お似合いの


 蝶々が飛んでいる――と思った。




 黄色のブラウスに、光が当たればオレンジにも見える薄紅のスカート。
 ひざ丈のそれは、今日のそよ風にひらひらと揺れていた。サテン織で上品な光沢があるというのに、決して彼女の快活さを損なっていないあたりが「わかっている」。
 彼女がこちらに気付き、「あ」という形に口を開けた。
「ヒュンケル!」
 名を呼ばれ、ドキリとする。
 そこにだけ花が咲いているようだった。

「マァム、か。久しぶりだな。」
 手を振って駆け寄ってくる彼女に、ヒュンケルは微笑んだ。

 ちょうど仕事を交代したばかりで、この後は食堂に行こうかと思っていた。今日はダイもパプニカに来ているので、ラーハルトも供をしている。別に待ち合わせをしているわけでも、会う約束があるわけでもない。ただ彼に会うのは大体いつも食堂なので、先に食べていればそのうち合流するだろうと思っての事だった。
「久しぶり。元気だった?」
「ああ。そっちも変わりはないか?」
「ええ! 私もポップも元気よ。」
 彼女への次に尋ねようと思っていた弟弟子のことを同時に答えられて、ヒュンケルは内心でたじろいだ。
 何となく、ダイがポップと共にいる時に自分の事を語る際には「おれ達」と複数形で語るのが思い出された。あの二人は大戦中からずっと仲が良く、まさしく相棒だったが、それは同性同士という事で何も気にならなかったのだが……まさかこんな風に、彼女の口から『共にいる』という事を聞かされるとは思わなかった。
 マァムがポップの想いに応え、また彼女自身が彼を選び、付き合いだしたというのは聞いている。そもそも、ダイを探している期間ずっと一緒だった二人なので、いつそうなってもおかしくはなかったのだが、定期的に集まっての報告会などではそういった雰囲気は感じられなかった。更に言えば、ポップの横にはマァムの他に、優れた占い師でありポップに恋い焦がれている少女、メルルがいつもいた。だからもしかしたらポップが彼女を選ぶのではないかと思っていた者も多かったのだが――ポップは初志を翻さなかったようだ。
(仲良くやっているようだな……)
 楽しい近況を語るマァムを見て、ヒュンケルは目を細めた。幸せそうな彼女を見て思う――やはりポップがマァムを幸せにしてくれる存在なのだな、と。

「ポップは今日は図書館に行ってるのよ。本を返すだけだから、もうすぐ戻ってくるわ。そしたら、ダイとレオナの所に顔を出して、町に行くの。」
「町…王都か?」
 復興が進むパプニカ王都は現在建築ラッシュだ。日々景色が変わっている。散策するだけでも楽しいだろう――と思ったが、マァムは少し違うのだと言う。
 彼女は言う。先日にパプニカに来た際、たまたま彼女が瓦礫を撤去しポップが重圧呪文で平らにした場所に、中間層民の集合住宅が建つ予定で、今日は施工主から定礎に名前を彫らせてほしいと言われているのだと。
 なるほど、とヒュンケルは頷いた。いつも人の役に立とうとするマァムらしい話だった(もちろんポップもだが)。
「それでね」と弾んだ声でマァムは告げる。
「ポップの本とマントを買う予定なの。お給料出たから、小物とか、最初に必要な物を買っておこうって思って。」
 窓からさっと光が差した。それは明るく笑う目の前の娘の顔を、更に眩く照らす。
 大戦時とその生命力に満ち溢れた様は変わらない。柔らかさも同じだった。だが、何かが決定的に違っていた。

 ――こんな笑い方をする娘だったのか。

 どこかあどけない。
 自分が当時いつも感じていたような包容力とはまた違う、それは稚気にも感じる若さで…青さで……

「ベンガーナのデパートも凄いけど、パプニカの生地って凄く種類があって素敵なのね。服屋さんも多いし。」
 ああ、そうだな。
「ポップはね、いつも『どれがいい?』って聞くのよ。どれも皆良いものだしって言ったら、怒るの。『お前ぇの好きな物を買わないとダメだろ!』って言うのよ。」
 ……そうか。
「このスカートはポップがプレゼントしてくれたんだけど…その後はずっと自分で選べって言うのよね…『お前の好きな物探そうぜ。』って。でも、好きな物って、案外難しくて…。」
 …ポップは、お前の意見を聞くんだな。
「あ、でも、ベンガーナでも一度買い物したんだけど、ちょっとどれを見ても飾りが多いなって思ってたら『欲しくないなら買わなくてもいいんだぜ。』とか言うのよ。助かったけど、いつもと言ってる事違うから困っちゃうわ。」
 ころころと鈴が鳴るような楽し気な声。
 何かが理解できた――そんな気がした。
 マァムをすぐ近くで見守れたのは、かつての大戦時だ。その頃の記憶をヒュンケルは思い出そうとして、すぐに止めた。
 違いは明らかだったからだ。
(そうか…。オレは、マァムの慈愛の笑みしか見たことがなかったのだな……)
 アバン先生への憎しみと誤解が解けた時、喜んでくれた。
 怪我が回復して、良かったと笑ってくれた。
 闇に再び手を伸ばしかけた時、正義が、光が奈辺にあるかを示すように励ましてくれた。
 それらは全て、マァムの慈愛という優しい心の表れだったろう。それによって自分は救われた。過ちを犯しても、光の道を歩むことは許されるのだと。力と支配が理だったあちらの世界では存在しない道を示してもらえた。
 そんな彼女に対してヒュンケルが持つ想いは、好悪で言えば明らかに好意だが、どこまでも敬愛だった。言ってみれば彼女が笑む事柄が善であり、泣くのならばその原因を解決せねばと即断出来る程の、信仰に近いものだ。五つも歳が違うのだから兄弟子としての助言は勿論の事するが、基本的にこの娘が望む事ならば善悪という点で間違いなどあろうはずがないという確固たる思いがある。
 力で支配する事が当たり前の世界に長らくいたヒュンケルにとって、自己が傷つこうと他者の命を重んじる彼女は至高の存在だ。これからもそれは変わらない。
(だが、ポップ、お前は違うのだな……)
 きっと今頃、早くマァムと合流しようと図書館を足早に歩いているのだろう弟弟子の顔を思い浮かべる。
 ポップは、マァムに笑ってほしいのだろう――楽しい事で。
 他者を救う優しさという面からでなく、彼女のしたい事・欲した事が叶うという面で、笑ってほしいのだ。

 ――そうしてポップ自身が、彼女を笑わせてやりたいと願っているのだ。

「あ、ポップ!」
 横目で図書館の方をちらちらと見ていたマァムが、嬉しそうに手を振った。ポップが想い人の姿を認めて、満面の笑みで駆けてくる。バンダナ以外は茶色のチュニックと腰ひもに紺のズボンという格好で、登城する際の様相の方が馴染みのあったヒュンケルには珍しい印象だった。
「マァム、待たせて悪い。…なんだ、ヒュンケルも一緒かよ。」
 自分を見るとどこか構えるのは、全く珍しくないな。と苦笑してヒュンケルはマァムの肩を前に押した。
「ヒュンケル?」
「行け、マァム。」
 ポップと喋らないの? という、彼女の瞳に浮かんだ疑問には肩を竦めるにとどめた。
「陛下とダイに会って、買い物もするのだろう? オレはこれからまだ仕事がある。」
「そうね。じゃあ、また。」
「ああ。」
 王宮の、女王の執務室はかなり奥にある。マァムを早足で追いつつ、ポップがすれ違いざまに、ぼそっと「またな」と声をかけていった。
「ああ。楽しんでこい。」

 さんざめく笑いを零しながら歩く二人の背を見送り、ヒュンケルは知らず笑っていた。
「お似合いだな。」
 あの二人が。
 あの二人には、あの娘には、あの笑顔が。
「本当に、似合いだ。」



(終)
(23.02.03UP)


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