伝える言葉 伝わる思い


 ある国の文字で、忙しいという字には、心を亡くすという意味があるのだそうだ。
 当代の大魔道士を名乗る青年は、師匠から受け継いだ蔵書から知った雑学の一つを思い出した。それを読んだ時は、親友の捜索という何にも勝る目的があったため、関係のない情報として無視をしたことも。
 今更ながらに、その頃の自分が「心を亡くしている」状態だったのだなと、彼は自覚する。自分を追い詰めることで何が変わるわけでもないというのに、心に余裕を持つという当たり前の事にすら、罪悪感があった。
 急き立てるものは不安と焦燥、そして『自分はこれだけのことをしている』と何とか納得しようとする気持ちだったのだろう――蔵書の背を見ながらポップは当時を振り返った。
 ではこんな事をつらつらと思い出す今現在は、心は死んでいない…生きている、ということなんだろうな。などと埒もないことを考える。

「相変わらず、妙な事を考えているのだな」

 思考はどうも口に出ていたようだ。部屋の隅から低い男の声が降った。

「うるせえな。時間があるのはいい事だなって思っただけだろ。ってか、バーン! お前も暇なら少しは手伝えよ!!」

 言い返されたバーンは銀の髪を揺らして笑う。魔界文字で書かれた古書をまとめて置いてある辺りは、書斎の中でも特にバーンの気に入りの場所だった。やはり馴染みのある文字が読めるのは嬉しいものだろうということで、ポップもバーンが故マトリフ師匠の蔵書を読むことに反対はしない。しないが、家主が虫干しのために働いているのなら、優雅に座っていないで少しは手伝えと命令する。
 ふんと鼻を鳴らす音がした。
「時間があるのは良い事なのだろう? 余はいくらでも待ってやるゆえ、励んでさっさと終わらせるがいい」
「なんでそんな態度がでかいんだよ、お前ぇは。ここの本はお前ぇも結構読むんだから、それを保つための努力くらいすりゃいいじゃねえか」
 マトリフ師匠の蔵書はポップのよく知る岩の洞窟だけでもかなりの数があったのだが、他にも隠れ里に置いてあったものや、パプニカの閉架図書扱いになっていた物も随分あった。そこに加えてポップ自身の魔導書等もあるので、この部屋はいま世界中の学者・僧侶・魔法使い・錬金術師といった知識人が憧れるちょっとした聖地となっていたりする。
 何しろ書物というのは貴重品だから、持っているだけで一財産だ。それを分けて保管していては移動も手間だし盗難対策にも金がかかる。名ばかり(と本人たちだけは思っている)でも貴族となって、屋敷を拝領したことで良かったと思えた事の一つは、法具や書物といった貴重品を一箇所にまとめて置けるようになったことだった。
 まあその分、いままで小分けに出来ていた作業を、一度にやることにもなったので、痛し痒しである。
「大魔王を顎で使うとは、大したものよな」
「もう王様じゃねえだろ、居候さん?」
 常ならそう気にならない揶揄が鬱陶しく、ポップの言葉には本人も自覚しているが棘が生えだした。嘘くさい笑顔で再度「手伝え」と短く言えば、バーンはやれやれと首を振る。
「にわか貴族では、王の臨席が負担か」
「…本当に家賃とろうか?」
 軽口の応酬は、しかしはたから見ていても剣呑な空気を纏い出した。ポップの周囲には冷気が漂っている――これは比喩ではなく魔法力が漏れ出しているのだ。得意なメラ系ではなくヒャド系の作用が表れているのは、ここが書庫だということを考えれば流石かもしれない。
 
「二人ともいい加減にしなさいよ」


呆れて告げられたのは、マァムの声だった。
「マァム…だってよぉ……」
「だってじゃないわよ、ポップ。バーンの軽口なんていつものことでしょ?」
 イライラしても仕方ない。心の話をしていたというのに、それを平静に保たずに怒りにとらわれてどうするのか。
 正論すぎる言葉を返されると、ポップは黙るしかない。気まずそうにポリポリと頬を掻く彼を見て、マァムは内心で溜息をついた。彼女にはポップが苛立つ理由が充分にわかっていたからだ。
 先程の雑学も、何でもないような事を口にして落ち着こうとしていたのだろう。少し前までならば、バーンが少々からかっても「へいへい」と簡単に終了していた会話だったはずだ。けれども……今はそれが難しい。

「心配なのは当たり前だけど、バーンだってどうしようもないんだから……」

 言い差して、マァムは口をつぐむ。上手く伝えられない自分がもどかしかった。
 旅立つダイのために、魔界の事を調べ、バーンにも幾度となく質問した。結果、よくわかったのは魔界というのがいかに厳しい世界であるのかということと、瘴気に満ちたその世界では純粋な人間は呼吸すら出来ず、どうしても生きることは不可能だということだった。
 つまり、ダイの魔界行にはポップもマァムも、アバンの使徒は誰一人として同行出来ない。
『どうしようもない』その厳然たる事実がポップを打ちのめしたのはつい先日のことだ。昔のように感情的になることもなく、それならばとダイのために役立つアイテムの作成や呪文の開発を考えたりと、傍目にはポップは前向きに見える。けれど、ダイが魔界に行かねばならない理由が『新たな魔王の出現』で、その存在がバーンが大魔王として健在ならば(この因果はメルルの占いによる)・・・・・・・・・・・・・・・決して表舞台に出てくることがなかったのだと知れば、心中穏やかではいられないというのは簡単に想像できることだった。
 他人事(ひとごと)ではない。マァムとて思うことは沢山ある。バーンの変わらぬ態度に言葉を飲み込んだことは一再ではない。ただ――人間である自分たちと違い悠久の時を生きてきた元大魔王が、個々人の運命を俯瞰した視点から語るのを、マァムはこの二年で何度も見てきた。その事実がある種の諦観を彼女に与えていた。
 
「悪い。…バーンも、すまねぇ」

 ぽつりと告げられた謝罪。努めて平静に、落ち着こうと頑張って、それなのに簡単にささくれだつ心。”魔法使いは常にクールであれ” 亡き師匠の言葉を戦闘で誰よりも実践できているポップを知っているからこそ、そしてその箍を外すダイとの友情を知っているからこそ、マァムは哀しそうに頷いた。
 対照的に、バーンは皮肉気に口の端を上げた。読んでいた本をパタリと閉じると、ポップに投げてよこす。
「ぅおっ!」
 突然のことに危うく本を落としそうになって、ポップは非難の視線をバーンに向ける。
「何すんだよ。これ、古い本なんだか「そのようだな」ら…」
 食い気味にかぶせられた肯定は、どこか愉快そうで、金色の目が爛々と光った気がした。
「実に興味深い内容だ。余でも魔界にてそのような代物は見たことがない。お前の師匠のマトリフとやらは、よくそんな物を持っていたものよな」
「え…」
 二人の会話にマァムもポップの横に立ち、本を覗き込んだ。それは魔界文字で書かれており、その方面を学んでいない彼女には表題すら読めないものだが、ポップがめくる頁には頻繁に図表が出てくることから、何かの実験だろうか。
(古代の錬金術のようなものかしら…?)
 深く考えず内心で思ったそれは、正解だったらしい。



「『進化の秘法』というものを知っているか?」



「進化…秘法…? いや、聞いたこともねえな」
 ポップは首を傾げた。亡きマトリフ師匠が多方面に造詣が深かったのは知っているが、それでもやはり蔵書は魔導書が専らであり、本人との会話でもそういった単語すら出てきたことが無かった。ゆえにこの古文書もマトリフ師匠が昔にかき集めて乱読した専門書の一つとしか思っていなかったのだが。
 さらに言えば、ポップはまだ魔界文字は勉強途中で専門的なものは読めないために未読というのもある。十代半ばの時点で、魔界文字の解読および料理に学問に武芸に古代の秘術の再現まで何でも出来ちゃうパーフェクトな『先生』も世の中にはおられるが、あれは例外中の例外なのだ。
 知識の塊のアバン先生からも、そういう話は聞かされたことがなかった。錬金術系の話は、現在ポップがアイテム作りに使っている錬金釜を譲り受けた時に、少し話した程度だ。
 ポップの返事にバーンは軽く頷いた。
 長い脚を組みなおし、彼は「その書物は」と語る。

「言葉の通り、『進化』に関するものだ。生命の成り立ちからの考察と、いかに人工的に在りようを変化させるかまで、な」

 こくりと小さな音がマァムの鼓膜に響いた。横に立つ恋人が唾を飲んだ音だった。
「進化って……スライムがメタルスライムになるみたいなものかしら……?」
「間違ってはいないが、それはスライム属が環境に適応して自ら望んでいった緩やかな結果だな。言ったろう、『人工的に』だと」
 マァムの問いに、バーンはくつくつと笑う。何が可笑しいのだろう。
 ちらりと彼女はポップを見上げた。いつもなら、すぐに彼は質問や感想を口にするのに、どうして黙っているのだろう。どうして書を持つ手が震えているのだろう。どうしてそんな顔をしているのだろう?

「似たような実験はザボエラめがしていたな。こちらは更に根が深いものだが」

「超魔生物…」
 ポップが呟いた。
 マァムはその単語に息を飲んだ。脳裏にハドラーとザムザという二人の魔族の男の姿が浮かんだからだ。前者は最期にポップと心を通じ合わせてダイを救い、後者は父親の愛情と称賛を希いながら斃れた。どちらもその死を受け容れていて見事な最期だったと言えるのだろう。憐れんだりするのは己の傲慢であるとわかっていても、それでも遺体すら残らなかったことが彼女には哀しかった。
「そうだ。あの身体強化は確かに素晴らしかった。元には戻れぬゆえに進化といってもおかしくはなかろうな。あの下衆な男の発想でも余はそれだけは評価したぞ」
「なんで…師匠がそんな本を…持って…」
「知ったことではない。ただ追い詰められれば強さを求めて藁にも縋るというのは種族を問わぬだろうさ。実践はせなんだようだがな」
「実践……」
「応用すれば、人間にも使えるのではないか? 余は研究者ではないからわからぬが、進化は別に魔族だけと限るものでもなかろうよ」
「っ………!!?」
 過去の哀しい思い出を反芻するマァムの横で、ポップが未来の話をしている。そのこと自体は良い事のような気がするのに、彼女の胸はざわついた。

「ポップ?」
 どういうこと?
 名を呼ばれ、ポップはびくりと身体を震わせた。マァムの薄茶の瞳が自分を見上げている。その視線は鋭いわけではなく、ただ真っ直ぐだった。
「あ……」
 返事をせねばと思うのに、喉が引きつった。それが後ろめたさからくるものだと、彼にはわかっていた。
 人間族・魔族・竜族の三人の神々がそれぞれの種族を作ったと言われ、実際その証拠のような存在の親友がいる。人工的な進化とは即ち種族としての在り方を無理やり変えるということだ。神の領域に踏み込むのは禁忌という感覚がある。

(いま俺は――何を考えていた?)

 バーンの言う『進化』。この書物を解読して応用できれば、人間にも使えるのではないかと優雅に座る元大魔王はそう言った。
 それは…戦力が増すというだけではなく……

「人間でも、さ…魔界の瘴気の中でも…平気になって………」
 心の声は外に出ていた。横で見上げる恋人の纏う空気が硬くなったのを、敏感にポップは察知した。目を合わせれば、案の定マァムは形の良い眉を顰めている。
 反対の声が彼女の口から出る前に、ポップは言い募っていた。



「もし、もしもそんなことが出来るなら、ダイについていける! あいつが戦ってる間に地上で待つなんてしなくていいんだ…! あいつを独りで戦わせなくてもいい!

 もう二度と置いていかれたりしねぇ!!!」



 最後を言い切った時、マァムの瞳が揺らいだ。
 視界の隅でバーンが皮肉に笑う。

   ぶわり

 暑い風が窓から吹き込んだ。古い書物がポップの手の中ではらはらと頁をめくり、さまざまな図式を二人に見せてゆく。
「腕輪…?」
 最後の頁に描かれた絵を見てマァムが独りごちた。本をテーブルに置いて改めてその絵を見れば、確かにポップにもそれは腕輪に見える。大きな宝石を中心に埋め込みゴテゴテした装飾が施されているようだ。その名も――
「――おう、ごんの…うでわ」
 ポップが書かれた名称をたどたどしく読み上げた。
「鍵のアイテムだ」
 魔界の神だった男は言う。かつて存在した魔王の一人が秘法を完成させ、己自身に施した。だが重要な触媒となる『黄金の腕輪』が足らず、不完全な進化となったのだと。
「その秘法がどのようなものだったのか、今ではもう魔界にも伝わっておらぬ。だが、単なる獣が知性を持ち言葉を喋るようになるだの、低級モンスターが人間になるだのといった逸話は残っている。おそらくその書は……」
 秘法を伝えた散逸した書の一つなのだろう。バーンはそう締めくくった。
 ポップは身じろぎもせず腕輪の絵を見つめていた。マァムが見つめるのは、そんな恋人の横顔だ。
 まただ、と彼女は思う。幾度も見たポップの表情だった。親友ダイのために何が出来るか・何をすべきか――それだけを突き詰めて考えている時の表情かおだ。マァムが最も好きな表情でもあり、最も厭う表情でもあった。
(思い知らされるから……)

   パンッ!

 乾いた音が響いた。
 何の前触れもなくいきなり頬を打たれ、ポップは呆然とする。ゆるゆると感情が戻ってきたのか戸惑いと怒りが交互に黒い瞳を彩った。
「い、いきなり何すんだよ、マァム?!」
「うるさいわよ馬鹿!!」
「はあ?!」
 理不尽さに食って掛かろうとするポップを無視して、マァムはバーンをキッと睨んだ。
「素晴らしい秘法なら、どうして失われたの?」
 単純で鋭い問いに、バーンはただ肩をすくめた。
「ポップを煽らないで、バーン。そんな大それた秘法が良い面ばかりなはずがないでしょう。皆が恩恵を受けられるんなら資料が散逸なんてするわけないし、魔界の人たちにだって広く知られてるはずだわ」
 その言葉にポップがはっと息を呑んだのを感じ、彼女は振り返った。
「……目が覚めた?」
「あ…その…マァム、俺……」
「冷静でいて、ポップ。こういうの、いつもなら逆でしょう?」
「面目ねぇ…」
 俯くポップに、もう大丈夫だろうとマァムは安堵の息を吐く。吐息とともに両目から零れたものがあった。
 言葉は届いた。ならばもう、彼は一人で進んでいかない。

「なんだ。もう良いのか?」

 バーンが不思議そうに問いかけるのをポップはバツの悪そうな顔で「ああ」と答えた。
 久々に恋人に横っ面を引っ叩かれて目が覚めた。古代の秘法なんてものがメリットだけのわけがないのだ。旨い話には裏がある。そんな事はこの五年間で身に染みているというのに。
 だがバーンの表情は変わらなかった。
「余としては協力してやるのも吝かではないのだがな」
 いつも皮肉を言う彼ばかりを見ているポップらにしてみれば、珍しいほどの邪気の無い素直な言葉だった。まさか先程のあれは、煽るつもりでもなんでもなく心からの言葉だったとでも言うのだろうか。
 思わずマァムと目を合わせ、彼女も同様に困惑していることを確認する。
「人は弱い。うぬらとて、どれほど鍛えてもその身は人の範囲だ。限界はある。だがこの秘法を研究し、上手くいけば人を超えられよう。なにも、『進化』が超魔生物のようなものとも限るまい」
 性質たちが悪いとポップは真剣に思った。バーンの言葉は、真実、ポップを思いやってのつもりでいるからだ。
 マァムもそれを感じ取ったのか、気まずそうである。
 この元大魔王から受けるのは、皮肉と嫌味が多分に含まれてはいるものの、好意に他ならないことを二人は分かっている。大戦より三年の復興と勇者捜索のあの日、テランの片隅で再会して以来二年という年月は短くない。仲間とは比べ物にならなくとも、決して儚くない奇妙な絆――身内の情とでもいうべきものが確かに存在しているのだった。それが逆に思考に蓋をしていた。

 常識も年齢も生き方も何もかも違う元大魔王…魔界の神……そんな彼が示すのは、どこまでも魔族の価値観だということに若い大魔道士と聖拳女はようやく思い至った。

 弱いことは悪であり、力こそが正義。強さを求めることは当然の行為で、全てを擲ってでも強くあろうとすることは憧憬の対象であり称賛されるべき姿勢なのだ。
 かつて魔軍司令ハドラーが魔族の肉体と寿命を捨てて、超魔生物に己を改造したように。
 妖魔学士ザムザが己を実験体にしてでも結果を出そうとしたように。
 ポップにもわかってしまう。彼らの覚悟と強さが恐ろしく、敵わなかった事実があるゆえに、眩く尊く思っている。
 マァムにもわかってしまう。「力なき正義は無力」という言葉を幼いころに知って以来、求めたものとは対極にありながら何か一つを追い求める姿勢を羨望するがゆえに。
「本当に良いのか。力なくした身ではあるが、翻訳と知識の提供くらいならしてやれる。純粋に興味があるのだ。余を倒した時のように、全てを擲って困難に立ち向かう『人の子』は捨てたものではない」
 ここまで彼に素直に示される好意というのは珍しい。そんな場合じゃないとわかっているのに、ポップの口から苦笑が漏れた。先程ぶたれた左頬が、じんと痛んだ。

「はは…そっか…『人の子』か……」
 その言葉の中にはダイは含まれているだろうか? ふと疑問が脳裏を掠めたが、馬鹿らしいと打ち消した。竜の騎士であってもダイは紛うことなき人の子だ。人間の母親を持ち、人間の心を持ち、誰よりも全てを擲って大魔王に立ち向かった勇者――あいつこそがバーンの言う『人の子』の象徴だろう。
 そっと手を握られる。節くれだった武闘家の硬い手は、あたたかく優しくポップの指を包んだ。
「ありがとう、バーン。でも私たちは捨てるわけにはいかないの…あなたが『捨てたものではない』なんて言ってくれるなら、なおさらに」
「ああ。そう、だな…」
 握り返す手に力を籠める。
「ほう?」
 バーンの短い応えに、失望と興味がない交ぜになっているのを感じた。涼しげな金の瞳が瞬いて二人をひたと見つめる。時折、この元大魔王に試されているのを感じるのはこういう時だった。
 先程の、藁にも縋る思いで秘法を求めた自分を、彼はどんな気分で見ていたのだろう。人間を超えて人である己を変えて人間としての在り方を捨てて、それでも親友のみを求める姿は魔族の正義には『是』だったのだろうか。今この時、リスクを計算し、禁忌に手を出さず、何も捨てないことを選んだ自分は矮小な弱者と映るのだろうか。

「私たちは貴方の言う『人の子』だから…、だから人のままでしなきゃいけない役割があるの」
 
 マァムの言葉が静かな部屋に響く。それは彼女の覚悟の表明であり、ポップの求める道に等しかった。
(やっぱ、俺が間違えそうになったらぶん殴ってでも正しい道を教えてくれるのって、こいつなんだよなぁ)
 にやけてしまったポップに、バーンが不可解な物を見る目をした。そうだ、バーンの正義や価値観を気にしても仕方がない。気にすべきは――親友自分が人間をやめてまで追いかけてきた時のダイの心なのだから。自分が想うのと同じだけ、ダイも自分に友情を覚えてくれている。
 人間としての自分たちが、友に、仲間に、或いは恋人になりえたこそ、ダイは人間を愛している。人間の弱さも醜さも受け容れて、なお大切に思ってくれているのだ。その自分が人間の在り方を否定をしては、本末転倒だろう。
 そんな当たり前のことを思い出させてくれたのは――

「……なるほど。よくわかった」

 バーンが立ち上がった。話はこれで終わりということなのか、ドアに向かう。
「サンキュな、わかってくれて」
 背に受けたポップの礼に、バーンはふんと鼻を鳴らした。

「ああ、人間はよくわからんという事が、よくわかった」

 長い銀の軌跡を残してバーンは退室し、呆気にとられたポップが「あんにゃろぅ」と呟いたその時、マァムは吹き出した。
「ふふっ。バーンらしいわね」
 明るい笑い声。慈愛と朗らかさに満ちたそれに、一瞬ポップは見惚れた。
「マァム…ごめんな」
「気にしてないわ。…いつものことだもの」
 朗らかな笑顔のまま、ポップにとって忸怩たる事実を彼女は言う。
「いや、本当にいつも、ごめん…」
 再びの謝罪に、薄茶の双眸がすっと細まった。「いいのよ」と彼女は微笑む。
「それがポップだもの。ダイの為に必死になって、ダイの為なら何だってしようとして、それで最後には出来てしまって…」
 歌うように。幼子を褒めるように。背中で手を結んで、くるりと軽やかにステップを踏んで。肩まである薄桃色の髪が、貴族女性らしい刺繍の施されたスカートが、ゆらゆら ゆらゆら。
「マァ…ム」
「いつも貴方はそう。私はいつだって思い知らされるの――」

 ――決して一番にはなれないことを。いつかはダイという半身のために行ってしまうことを。

 これは絶対にポップ本人には告げないとマァムは決めている。五年前、蒼空にダイが消えた時から、置いていかれたポップの痛みと嘆きをずっと見てきたのだ。ダイが帰還して二年、表面上はすっかり塞がったその傷は、けれど決して治ってなどいない。だからこそのあの言葉…
 もう二度と置いていかれたりしねぇ!!!
 あの言葉は心からの血を吐く叫びだ。今回は思い留まってくれたけれども、きっと確実な手段さえあれば、ダイの危機に彼は立ち上がるだろう。むしろ、そうでなければポップではなくなる。
(だから…言葉や情で縛ったりしないから……)
「――そんな貴方だからこそ、ついていきたい」
 置いていかれたくなくて必死にもがく貴方に、私も必死でついていくから。

 ぶわり と暑い風がまた入り込んだ。古文書の最後の頁が、音を立てて閉じる。
 強い光を湛えた薄茶の瞳が、自分を見透かしているかのような気がして、ポップの背をぴりりと何かが駆けのぼった。
「ありがとう…マァム」
 惚れた女に言われた心痺れる言葉。抱き締めて口づけて、ふと視界に入った書物から目を逸らす。
 きっと自分の勘は当たっている。普段とても鈍いこの恋人は、自分の抱える後ろめたさにちゃんと気付いている。
 気付いて、それでも数多の言葉を呑み込んで、ただあの言葉だけをくれた。
 ならば自分は、それに応えよう。必ず。必ずだ。
(マァム、お前の認める方法で、お前とダイが笑顔でいてくれる方法で俺はどこまでも進むから――)



「――ついてきてくれ…どこまでも」


 
(19.05.01UP)



入口へ  あとがきへ