番外編 最後の許可


「総大将!」
駆け込んで来た伝令の声に、ダイは振り向いた。
「海戦騎殿よりご報告です。"仕込みは終了"と!」
その声には緊張と興奮が等しく混ざり合っている。
もうすぐ始まる戦―――いまはその前段階。
幾度も体験してきた戦いと戦いの間の時間は、ひと息つけると同時に、更なる破壊と殺戮のための準備でもある。緊張し続けていては精神がもたないが、かといって緊張を解けばどうなるかわからない、そんな、どこまでも微妙な時間。
ダイは伝令に頷いた。
「うん。わかった。…君は少し休んで。まだ時間はあるし、最後の詰めが残ってるから」
「はっ!」
彼の言葉に、伝令の青年は一礼して兵の詰め所に向かう。鎧の間から見える細い尻尾と、兜からはみ出た尖った耳が、動きに合わせて弾むように揺れている。魔族の年齢はよくわからないけれど、外見だけなら自分とほぼ変わらないか、年下に見えた。
腕や足に鱗が見えたから、きっとクロコダインの部隊に配属されたのは正解だったろうな。笑みに似た表情になって、ダイはそんな事を思う。
海戦騎を名乗ってくれているあの巨きな武人は、その称号の通り水に関する事に滅法強い。いまも、敵陣の正面に広がる大河に、霧に紛れて布陣を敷いてくれた。その布陣に隙が無いかどうかなど、確認するのも愚かだろう。
優秀な将の下につく事ができるなら、無能なそれの下につくよりも万倍は生存の確率が上がる。愚かしい感傷に過ぎないと言われるかもしれないが、自分より年少かもしれない青年が早死にするのは、やはり嫌だった。

「ダイ様…」
青年の去った方向をずっと見たままの彼に、控えめな声が掛けられた。向き直り、ダイは「何でもないよ」と応える。だが、相手はそうはとらなかったようだ。
「少し休憩されますか。朝からずっと部屋に詰めておられるのですから」
「……うん。そうだね」
気遣ってくれる忠臣に、あまり意地を張ってはいけないだろう。ダイは青い肌の側近の言葉に素直に従う事にした。ただし、
「俺だけじゃなく、ラーハルトも休んでよ。朝から頑張ってるのはお互い様なんだから」
自分の代わりに報告書の残りに目を通そうとしていた部下に、しっかり釘をさす。ダメ押しとばかりに「命令だ」と悪戯っぽく笑ってからダイは部屋の執務室の外に出た。
「どちらへ?」
ラーハルトが問う。ダイの所在を知っておくのは側近たる彼の義務だった。もっとも、魔界に来た当初は、ダイがどこに行くにも同行しようとしたのだ。さすがに幾許かの安全も確保できた今では、そこまでする事は―――ダイが断ったのもあって―――滅多になくなったけれど。
そもそも、ダイが休憩時間に行くところと言えば、決まっていた。
「屋上にいる」
「…は」
短いやりとりの後、扉は閉ざされた。



屋上に続く階段を上りながら、ダイは背中越しに聞いたラーハルトの声を思い出す。
きっとラーハルトは呆れているだろう……。もしかしたら、心配しているかもしれない。
絶対的な信義を捧げてくれる父の代からの忠臣が、自分の事を第一に考えてくれているというのは、疑う余地の無い事実だ。そんな彼が自分の行動を非難する事はない。だからそれについ甘えてしまう。
申し訳なく思うけれど、どうしてもこの場所に来るのはやめられない。特に…決戦の前には。
階段が終わる。さして頑丈ではない扉が目の前に現れ、ダイはそれを押した。

風が吹く。

それは、どこか澱んだ重さを纏った空気だった。行き場の無い熱と、濁った水気が果てしなく世界を循環している。
地上ではこんな風を経験した事がなかった。デルムリン島には毎年モンスーンがあったけれど、それとも違う。あの季節風は地の澱みを吹き飛ばし、海が蓄えすぎた熱を取り去ってくれた。
けれどここ魔界の風は、新たな澱みをもたらすようにダイには思われた。どこかで流された血のニオイと怨嗟の声を運び、別の場所で巻きあがる争いの熱を吸収して、さらに強大になるような……そんな風。そんな空気。
じゃり…と足元で音が鳴る。
砦の屋上は、前の城主との戦闘で破壊された。
『碧霄の間』と呼ばれていた屋上は、本来はドーム型の丸い天井で覆われていたのだ。名前の由来は、レンガの一つ一つが青光りする宝石で作られて人工の太陽に輝いていた事に由来する。だが今は、半壊した天井・粉々になった装飾・欠片と化したステンドグラス……それぞれの破片が床を覆い尽して、以前の優美な姿は見る影も無い―――もっとも、ドルオーラで破壊した張本人が言うのは筋違いなのだが。
ダイ以外は訪れる者とてない屋上は、戦闘の痕がまだ生々しい。少し前の事だというのに、他の部分を補修した分、手を付けていないこの部屋(とはもう呼べないが)だけが古めかしさと無残さを主張している。元々見張り堂の役目を兼ねていた場所なのだが、新しく参戦してくれたドラゴンライダー達が自ら上空の守りをかって出てくれたために、重要性は低いのだ。いずれは修繕する予定ではいるが、当面は歪な半球の姿をさらしてもらう事になっている。

ガラスの破片を避けながら歩き、まだ屋根が残る部分で壊れた彫像に腰を下ろす。
ダイは、空を仰いだ。

青いレンガを透かして見る空は、ここが魔界なのだという事を忘れさせるくらいに、蒼い。

太陽の無い魔界の空は、いつも薄暗い。
もちろん完全な闇ではない。あちらこちらにマグマを吹き上げる火山があり、魔界ならではの発光植物や岩もある。何より、多くの魔族たちがその強大な魔力で人工の太陽を作り出していた。中でも、この辺りはかつてバーンが治めていた領地で、一際大きな光の球体が主が去った後も輝き続けている。地上の時間にリンクして、人工太陽は昼夜の区別をつけて光を強めたり弱めたりするため、時間の感覚もそうずれたりはせず、その点、ダイはバーンに感謝さえしている。
それでもやはり、その光も熱も―――真物には程遠くて。

この砦の城主との戦いが終わり、ふと見上げた空に大きく息を飲んだ事をおぼえている。
半壊した屋根を通して視界に広がった世界は、灰色に慣れた目にあまりにも蒼かった。

以来、休憩する時はこの部屋を訪れる事が多くなった。その理由をきっとクロコダインもラーハルトも知っている。知っていて、理解してくれているから、何も言わずに行かせてくれる。





―――海戦騎殿よりご報告です。"仕込みは終了"と!




手が震える。それは決して武者震いなどではない。
クロコダインの言葉を伝えてくれた青年の、上気した顔が目蓋に浮かんで、震えは全身に広がった。

自分だけなら。

自分一人だけの事なら、平気なのだ。何も怖くは無い。
敵と切り結ぶ事も、呪文を受ける事も。闘気をぶつけ合う事も―――自分だけなら。もしくは、親しい仲間とだけであるなら。
いまは―――違う。自分は一人ではない。
慕ってくれる『部下』が沢山いる。彼らは皆、自分が望む世界を共に見たいと言って集まってくれた者ばかりだ。かつての魔王軍軍団長と同じような強さを持つ者も多い。

そして彼らが率いる、何万という兵も………。

戦えば、必ず死者が出る。どんな小さな規模であったとしても、ゼロという事はありえない。そしてそれに数倍する、負傷者と遺族も。
彼らは危険を承知の上で集まってくれたのだと、わかっていても…。
魔界のありようを変えるのなら、魔界の住人である彼ら自身の戦いが必要不可欠なのだと理解していても……。
…それでもやはり、自分の命令一つで何万という命が消えるかもしれないという事実に、怯えずにはいられない。

あの伝令を勤めてくれている青年の名は何というのだろう? あるいは、この前の戦場で自分に、返り血を拭うための水をくれた男の名前は? 飛竜に乗るコツをぶっきらぼうに教えてくれた女戦士…彼女は一体どの部隊に属しているのだろう?

自分は彼らの名前すら知らないというのに、彼らは自分に従い戦ってくれる。戦場を渡り歩くたび、味方を得ると同時に、顔馴染みになった兵も、ちらほらと欠けていることに気付く。もう何度も経験した事とは言え、回を重ねるたびに強くなる敵将、動員する人数の増大…それらを考えた時、戦局の困難さと共に圧し掛かってくる『責任』という名の重さは、想像を遥かに超えていた。
そして今回の戦は今までと規模が違う。一つ戦局を間違えれば、地上をも巻き込むだろう。

クロコダインの布陣は完了した。あとは……自分の号令一つ。

震えを抑えるかのように、ダイは自分の腕をかき抱いた。
こんな姿を他の者に見せる事は出来ない。兵たちや集ってくれた諸将はもちろんのこと、クロコダインやラーハルトにも。
地上にいた時には出来た事が、いまは許されない。
兵や魔界に来てから味方になってくれた将軍たちは、『部下』なのだ。トップに立つ者が戦いのたびに自らの権限を疎ましく思っているなど、彼らが知れば、忠誠に泥を塗る行為としか映らないだろう。そもそも強さが全てという風潮の魔界で、そんな弱さを見せれば、ようやくここまでになった組織が全て崩れる。敵は労せず地上も巻き込んで計画を作動させるだろう。
クロコダインやラーハルトならば、『部下』ではなく『仲間』だけれど―――やはり駄目なのだ。彼らにも立場がある。二人が地上にいた頃からの仲間なのだと知られていても。表向き、彼らは自分の部下であるという立場を取っているのだから。側近と親しすぎては要らぬ軋轢を招くし、どの道、権限を分担する事など出来るわけもない。

誰も代わってはくれない―――その怖さ。

以前にも……こんな風に怯えた事があった。5年前のあの夜………。

「あいつは…どうしてるのかなぁ…」

ぽつりと呟いて、ダイは目を閉じる。ドームの下、目を閉じている間だけは、青空の下にいるような気分になれる。
埒もない空想だ。…ここは魔界で、自分にはやるべき事があるのだと、わかっているのに。
あの送別の日以来、本当の青空など目にしてはいないのに。










「行くのか」
「うん…もう少ししたら」
彼女の側にいなくていいのかと、視線でパーティーの会場を示した自分に、親友は苦笑する。
「いいんだよ。こーゆーのは、女の子が主役だ。男は添え物なのさ」
そうなんだと笑う自分の胸を、彼は小突いた。
「…俺が渡したアイテム、ちゃんと持ったか?」
「もちろん。ちゃんと持って行くよ」
「そっか」

親友は、わずかに目を伏せると、呟くように言った。

「一緒に行けなくて、すまねえ」

何を言うのかと、今更ながらに自分は呆れた。親友の立場で、魔界での戦いに参加するなど言語道断だろうに。
そう言ってやれば、彼はまた苦く笑った。それを見ていると胸のあたりがチリチリする。
「…待っててくれよ。必ず、勝って帰るから」
「………。」
「信じてくれれば、俺、必ず勝てると思うんだ」
黙ってしまった親友に、自分は更に言葉を重ねた。

皆が信じてくれれば、力をもらえるような気がするから

そこまで言うと、親友はわずかに眉を顰めた。
「……そうか。でもまぁ、それは他の奴らので充分だろ」
「え?」
あの時の自分は、きっと物凄くきょとんとしていただろう。親友の言葉の意味がわからなかったから。
彼のことだ。『当たり前だろう。俺は誰よりもお前を信じてるんだからな!』とでも言ってくれると想像していたのだ。
なのに、彼が言ったのは―――

「俺はお前を信じない。その代わりに、許可をやるよ」

―――およそ、送別には相応しくない言葉だった。測りかねてぽかんとする自分に、なおも彼は続けた。

「負けることが許されないってわかってても、勝てるとは限らねぇ。敵さんも条件は同じなんだからな」
「…それは…そうだけど……」
「どうしようもなく、辛い時だってあるだろうさ。悲しい時も。……怖い時もな」
「う…ん……」
頷きながら、実は少し腹が立っていたと言えば、言いすぎだろうか。親友の言葉はもっともだと頭ではわかっていたけれど、ここまで激励に不適切な言葉は無いと思うのだ。
信じてほしいと頼んだのに、こんな返事はないだろう―――そう思った。

「だから、許可をやる」
「…許可?」
ああ。と親友は頷いた。



「泣いていい。怖がっていい。後悔していい。…負けてもいい。逃げても、いい」



「な…」
何を言い出すのだろう、こいつは…?! 負けることが許されないとさっき自分で言ったばかりなのに……!!

「もしお前がそういう行動をとったとして、その結果が――――――」

なおも続ける親友に、自分は脱力した。肩から力が抜けて、苦笑が漏れた。

「ありがとう。もらっとくよ」
そう言えば、うん、と彼は笑った。
「それでいい。気楽にしてろ。……お前は頑張りすぎる」
「そう? そうかなぁ?」
「そうだよ。俺は知ってるんだよ」
親友の手が伸びて、頭に置かれた。昔からよくやられたように、くしゃくしゃと髪をかき回される。この2年で随分差は縮まったけれど、まだ少し親友の方が高い背丈。……次に会う時は並んでるだろうか?

頭上から、彼の声が降る。

「……お前が一生懸命だなんて、俺は昔から知ってる」

今更、信じるも何もないだろう?



……………ああ。そういう意味だったのか。

親友の言葉に、今度こそ自分は笑った。
彼の後ろに広がっていたのは、とても良く晴れた、蒼い空。










ぽたり、と雫が瓦礫に落ちた。
まだかすかに震える身体。ぼやけた視界。それは、もう恐怖からではなかった。
「……ップ」
親友の名を呼ぶ声は、半ば嗚咽交じりで、掠れていた。
「俺、馬鹿だね。今頃思い出したよ」
記憶の中の彼に謝る。
送別の少し前の会話を、思い出した。忘れていたわけではない。ただ、よく思い出すのは最後だけで、先に聞いた彼の言葉を思い起こす事など、これまでなかったのだ。

―――お前が一生懸命だなんて、俺は昔から知ってる。今更、信じるも何もないだろう?

その言葉は、いつも力をくれた。彼以外の仲間にも同じような言葉をもらって、苦戦する時はいつも心に灯してきた。
絶対の信頼。それをもらっていると思えば、何とかして応えようと尽きかけた力を振り絞る事が出来たのだ。

けれど、あの時彼が言っていた『許可』については、今の今まで自分の緊張をほぐすための言葉だとばかり思い込んで、振り返る事などなかった。

「ありがとう…」





泣いていい。怖がっていい。後悔していい。…負けてもいい。逃げても、いい。
もしお前がそういう行動をとったとして、その結果が破滅に繋がるのだとしても。地上全てが道連れになったとしても。
俺だけはお前を許すから。認めるから。
お前が恨まれ、憎まれ、呆れられ、詰られ、責められるのなら、
俺も一緒に謝ってやる。何千回でも何万回でも一緒に土下座してやるよ。

俺と一緒なら、悪かねぇだろう、ダイ?





「ありがとう……!」

自分で選んだ道だ。責任から逃げるつもりはないし逃れられはしないけれど、逃げたいとは常に思っていた。
許されないその想いを、彼は……彼だけは認めてくれる。

ダイは涙を拭った。 眦目を決して立ち上がる。震えはもう、止まっていた。



ドアに向かい、歩き出す。責任を果たすために。

彼の『許可』を使うのは、まだ、今でなくても良いはずだから。


(終)



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