根本治療
テーブルから離れない自分をダイとマァムがほぼ同時に振り返った。
「ポップ? 行かないの?」
尋ねたのはマァムで、ダイもその横で頷いた。自分と同様の黒い瞳は、それなりに大きくなった今でも子犬のようなという形容が似合う。素直で、素敵なものを見つけたらまっしぐらに駆け出していきそうな煌めきを持ち続けている。実際にダイを知っているからこその己の評ではあるけれど、知らぬ者でも彼を見て、その快活さに暗いものを想像する者はいないだろう。
(『純真の使徒』ねえ…。ほんとピッタリだよな、こいつに……)
そんなことを考えながら、視線は恋人に向けてポップは「ああ」と笑った。
「ちょっと仕事の話があってさ。すぐに終わるから、図書館で待っててくれるか。あ、ダイ、明後日あたりに島に薬持って行くから、ブラスさんに宜しく言っといてくれよ」
『仕事』のところを少し強調して言えば、おそらくベンガーナの人間としての話と考えてくれたのだろう、マァムはあっさり頷いてくれた。ダイもにこりと笑って「ありがとう」と手を上げた。
「ヒュンケルは…」
既にドアノブに手をかけていた兄弟子は穏やかな笑顔で「俺は任務に戻る」と短く答えた。そう言えば新兵の訓練中のところを女王陛下が呼び出したのだったか。護衛の任務は元から部屋の外に近衛が一人立っているし、中にマリンもいるから問題ないのだろう。
「そうか……。じゃあ姫さん、休憩時間使っちまって悪いんだけど、あの件についてなんだ」
部屋の主に向き直りすぐに話し出した自分に、他の皆は足早に退室していく。気遣いとそして仕事のことだと疑いもしない仲間たちの信頼に、ポップは感謝と罪悪感の両方を抱きながらドアが閉じられるのを待った。
レオナの視線が痛い。
たっぷり二十秒は経っただろうか。それまで黙っていたレオナが「お座りになって、大魔道士どの」と、にっこりと笑う。
ポップは苦笑し、先程まで座っていた席に今一度座りなおした。
「ありがとな、姫さん」
「あら、何が?」
「乗ってくれて、さ」
「…いいわよ別に。あんな言い方するんだもの。『仕事』には間違いないんでしょう?」
視界の隅で、マリンがそっと動く。三賢者の一人として政策秘書をしている彼女は、育ちの良さから侍女としても充分なスキルを具えている。自分が何も言わずとも、意を汲んでお茶を入れてくれるのはありがたい。
「皆には言えない話なの?」
ポップに確認をとれば、彼は視線を数秒宙にさ迷わせた。
余程に大事な話なのだろう。気安さはそのままながら、先程までの明るい雰囲気とはまるで違う。
「本当なら、言ってもいいのかもしれねえけど…いや、あいつらならちゃんと受け止めてくれるんだろうけど、さ。絶対に嫌な思いさせるだろうから…だから聞かせたくないっつうか……」
実に歯切れが悪い。だが、ベンガーナの使節としての来訪ならば政治家としての発言も様になってきているポップを見慣れてきているレオナにとって、彼のこういった態度は素の彼を見ている・見せてくれているという意味があって嬉しいものだった。
王家に生まれ育ったレオナにとって、本当の意味で気の置けない存在は少ない。大戦を共に戦ったアバンの使徒という仲間内であっても、ヒュンケルが臣下としての立場を決して崩すことがないように。
それは仕方のない事であり当然でもあるけれど、それでもポップのように、公的な場から適度に崩して、取り繕うでなく、これもまた適度に敬意を払ってくれるという人物が好ましいことに違いはない。
要は自然なのだ。彼の在りようは、自分のような立場の人間の心の隙間にするりと入り込み、つい旧来の友のようにいつの間にか打ち解けてしまう。誰も口にはしないが、各国首脳陣の間でのポップの評は【人誑し】で一致しているとレオナは確信している。
そんな彼がこうも言葉を濁すならば、個人間で納めるべきことなのだろう。
ことり、と新しいお茶がポップの前に置かれ、彼は視線をレオナに戻した。
「あ、すんません、マリンさん」
「いいえ。…私も席を外しましょうか?」
問われ、ポップは首を横に振る。未婚の女王が私室で男性と二人きりというのはあってはならないことだ。わかっていてもそんな提案をマリンがしてしまうほど、ポップは重い空気を纏っていた。
けれどポップは謝絶する。
「聞かせたくないのは、あいつらにだけだから。むしろマリンさんは聞いといてもらった方が有り難いですし」
「そうなのね…わかったわ」
そのままマリンはレオナの斜め後ろに下がり、ポップは改めてレオナに向き直った。
ふーと彼は長く息を吐く。
「なあ姫さん、さっきの話は…本気、なんだな?」
大魔道士としての目だった。
レオナはその雰囲気にコクリと唾を飲みこんだが、同時に違和感を覚えた。
ポップがしようとしているのは『仕事』の話なのだろう。それは間違いない。なのに……。
『時間はかかるけれど、なんとか法で守りたいの』
『地上に住んでいるのは人間だけじゃないもの。デルムリン島のモンスターたちのような存在だっているわ』
『ダイ君に守られてばかりの人間じゃなく、ちゃんと守ることも出来るようにならないと』
たまたま今日この時間、アバンの使徒が全員パプニカ王城にいることを確認したレオナは休憩時間に皆を部屋に呼んだ。侍していたマリン以外は、ダイ・ポップ・マァム・ヒュンケルの四人だけが部屋に通された。
そう。休憩中の、親しい仲間内での、極めて個人的な話だ。
『理想論だと笑われるかもしれないけれど』と前置きして、まだ少女と言ってもいい若き王はずっと心で温めてきた目標を述べた。
それは、いつかモンスターを保護する法を制定したいという話だった――まさに、夢物語だ。
聞く者が聞けば、人族の神を裏切る行為だと騒ぎ立てるかもしれない、危険な発言だった。本人も皆もそれは重々わかっていて、自然と小声になる。
『レオナ…そんなこと、本当に出来るの?』
そう問うたのはダイだった。レオナの婚約者としての教育を頑張っている身にすれば、恋人の夢が茨の道であることがわかりすぎるほどにわかるのだろう。それでも、ダイの瞳は不安に翳るのではなく期待に溢れて輝いていた。彼の生い立ちを考えれば当然のことだ。
『法律が出来れば、いつか、いつかじいちゃんも堂々とデルムリン島以外を歩けるようになる?』
勇者ダイがモンスターだけの島、デルムリン島の出身であることは世界に広く知られている。【勇者の養親 鬼面道士ブラス老】には敬意も払われる。しかしそれはダイと共にいる時だけであって、ブラスが一人で街中にでも現れれば、まず大騒ぎになるだろう。悪くすれば誰何すらされずに攻撃されるかもしれない。それが、人の認識というものだった。
クロコダインやラーハルト、ヒム、チュウたちもそうだ。地域差はあるが、やはり人とは違う外見というものに、皆恐怖を抱く。
だからこそ――
『ええ。いつかそんな光景が当たり前になるようにしたい。もちろん時間はかかるわ。私の代じゃ足りないかもしれない。それでも……』
熱く語るレオナに、ダイが嬉しそうに頷き、マァムが『凄いわ、レオナ』と感極まって嘆じた。
『戦争が終わって大人しくなったモンスターが、必要以上に追いやられて迫害を受けるのを何度も見てきたもの。何とか出来ないかなってずっと思ってたわ』
それは共に旅をするポップも幾度となく見かけた光景で、マァムがダイ捜索の進展の報告をレオナに伝えるときに一緒に伝えていたのも知っている。
何とか出来ないか…それはポップとて同じ思いだった。
そう、同じ思いだからこそ――
『素晴らしいお考えだと思います、陛下。及ばずながら、私に出来ることでしたら如何様にもお使い下さい』
ヒュンケルが言うのに、ポップはそっと瞑目した。この兄弟子はダイと同じようにモンスターに育てられ、更にはモンスターを率いる立場にあった。彼らを守りたいというのは当然だろう。
――考えなければ。
『ポップ君?』
レオナの声に目を開ける。気づけば皆が自分を見ていてポップは軽くのけ反った。
『ああ、悪い悪い』
返事をしてないのは自分だけだ。そりゃあ注目されるだろう。
『いいことだと思うぜ』
返した声にダイの笑みが咲いた。提案者のレオナは、ほっとしたようだ。マァムはこう答えるのがわかっていたのか深く頷き、ヒュンケルはじっとこちらを見つめていた。
良いことだ。掛け値なしにそう思う。レオナが方向付けをしたのならば、少なくともパプニカはゆっくりとでもそう進んでいくだろう。トップもそして官僚も辣腕揃いのこの国だ。いつかダイが言ったような光景が当たり前になるのかもしれない。
戦後の復興というだけでも大変なのに、百年先のことまで見据えるレオナは、正しく王たるに相応しい。嬉しそうににこにこと笑う皆も、本当に良い奴ばかりだ。気宇壮大にして必ず叶えようとする強い意志も、協力したくなるカリスマも、皆が持っている。
きっと、いつか。この理想は現実になるのだろう。
「ダイの奴、本当に嬉しそうだったな。…ヒュンケルも」
あの二人は、三年前の大戦が人間と魔の戦争だったということを考えれば、特に象徴的な存在だ。
どちらも魔の側に育てられ、一人は人間側の勇者を目指し、一人は魔王軍不死騎団長という地位についた。
困難を乗り越えて、同じアバンの使徒として共に戦い……そんな二人に向けられる世間の目は純粋な好意や悪意だけではない。尊敬や憎悪の影に隠れて見えにくいが、『魔物に育てられた』という侮蔑が常にどこかにある。
称える時は『魔物に育てられたにもかかわらず』、貶すときは『魔物に育てられたくせに』もしくは『魔物に育てられたせいで』という接頭辞がつくのだ。有言・無言に関わらず。
そんなことは二人とも重々わかっているだろうに、それでも曲がらないでいるのがポップには眩しく、己とひき比べてその強さに頭を下げるしかない。そして、二人がそう在れるのが、それぞれの養親の愛情があってのことだとわかるため、レオナの案をポップとて内心では手放しに称賛したい。
そう……称賛したいのだ。それを押しとどめるのは、不安であり、「無理じゃないだろうか」という諦念に近い思いだった。
「なのに俺には、失敗する光景ばっかり想像しちまって、な……」
生来の臆病さが顔を出す。新しいことを始める時には何事にも困難が付きまとうものなのだから、挑戦することにまず意義を見出せば良いのだと……そう思うことが昨今の自分には可能だったし、それが普通にもなってきていると思っていたのに、やはり根っこは変わらぬものなのか。
――人間の心がそんなに簡単に変わるわけもない、ということの証拠なのかもしれない。
「それは、『差別心』が立ちはだかる…ということ?」
レオナの確認に、ポップは頷いた。そうだ。人の心の中には、魔族・魔物に対しての差別が根強くある。
姿かたちが千差万別の『魔』の中では、力が全てであってそれによる序列はあっても、一見してすぐにわかる差別はない。『竜族』も似たようなものだと居候から聞いている。
けれど『人間』は違う。同じ人間という種族であっても血統・容姿・貧富・性別・地域で差別があり、そして異種族に対してはもっと話しが早い。
人間ではないという事自体が『悪』であり、何にも劣る汚点とされる。
ランカークスという小さな村から出ていなければ、大戦があろうとなかろうと、今でもそのことに対して疑問の欠片も持たずにいただろう。自分が今こんな事を考えるのも、アバン先生という最上の導き手に出会い、ダイという親友が実は竜の騎士と人間との混血であるという事実があるからだ。
「ダイのこととか、ヒュンケルやラーハルトのこととか…ダイの親父さんのことなんて言うまでもねえ。俺はさ、姫さんがさっき言い出した時に、ベンガーナのあの時の光景が真っ先に浮かんだんだ…」
拳を握る。三年前のベンガーナの事件での、人々のあの恐怖に満ちた表情。助けたにも関わらず、どうして感謝されずに避けられねばならないのか。思い出すだに苛立ちが湧くが、当時はともかく成長した今はわかっている――人々のあの反応は自然なものなのだと。
命の恩人に感謝する…そんな単純なことさえも、根っこは遮ってしまう。その根こそがそれまでの己の元であるからこその、当然の行動なのだろう。認めたくないと、哀しいと思うのは、ポップの傲慢だ。
「ポップ君らしくないわね」
眉を顰めてレオナが言う。
「変えるのは難しいかもしれないけれど、それでも少しでも良くなるかもしれないじゃない。だけど最初から諦めていたら何一つ変わることはないわ」
正論だ。レオナは正しい。行動する前から諦めていてどうするのか。何事もやってみるべきだ。
わかっている。わかっているのに…。
「ダイ君みたいに純真でいようなんて無理だけれど、それでも今、彼が身近にいることで…その人柄に触れたことで、少なくともパプニカの王都なら魔物でも受け入れようという声はちらほらと出ているのよ。その輪を広げていけば、いつかきっと異種族だって平等に…っ」
レオナは口を噤んだ。ポップが強くかぶりを振ったからだ。俯き、顔の真下で組んだ両手が真っ白になっている。
「姫さん」
「なに?」
「ダイの純真さは平等とイコールじゃあない。そこを一緒にはするなよ?」
レオナは何を言われたのかわからなかった。
言葉の意味はわかる。だが、理解が出来ない。ダイ君が、あの純真の使徒でもある彼が、モンスターに育てられてきた彼が、平等ではない?
そんな馬鹿な。平等になれるとしたら、彼がその見本であり体現者となるのではないのか。
「理解できねえって顔だな」
「…だって」
俯き、上目遣いに自分を見ていたポップが苦笑を漏らした。彼は言う。
「竜の騎士は竜の力・魔族の魔力・人間の心を持った存在だろ…天地魔界の調停者つっても、その時点で、人間の味方するのがほぼ決まってるようなもんだ。『人間の心』なんだから」
心が人間のものである以上、竜族・魔族に対しての公平さ平等さというものは、それをわざわざ心掛けなければ実行できるものではない。
「あ…」
「平等を言うならヒュンケルのほうだ。骸骨剣士の親父さんの仇として、アバン先生を憎んだんだからな」
例えば…と大魔道士は言う。
「そうだな…嫌な前提だけど、ベンガーナとパプニカが戦争になったとする――ベンガーナ側がパプニカに攻め込んで、戦争孤児が生まれたとしよう。その可哀想な赤ん坊をベンガーナの騎士が拾って愛情深く育てた。町の者もその子を受け容れて馴染み、赤ん坊はすくすく育つ。そして数年後、再び戦争が起こり、今度はパプニカ側がベンガーナの王都に迫る…」
レオナは言葉を引き継いだ。
「王城に至ったパプニカの兵が、ベンガーナ王の側近になっていたかの騎士を討つ……その子がそれを目撃する…?」
後ろでマリンが息を飲むのがわかった。ポップが頷いた。彼が言いたいことがやっとわかった。
「そうね…子どもは、パプニカを憎むでしょうね」
そしてそこには何の不自然さもない。子どもにとっては愛情深く育ててくれた者が家族であり世界だ。ましてや赤ん坊の頃からだ。身も心もその子はベンガーナの民であり、きっと長じて後に憎しみを以てパプニカに攻め入るのだろうことまで想像できる。
…ああ、人間世界の喩えならばこんなにも当たり前の事だとわかるいうのに、ヒュンケルは理解されないのだ。育ててくれた父の陣営に属したというだけで『人類を裏切った』との烙印を押されて。
「俺は、時々考えることがあるよ。アバン先生が実際に勝負の結果、ヒュンケルの親父さんを斬っていたとしたら…って。いや、そもそも、ヒュンケルはよく人間の味方についてくれたもんだ…ってな」
「ポップ君……」
「それだけ、師事してた間の先生の愛情だって深かったんだってことだろうし、バーンの魔王軍の空気が嫌なものだったんだろうけど、さ」
今度はレオナが俯くことになった。フレイザードの手から助けられた際、ヒュンケルは自分の前に立ち裁きを求めた。あの時の自分は正しかったのだろうか。いや、きっと、今の自分があの状況になっても同じ事を言うのだろう。けれども。嗚呼けれども。
「もっと不思議なのはダイだよ。あいつは昔、ヒュンケルと戦う時にこう言ったことがある」
もし人間に祖父ちゃんを殺されたりしたら、おれも人間を憎んだかもしれない。
「え…でもそれは…」
いままで黙って控えていたマリンが声を上げた。ダイのその言葉は、ブラス老への愛情があるからこその、ごく当たり前の台詞ではないのか――彼女が言いかけた時、ポップは再び苦笑した。
「違うよマリンさん。ダイが言ったのは『魔物は人間に殺されても仕方がない』って意識が前提にある言葉なんだ。島でたった一人の人間として魔物に世話されて育って……なんでそんな意識になるんだ?」
「そ、それは…」
マリンの言葉は続かない。振り返って彼女の顔を見れば、驚愕の一言で済むだろう表情だった。
(そうよねマリン…。私もそんなこと初めて考えたもの……)
言われてみれば確かにおかしな話だった。
同胞と言うべき島の魔物たちと同じ、魔に属する者たちをダイは島を出てから幾度も斬り捨ててきたのだ。向こうが理性を失くして襲ってきたのだから仕方のないことだけれど、立場を替えて自分ならばと考えれば、襲ってきたのが同胞である人間なら、狂暴化しているだけだとわかっているならば、自分はダイのように躊躇なく斬り捨てることが出来るだろうか。
答えは、否だ。戦いなのだとわかっていても、斬らなければ己が斬られるのだとしても、どうしても最初は戸惑うだろう自分が簡単に想像できる。
「……最初から、ダイ君の中で、魔物より人間のほうが上位に位置している…?」
呟く自分に、意を得たりと大魔道士が頷いた。
「俺も気付いたのはずっと後だよ。けど、考えれば考えるほど変だなって思った」
たとえばブラス老がダイのことを『勇者様を助ける魔法使い』に育てようとしたことも。
たとえばダイが勇者を目指していたことすらも。
(まるで、魔物が人間に討たれるのが当たり前だという常識……)
先程ポップが語った竜騎士の考察が蘇る――『人間の心』…それが人間のみならず、ブラス老の言動を考えれば魔物にすら常識になっているかのようだ。
「あいつは島の魔物たちを友だちだって言う。いっしょに勇者ごっこをして遊んだって……けど俺は、あいつが…負けるべき魔物役をやったとは思えない」
魔王が討たれる者であるように。
勇者が人から生まれる者であるように。
それはもう、魂にまで根付く常識――愛しい勇者は、純真にその常識を映すのか。穢れなき鏡のように。
私たちは絶対にダイ君を差別なんてしない…!
それは、姫、そなたがダイに個人的好意を抱いているからにすぎん。
それではバランの時と変わらん。たった一人の感情では、国などという得体の知れないものはどうしようもない事は、公事にたずさわるそなたならようわかろう…?
かつての大魔宮での会話が脳裏に蘇る。老いた姿、一体何千年を生きたかもわからないと言う大魔王の言葉は、魔族のみならず人の歴史も見続けてきたからの重みがあり、真理を知った者の叡智を感じさせた。
告げられた時、自分は反論できなかった。当時の自分では何も――。
「水を差してごめんな。ただ、その辺りのことを放っといて話が進んぢまうと……どこかのタイミングで、とんでもねえ問題になるんじゃないかって思っちまって………」
ポップはレオナに頭を下げる。
気高い目的に「待った」をかけることは、本当に気が引けた。だが、どうしても言っておかなければならないと思った。これは自分の役割なのだ、とも。
「ポップ君」
レオナに名を呼ばれ、顔を上げると、柔らかな微笑みがあった。
自分の懸念がわかってもらえたのだろう事に、ポップは安堵の息を吐く。
「頭下げたりしないでよ。言ってもらえて本当に良かった。私…ダイ君のこともヒュンケルのことも、そんな風に考えたことなかったもの」
脇に控えるマリンも深く頷く。主人と違って彼女の表情は強張っていた。「陛下、でしたら」と何かを言いかけた彼女をレオナがちらりと振り向き制した。
「でもね、私は計画を中止したりはしないわよ」
言い切り、こちらに向き直った瞳が薄い紅茶色にきらりと光る。それは、この少女王がよく見せる茶目っ気たっぷりの笑みだったが、ポップは一緒に笑うことはしなかった。
自分のその反応を見て、レオナは問う。
「ポップ君は、どうしてほしかったの?」
「俺は…」
どうしてほしいのだろう。
レオナの考えを正しいものだと思っている。その道程に自分が怖じ気づいているのだともわかっている。
「私に、『考え直すわ』って言ってほしかった?」
…違う、と思う。レオナの目標は素晴らしい。それを目指すことが嫌なわけではなかった。レオナの決意が翻るわけがないこともわかっていた。もし彼女が考え直すなどと言えば、それこそ言葉を尽くして彼女の理想を貫き通すように説得するだろう。
ただ…そう、ただ不安で。その不安を伝えたくて。
「…ポップ君は、怖いのね……」
レオナが呟いた。
「ああ…そうだ…俺は、何かの拍子に世界中が牙をむくことが、怖いよ」
嫌われることが、憎まれることが、恐れられることが、怖い。
それが自分だけならまだいい。だが、そうじゃないだろう。
ダイが再びあの目で見られることが、怖い。
ヒュンケルが再び石を投げられるのが、怖い。
強くなったのに、成長したはずなのに、守り抜いたのに、認められてきたのに、人々に拒絶されることが、怖い。
優しいマァムにまで同じ拒絶を向けられるなど、やりきれない。
畢竟…失うことが怖いのだ。地位や名誉なんて俗っぽいものから、尊敬や信頼といった形のない、けれど確かに築き上げてきたものまで……やっと帰ってきたダイや皆と一緒に平和に笑いながら過ごす、今の安寧を失うのが怖いのだ、自分は。
無理に変えなくてもいいじゃないか。
今のままでも、自分たちの周りの魔物は受け容れられているんだから。
何とかうまくいっているじゃないか。
あえて藪をつつかなくても、ダイのことを真っ当に慕う人は沢山いるんだから。
勝利者として優位に立っている気でいるから、ヒュンケルのことも許す人が多いんだ。
法として確立してしまえば、きっと反対も凄い。
弱い誰かが犠牲になってしまうだろう。
ダイたちも傷ついてしまう。
あいつが泣くのは――嫌だ。
地上の『常識』を目の当りにしたら、今度こそダイは、人間を見限って去ってしまうんじゃないか……?
「俺は…小物だな、ほんとに」
「ほんとね。病巣をああまで指摘しといて、治療は怖いなんて」
呆れたような声でレオナが言い、お茶を口にした。沈鬱な表情のマリンに微笑み、「冷めても美味しいわ」と礼を述べる。
「絶対にぶつかる問題だって思ったからこそ、さっきの話をしてくれたんでしょう?」
「…ああ」
「それって、進むしかないって、やるしかないってわかってるから言ってくれたんだと思うんだけど、違うのかしら?」
「…違わねえ」
「ダイ君たちのために怖じ気づくなんて、ポップ君らしいけどね」
苦笑して言うレオナが眩しい。
不安を聞いてくれて、共感もしてくれて、それでも進むことに一切の迷いがない彼女は、正しく『正義』の使徒だ。
「姫さんは、ぶれないよなあ」
どうすればそう強くあれるのか。ぼやけば少女王はきょとんとした顔で言った。
「あら、私もポップ君と同じよ?」
「同じ?」
ポップは思わず訊き返す。怖じ気づく自分と、正道を進む彼女のどこが同じなのだろう、と。
レオナが大きく頷いた。
「わからない? ポップ君が怖じ気づいてるのって、ダイ君たちのためっていうのが大きいじゃない。私も同じなのよ?」
薄茶の瞳がポップを見据える。
「ダイ君を守るわ。全ての戦いを勇者の為に――それが私の正義だから」
凛と言い切る彼女の表情は、迷いがない。
「ダイのために…か……」
それを言われると、弱い。
かの親友のためなら、自分は何だってするだろう。ただその行程で、親友が傷つくのが簡単に想像できてしまって尻込みしているのだけれど。
「ダイ君の純真さが、地上の常識を映すものなら、別の常識を作り上げるくらいにまで頑張ればいいのよ。」
議会に根回しするだけじゃダメでしょうね。まずは教育現場からだわ、とレオナは微笑む。自分たちがこういった考え方が出来るのも、良い教育者がいてくれたからこそなのだから。
「理解者を増やして、その人たちがまた更に子どもたちの中に理解者を育てていくのよ。いつか、今の常識なんて『古臭い』って言わせてやるんだから」
彼女は言う。たった一人の感情では何も出来ないのなら、大勢の感情にしてしまえばいい。数が取り柄の人間が、だからこそ出来る方法だ――と。それはこの場にいない誰かに宣言している風だった。
レオナに感じるのは正しく王者の風格だった。その華奢な貴婦人の姿で、その細腕で、仲間の誰よりも先導者としての貫禄を持てる者。
ついていこうか…そうだな、この女王についていけば、きっと間違いはないだろう。
ダイが…ダイたちが喩え泣こうとも、不幸にだけはならないはずだ。
「じゃあ…よ、メルル通してテランの王様にも頼んだらどうだ? あそこ旅芸人を輩出する土地柄だし…」
「あら、いいわね」
「チウの遊撃隊にも声かけるか。復興現場だけじゃなく、もっと大々的にお助け隊みたいな活動してもらってさ」
先程までの不安が消えたわけではないのに、それでもヤル気が湧いてきたのが自分でわかる。争いが起こった場合の悲惨な光景ではなく、動くための具体的なイメージが脳裏に浮かぶのだから。
ふと、レオナが微笑んだ。
「やっと笑ったわね、ポップ君」
言われ、ポップは肩を竦めた。
「姫さんにはかなわねえなあ」
ああ、まったく。親友は大変な人物を恋人にしたもんだ。
そうだ。戦おう。ダイのためなら。
覚悟を決めろ。勇気の使徒だろ、俺は。
あいつがこの姫君と共にあることを、地上にいることを、望むことこそが己の幸せなのだと思えるように。
それこそが俺の願いでもあるのだから。
(19.12.03UP)