めてしまう―――そんな未来をダイは決して認めたくないのだ。

 失いたくないとは、そういう意味なのだろう。神の涙ではなく、ともだちとして十年以上を側にいてくれた優しいゴメちゃんの、友であったと胸を張れる資格を。

『そうか…。そうじゃなぁ……ワシも…、ゴメを失いたくないのう』
 ブラスは頷き、ダイははっと顔を上げた。『じいちゃん』と掠れた声で名を呼ぶ。
 くしゃくしゃと歪んだ顔は、成長したと思っていた孫の、十二の頃の幼さと無邪気さとを思い出させた。
『ごめん…ごめんね、じいちゃん…!』
 じいちゃんだって会いたいのにね―――ぽろぽろと涙を零して、ダイは謝った。その謝罪はきっと、ブラスだけでなくポップやマァム達にも向けられていたのだろう。





 帰りはルーラを使えば一瞬なのだが、ポップはもう一度島を一巡りしたいと言いだし、マァムの手を引いて浮かび上がった。
 ポップの魔法力に包まれているからなのか、マァムは上空にあってもそれほど寒さは感じなかった。彼女は無言で飛翔を続けるポップの横顔を、やはり黙って見つめた。
 孫との会話のことを語り終えたブラスは、寂しそうに笑って言った。
『まぁそもそもが、もう一度この島にゴメが落ちてくるかなど、保証がないしのぅ―――こんな怪物だらけの島じゃし』
 そんな、自らを卑下するようなことを言わないでほしい。そう思った。
 眼下に広がる濃い緑に覆われた島は、人間が支配する地上にあるにもかかわらず、魔物達の領域だ。
 人々との諍いを嫌い、心穏やかに暮らしたいという優しい魔物達の島。勇者ダイを育んだ、聖地デルムリン島。
 そこにゴメちゃんは落ちてきた。地上の力無き生物たちの苦しみを嘆いた神々が、落とした一粒の涙……。
 マァムは、ああそうかと思った。同時にポップが呻くように呟く。
「落ちてくるに決まってんじゃねぇか……」
「ポップ?」
 どこか怒っているような声音に、マァムはポップを呼んだ。
「デルムリン島に落ちてくるかどうかわからないなんて……そんなはずあるかよ…!」
 ポップは視線のみをマァムに向けた。黒い瞳にたゆたうのはやはり怒りだ―――ダイとブラスの尊く悲しい決意に何も言えず、何も出来ないポップ自身に向けた。
「あんなに…あんなに、ゴメのことを想って! そのために自分の願いも押し殺して! そんなに心が綺麗な人たちがいる島が、汚れてるわけねえのに!」
 その言葉にマァムはこくりと頷いた。彼女も同じことを思ったからだった。
 神々が地上の力無き生物たちの苦しみを嘆いたのだという。力無き人間ではなく、力無き生くるもの全ての苦しみを、だ。
 その苦しみを作り出す最大要因は、魔の侵攻などではなく、人間の欲ではなかろうか。
 ならばこの島は文字どおり、苦しみ無き楽園だ。心清き魔物たちの島。ブラスのような、ダイのような、種族を超えた友愛を持つ者たちの住まう聖地。神の涙が落ちるに相応しい場所があるならば、ここしかない。

 そして、だからこそ―――

「大丈夫よ」
「…マァム?」
 微笑んだ彼女に、ポップは虚を突かれた。
「大丈夫よ、ポップ。きっと、絶対にゴメちゃんにまた会えるわ」
 マァムの声は確信に溢れていた。その力強さにポップは戸惑う。
「で…も、でもよ。ダイも、ブラスさんも……願わないって言ったじゃねぇか。なのに何で、そんなこと…!」
 西に傾きだした太陽の光を受け、柔らかな笑みのまま、マァムは瞬いた。
「あなたも言ったじゃない。『あんなに、ゴメのことを想ってる人たちなのに』って」
 つい先ほどの己の言葉を繰り返されて、ポップはきょとんとする。
 マァムは適当な慰めを口にしたつもりはなかった。絶対にまた会える―――彼女なりの、けれど決して過たぬ確信の故の言葉だった。
「神の涙には、心があるんだもの…」
 そのために人間の欲深さは忌諱される…それは悲しい事実だけれども。
 どこまでも青く深い空。それはダイの色。空の高さはそのまま、ダイという存在の、彼を育んだブラスやデルムリン島の、懐の深さであり心の気高さだ。
「そんなに自分の事を想ってくれる人がいるなら、それを感じとったなら、きっと……」
 ポップは声無く、あ…と口を開けた。やり場のない苛立ちは消え、泣きそうな瞳で笑みを浮かべると頷いた。彼にもマァムの次の言葉がわかったのだった。
 そうだ。きっとまた会える。



「ゴメちゃんの方からダイに会いに行くわ。『ボクのともだちになってよ』って…!」





(終)



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