美醜


 真上には、冴え冴えとした光を放つ月。
 鎌のように細い月でも、雲一つなく澄みきった夜空にはまた眩しい。か細い銀月の代わりを務めるように、星々もまた互いが競うように光を地上に投げかけている。
 涼やかな光がゴツゴツした岩肌を照らす。下の方には緑もあるが、いまこの場所には視界を遮るものは何もない。遥か南西を見下ろせばパプニカの王城を要として都が広がっているのが一望できた。
「綺麗ね…」
 エイミはぽつりと呟いた。
 月光に照らされる都は、城は……綺麗だった。よく見ればまだまだ瓦礫が放置された場所も見つかるのはわかっているし、破壊の爪痕生々しい箇所もあるのは知っている。それでも、噴煙の一本も上がっていない。悲鳴の一つも聞こえはしない。―――三年前からの死に物狂いの復興。エイミの主君とエイミ達自身の努力の結晶。それが着々と実を結ぼうとしているこの光景が美しくなくてなんだろう。

 じゃりじゃりと小さな音がエイミの方に近づいてきた。それは一度止まり、すぐに間隔を短くして鳴りだした。
 名を呼ばれる前に、彼女は音の主に振り向く。同時に、頭上の月と同じ色の髪を持つ男が、彼女の視界に入った。
「エイミ…!」
 驚いたような、僅かに呆れたような声で、彼はエイミを呼んだ。
「何故ここに?! まさか、ずっと…?」
「ええ。貴方がここに残ったと聞いたから、迎えに来たのよ…ヒュンケル」
 相手の困惑などお構いなしに、エイミは穏やかに笑って「捜索隊の者に聞いたの」と告げた。
「坊やが気にしていたわ」
「……そうか」
 かすかに瞠目し、ヒュンケルは頷いた。苦笑に似た表情になる。
 ヒュンケルは数刻前に救出した子供―――ルースの負けん気の強い顔を思い出した。
 捜索隊の者から聞いて、ルースは、誰が己を助けたのかを知ったのだろう。

 フレイザードによってマグマに呑まれた地底魔城。しかし、元々が死火山だったところを無理やり起こされた―――フレイザードの言い方を借りれば「活」を入れたということだったが―――ため、結局噴火はすぐに収まり、溶岩も大した量は流れず、すぐに冷えて固まった。
 そのため、城の全てが溶岩に埋もれたわけではなく、無事な箇所もかなり残っている。特に、かつての闘技場の上階席からは比較的自由に内部に出入りが可能なので、今では山の獣や弱いモンスター、時には盗賊などが棲みつく場所になっていた。
元々が前大戦の頃に魔王ハドラーの根城だった場所である。しかも三年前は不死騎団の魔物…つまりアンデッド系モンスターの住処となっていたため、誰からも恐れられている場所だ。普段は近づく者とてない。
 だが今日は違った。
 剣の修行だと言って、周りが止めるのも聞かずに闘技場から入っていった少年がいたのだ。

「怒って…いただろうな……」
 正体を明かせば、少年はきっと、意地でも自分の手は取ってはくれなかっただろう。何とか発見したものの、あのまま闇雲に進めば、通路に仕掛けられている罠がまだ活きているかもしれない状況―――実際に幾つかは作動して、ヒュンケルがルースを見つけたのは落とし穴の先だったのだ―――では危険極まりない。そう思い、単に『捜索隊の者だ』としか名乗らなかった自分の判断は間違いではなかったと思っている。
 けれど―――
 迷子になった事の恥ずかしさを誤魔化すためか、ルースという少年はよく喋った。
 曰く、いつも剣の鍛練をしているという事。大戦でパプニカの兵士であった父親を喪ったという事。腕試しのために噂に聞く地底魔城の魔物を倒しに来たのだという事。

 いつか、父の仇である元魔王軍不死騎団長ヒュンケルを斃したいのだという事………。

 ―――告げるべきだったのかもしれない。
 地上に出てからでは、他の面々もいる。あの子の恨みを晴らさせてやる為には魔城内で名乗るべきだったろう。けれど、それを考えるたびにヒュンケルの中で制止の声が掛った。

 あんたの番で、鎖を斬ってくれ

 ―――それは、以前、弟弟子に言われた言葉だ。
 憎しみの連鎖をこれ以上繋げさせるな……その言葉はヒュンケルに大きな感銘を与えた。
 自分の事を、復讐されるべき、討たれるべき存在だと考える意識が消えたわけではない。それでも、少なくとも、生きている事にも意義があるのだと思えるようになったのだ。
 だが、そんなヒュンケルの心情をルース少年が理解する義理も義務もないのも確かだ。己を助けに来てくれた、やたらと迷宮に詳しい兵士の正体が、実は斃すべき仇だったと知れば、少年の気分が良かろうはずもない。
 怨まれている事を恐れて名乗ることもしない卑怯者だと考えたかもしれない。あるいは、己の恨みを無視する…他人の痛みを理解できない男だとも。

「……あの子は、何か…言っていたか?」
 しばしの沈黙のあと、ヒュンケルはエイミに問う。彼女は先程から変わらぬ笑みのまま、頷いた。
「『ありがとう』」
「…え?」
 耳を打った短い言葉は、余りにも予想とは違っていた。反射的に訊き返した彼に、エイミの微笑は深くなる。
「『助けてくれてありがとう』って貴方に伝えてほしい。そう言われたわ」
「……まさか」
 信じられない。
「あら、本当よ」
 ヒュンケルの心の声が聞こえたかのようにエイミは告げ、立ち尽くす彼に、さあ、と声をかけ、防寒用のマントを渡した。
「もう遅いわ。帰りましょう、ヒュンケル」
「あ、ああ…………」
 促されるままにヒュンケルは頷き、マントを羽織った。
 いくら鍛えた身体とはいえ、夜のこんな高地では寒さが堪える。乾いた風を孕んで、二人のマントが大きく膨らんだ。
 エイミはマントを手繰り寄せて身を窄め、ヒュンケルの横に並んだ。彼女がポケットからキメラの翼を取り出すのが見えた。使用すれば瞬く間に望んだ場所へと連れて行ってくれる魔法の道具だ。
 細く白い手がヒュンケルの肩に置かれた。だが、エイミが翼を放り上げる前に、ヒュンケルはその動作を片手をわずかに上げる事で制止した。
「ヒュンケル?」
「…すまん、エイミ。俺は…まだ少し、ここにいようと思う」
 迎えに来てくれた彼女の厚意を無駄にするのを申し訳なく感じつつも、思わず止めてしまっていた。
「どうしたの? まだ、何か調べないといけない事があるの?」
 訝しげに問われ、答えに窮する。言われてみれば、地底魔城に残る理由を捜索隊の者たちに話す時、「まだ作動する罠があってはいけないから調べようと思う」というような事を告げた事を思い出す。勿論それは、ルースから離れるための言い訳だったが、一応は尤もな理由なので、皆納得してくれたのだ。
 エイミが大きな瞳でじっと見つめてくる。ここで「そうだ」と答えれば、彼女は「手伝うわ」とでも言うのだろう。言い訳に巻き込むのは本意ではない。
「いや…」
 彼女に嘘は吐きたくはない。それに、こういう時は彼女に嘘が通じないのもわかっている。もう長い付き合いだ。
「そうじゃないんだ…。その…すぐに街に戻るというのは、どうにも違う気がしてな……」
 説明が難しい。もとから口下手なのは自覚があるが、こういう感覚的なことを他人に話した経験などほとんど無い。
 エイミの表情は変わらない。不思議そうにするわけでも、不審げに眉を顰めるわけでもない。
「すまない…上手く説明が出来ない。……朝までには、歩いて帰れるだろうと思う」
 明日も城での仕事がある。エイミも同様だ。それを考えれば、深夜までこんな所にいるのは間違っているだろうことはわかっている。時間を有効に使うには、キメラの翼でもルーラでも何でも良いから活用して、さっさと帰宅すべきなのだ。
 だが、いまはそれが嫌だった。…そう、嫌なのだ。別にその移動法に含む処があるわけではない。ただ単に、目の前の風景が一瞬にして移り変わるというのを想像すると、いまこの時に限ってどうにも抵抗を覚えるのだ。こんな意味のわからない我儘など、説明の仕様がない。
 少ない語彙しか持たぬ身でどう表現すべきか迷っているヒュンケルに、エイミは小さく笑って点頭した。
「わかったわ。なら私も残ります」
 目を大きく見開いたヒュンケルが何か言い出すのを制するように、エイミは続ける。
「せっかく迎えに来たんだもの。貴方の気が済むまで一緒にいます。それに、あっという間に帰ってしまうと、ちょっと勿体無いわ。こんなに綺麗なんだもの」
 綺麗? 何の事かと思えば、エイミは視線を外し、前を見た。つられてそちらを見る。

 果ての無い世界があった。

 眼下にはパプニカ王城を臨む街。彼方に広がる海は黒く、空との境を無くして星々を映している。鏡映しになった無数の星と細い月が作り出す、柔らかな蒼い夜の世界。
 広大なパノラマ。見えていたはずなのに気付いていなかったその光景に、ヒュンケルは一瞬息を詰まらせた。

「ね。綺麗でしょう? キメラの翼を使って帰ってしまうと、この感動が此処に置いてけぼりになってしまうわね」
 朗らかに笑うエイミの言葉に、ヒュンケルは素直に頷いた。感動が置いてけぼりになる……なるほど、自分が感じていた抵抗も、そうなのかもしれない、と。
 もっとも、彼が置いて行きそうになると感じたのは目の前の美しい光景への感動ではない。
 再生する街に目を向けながら、背中を振り返りたいと言う衝動を堪える。

 エイミのいる場で、振り向くべきではない。
 置き去ってしまうと感じたのは、断絶してしまうのは、先程まで訪れていた地底魔城―――その空気への思慕なのだから。



 エイミは、愛しい男の乏しい表情の下で、どんな思いが渦巻いているのか想像していた。
 捜索隊にヒュンケルが加わったと聞いて、彼女は、救助対象がどんな子供なのか調べたのだ。孤児院の子だと言うなら、今現在、院に入っている子供のほとんどは戦災孤児だ。そこに、いくら地底魔城の地理に詳しいとは言え、ヒュンケルが行く事には抵抗を覚えたのだ。止められることではないにしても。
 もう戦の終結から3年が経つ。だが、まだたったの3年でしか経っていないとも言える。人々の中には、魔王軍の将だったヒュンケルを深く憎む者も、まだまだ多くいるのだ。
 ルース少年も、その一人だった。
 常日頃から剣の鍛練をし、その事を褒められれば、「父親の仇を討つためだ」と口癖のように返す子だという情報を耳にして、エイミは、心に不安の黒雲が湧き立つのを止められなかった。
 ヒュンケルがそんな情報を事前に得ていたのかどうかは知らないが、今の反応を見れば、きっと彼はルースの境遇は知っているのだろう。知っているからこその苦笑であり、問いなのだ。
 少年が無事に救助されたという事と、ヒュンケルがすぐに地底魔城の探索に取って返したとの知らせを聞いて、エイミは孤児院に帰ったルースを訪ねた。二人とも無事なようで何よりだったが、何かしらの問題が起こっていないかとの心配は当然のものだった。
 だが、そんな心配は、実際に少年に会ってみて、朝日の前の夜霧のように霧散した。

『助けてくれて、ありがとうって…伝えてもらえませんか……?』

 ヒュンケルの正体を知ってなお、少年が礼を言うなど、誰も想像すらしていなかったに違いない。実際に、孤児院の院長や子供たちは驚いて顔を見合わせていた。
 だが、ルースの瞳に嘘はなかった。怒りはあったかもしれない…それでも、憎しみや恨みといった冥いものには翳っていなかった。彼はぽつりと呟いた。

『ああいう人なんですね…』

 ぽつりと呟かれたルースの言葉に、エイミは静かに頷いた。

 ルースはヒュンケルに『何か』を見たのだ。それはきっと―――



 風の届かない岩陰に腰をおろして、二人はただ静かに座っている。
 エイミからルースのことを聞いても、ヒュンケルは何も言わない。ただそれは、何も思わないという事ではないというのを彼女は知っている。
 僅かに瞳を泳がせ伏し目がちになる…そんな、困惑する男の表情を見つつ、エイミは尋ねる。
「ねえ、ヒュンケル。地底魔城であの子とどんな話をしたの?」
「話?」
「ええ。何も話さなかったわけではないんでしょう? 入ってから救出まで一時間はかかったって聞いたもの」
「それはまあ、そうだが。何も大したことは話していないぞ。城の中に住む魔物達のことくらいだ」
 素っ気ない答えはいつもの事だ。

 大戦後、エイミはヒュンケルに付いて旅をした。求められての事ではない。ヒュンケルが同行者として頼みにしていたのは半魔の戦士ラーハルトであって、エイミはただの押し掛けでしかなかった。
 元々魔王軍の超竜軍団に属していたというラーハルトは、戦いを通してヒュンケルと互いを認め合ったのだ。その関わりを証明するように、いざ戦闘となった時に彼らは実に息の合ったコンビだった。エイミが役に立つ事などほとんど無かったと言っていい。
 それでも彼らはエイミを邪険には扱わなかった。そのうちに時折、補助呪文で戦闘の援護をし、人里での情報収集を多く担当するというような形で彼女は二人の旅に受け入れられ、打ち解けていったのだ。

「魔物達の話? あの子に? 興味があるわ。教えてくれないかしら?」
 放っておけば必要最小限のことしか喋らない二人との旅の間、エイミはいつも話題を探しては話しかけた。黙っていられるだけでは場が持たないというのもあったし、親睦を深めたいというのも勿論だった。だが、一番の理由は、単に知りたかったからなのかもしれない。
 人間を憎んで魔王軍に属し、祖国を壊滅状態にした…そしてその後は地上を救うために全身全霊を捧げた男が、何を考え何を想うのかを



 不思議な女だ―――心中で独りごちる。
 それは、ヒュンケルがエイミによく思う事だった。
 いつも親しく話しかけてくる彼女は、ヒュンケルにとっては不思議な存在だ。
 好意を持ってくれている事は、直接告げられた事もあるから当然知っている。だが、その理由が理解できないため、不思議としか言いようがない。

 愛している―――そう告げられ、もう戦わないでと懇願された。もう三年も前の、大魔王軍との戦いも終わりに近づいていた頃の話だ。恋愛感情というものを、まさか自分が向けられることがあるなどとは、ついぞ思っていなかった。

 ましてや、エイミはパプニカの人間なのだ。
 自分が一度滅ぼした…滅ぼしかけた国の人間。そんな彼女が、仇敵である自分に恋愛感情を抱くというのが理解できない。そして、自分にその想いを受け取る資格があるはずもない。
 今もこうして、ルースに喋った事を訊かれるままに答えてはいるが、魔物たちの生態などを聞いてもエイミには面白い事など何も無いだろう。むしろ、魔物について詳しい自分に忌々しさを感じるのではないかと思う。なのに彼女は熱心に聞くのだ。
 目許が柔らかな弧を描いて、紅を薄く入れた唇が時折ほころぶ。それは、彼女がいつもよく見せてくれる笑顔だ。
 受け入れてくれているという嬉しさや、ありがたさを覚えると同時に、何故そんなにも好意を持ってくれるのだろう、との問いも浮かぶ。自分は元は敵だったのに。何故、赦してくれるのだ。自分は罪人だというのに。

 あのルース少年が自分に礼を言っていたというのも信じられない。いや、エイミが嘘を言っているとは思わないが、それでも、少年が自分に対して礼を述べる筋合いなどないだろうに。
 肉親を奪われた辛さと悲しみは、知っている。そして、その仇が、大手を振って生きている事に対する、恨めしさと憎悪も。
 奇しくも、ルース少年が喪ったのも父親だ。そう、まるで…昔の自分の再来ではないか。アバンを憎み続けた3年前までの自分の………
「ヒュンケル?」
 エイミの呼ぶ声が、意識を現実に引き戻した。
「あ…すまない。どこまで話したかな」
「………。坊やが引っ掛かった落とし穴は、貴方も知っている仕掛けだった。って…」
 僅かな躊躇いが瞳に浮かんでいたが、彼女は何も触れなかった。
「ああ…そうだったな。…あの子が落ちていたのは、旧魔王軍の時代からの仕掛けだったんだ」
 もう20年以上も昔の、幼い頃の記憶に心が飛ぶ。ヒュンケルは遠い目をした。


   ☆☆☆

 身体が痛い。気付いて最初に思ったのはその事だった。そうしてすぐに、ハッと周りを見回した。
 知らない場所だ。
「ここ…どこ…?」
 小さな問いに答えてくれる声など、当然存在しなかった。
 起き上がろうとすると、身体の下でカシャリと乾いた音が聞こえた。暗闇でも利く瞳は、自分が大事に抱えていた紙工作の潰れて埃まみれになった哀れな姿を認め、涙を盛り上がらせる。

 いつものように部屋にいたヒュンケルは、遊びに夢中になっていた。随分上手く使えるようになってきたハサミで色んな形を作っていた彼は、ふと思いついて『お父さん』の剣の鞘を飾るために綺麗な紙で星や月を模した飾りを沢山作った。
 明るいランプに照らされて、金紙や銀紙で作ったそれらは、キラキラと光った。太陽の下に出る事はあるものの、あの眩しい光より、夜に外に連れて行ってもらった時に見た月や星の方が、闇に慣れたヒュンケルには好ましいものだった。作り上げた飾りは会心の出来。にこにこと満足気にそれを見て、ヒュンケルは、「これなら、お父さんのかっこいい剣を、もっともっとかっこよくしてくれる」と思った。
 脳裏に浮かぶのは、絵本で見た『星屑の剣』。お父さんがわるいてきをやっつけるときには、ぼくがつくったこのおほしさまが、お父さんの剣で光るんだ…!

 お父さんは、きっとこのかざりをよろこんでくれる。鞘や、ろっ骨や、くびの骨をかざってあげるんだ。そしたら、きっとお父さんは、いまよりももっとりっぱでかっこよくなって、まおーさまだって、みんなだって、お父さんのことを「ものずきな騎士」なんて、いわなくなる。「さすがまおーぐん1の騎士バルトスだ!」ってほめるだろう。
 そしたら、ぼくもほめてもらえるかな? 「ニンゲンのこども」なんてなまえじゃなくて、「バルトスのむすこのヒュンケル」っていってもらえるかな? そしたら、お父さんは、ぼくのことを、「まおーぐんのいちいん」としてなかまにいれてくれるよね?

 見せに行こう―――幼子ならではの純粋さと短絡さが、そんな結論を出すのはごく自然なことだった。
 部屋を飛び出して、いつも父親が仕事をするという『地上』へ、ヒュンケルは向かった。逸る気持ちのまま、暗い廊下を走る。時折すれ違う魔物達が、驚いてこちらを見るのも構わずに、紙飾りを抱きしめながら一路父親を目指して。
 けれど、何度か角を曲がった時、ふと違和感を覚えてヒュンケルは立ち止まる。似ているが知っている景色ではないような気がして……しかし戻るのが惜しかった。結果、早く父親に会いたい一心で幼いヒュンケルはそのまま進んだ。
 足下が沈んだ。奇妙な浮遊感を感じたのは一瞬のことだった。

 落とし穴の中は、真っ暗だった。天井の穴は既に塞がっており、明かりは一条たりとも差し込むことはない。こういった洞窟の落とし穴は、くまなく歩き回れば脱出の手段を見つけられるようになっている事が多い―――設置者が誤って落ちる場合もあるからだろう―――のだが、そのような冒険者や洞窟探索マニアのみに通じる暗黙のルールを、幼い子供が知っているわけもない。ヒュンケルは途方に暮れてその場に座り込んだ。

 ヒュンケルや。部屋の外をうろついてはいけない。知っている場所以外は行ってはいけないよ。さもなければ、帰ってこられなくなる。広いお城の中で、人間はお前一人なのだから……

 いつもいつも聞かされていたお父さんの言いつけを、破ってしまった……父の声が脳裏に蘇り、ヒュンケルの胸がきゅうっとなった。
「お父さん…」
 返るはずのないいらえ。しん、とした空間にいくつかの気配はあるが、それは父親とは全く別の魔物のものばかり。
 ふよふよと浮かびながらメーダが前を横切っていった。大きな目玉がじろりとヒュンケルを睨み、興味がないとばかりについと逸らされる。ドラキーの羽音が微かに聞こえ、スライムが不思議そうにこちらを見つめる。その都度、ヒュンケルは声を掛けようとして逃げられてしまった。
 父バルトスが人間の子供を育てているという事を知っているからか、はたまた父の匂いがするからか、ヒュンケルに襲いかかって来る魔物はいないが、誰もが遠巻きに自分を見ているだけなのをヒュンケルは感じていた。膝小僧を強く抱え込む。挫いた足が痛むが、慣れているはずの暗闇が今は怖かった。このまま真っ暗な闇に包まれて、自分の存在が誰からも隠されてしまうような、絶対的な恐怖。
 喚きたいのに、喉が痺れてしまったように声が出ない。心臓の音がしじまの世界にうるさいほど響いて聞こえる。ヒュンケルはただ震えてしゃくり上げるだけだった。
 いつしか喉の奥がかさかさして、鼻の奥が痛くなって、涙すらも出なくなって。考えるのは父の事ばかり。

 お父さん、たすけて。お父さん、はやくきて。ぎゅってだきしめて。お父さん、ぼくをよんで。ヒュンケルってよんで。お父さん。お父さん。お父さん。
 お父さん……!!

「ヒュンケル!!!」
 光が差した。
 もう聞くはずもないと思っていた優しい声で自分の名を呼ばれ、ヒュンケルは声の主を見上げた。
「ヒュンケル! おお…おお…生きていてくれたか!! 良かった。ありがとう…!!」
 天井からの光を背負うようにして、父バルトスが目の前に降りてきた。六本の腕がヒュンケルを壊れ物のように優しく抱き上げる。
「ぉと…さん」
 枯れたはずの声が微かに出た。父の白くて綺麗な骨を小さい手で懸命に握りしめて、ヒュンケルは父親の顔を見た。この世の全ての優しさと力強さを以て、安心を与えてくれるその白い顔。
 落ち窪んだ眼窩の闇の向こうに、微笑みを見つけた瞬間、張り詰めていたものが緩み、ヒュンケルは深い眠りに落ちた。
 
   ☆☆☆

「古い話だ…」
 微苦笑を浮かべて話すヒュンケルの横顔を、エイミは見つめた。
 いままで、こんな風に彼が昔の事を話してくれる事など無かったから、一種の感動があった。

「父が助けに来てくれたのは、落ちてから数時間ほどしてからだったらしい。スライムかリカントか…誰かが父に知らせてくれたようだった」
 積極的には助けてくれなかったが、皆、俺のことを気にはかけていてくれていたよ―――と懐かしそうに呟く。浮かぶのは柔らかい笑み。
 ああ、とエイミは思う。きっとこの笑みをアバンの使徒たちならば何度も目にしているのだろう。
「…お父様が来てくれて、本当に良かったわね」
 地底魔城に住んでいた事は知っている。「地獄の騎士」とさえ言われる骸骨剣士の中でも最上位の騎士に拾われて育てられたという事も。けれど―――
「ああ。父はあの頃の俺にとって、誰よりも強くて、誰よりも偉い…世界の全てだったからな……」
 幼子にとって、親とは世界そのものだ。無条件に甘えられる存在。庇護してくれる、愛してくれる存在。ヒュンケルと地獄の騎士バルトスの関係も、何ら違いはない。人間と魔族という違いなど何の障害にもならないのだ。
 ―――ヒュンケルにとって、あの地底魔城は故郷なのだとエイミは改めて思い知った。愛してくれた家族、見守ってくれた周りの者達…そうでない者の存在は無視しえないとしても、彼にとっての家は、あの暗くて静かな地下世界なのだ、と。
 ならば…幼いヒュンケルがアバン様を憎むのも、当然だったのだろう。とエイミは、現在カールにいるヒュンケルの師の穏やかな顔を思い浮かべた。
 聞いた話では、ヒュンケルの父親を殺したのは、上司である当時の魔王、ハドラーだったらしい。父親は勇者アバンと闘い敗北したが殺されはしなかった。負けを認めて守っていた地獄門を勇者に通過させ、ために魔王の怒りを買って「処分」されたのだ。その事実を知らなかったヒュンケルは、勇者アバンを父の仇と憎み、彼が守った人間社会全てにその怒りを向けた……
 思いを馳せる彼女の耳に、ヒュンケルの自嘲に満ちた声が届く。

「あの子にも、きっとそうだったんだろう……結局…俺は、また…繋げてしまった………」
「……繋げる?」
「…以前、ポップに言われた。『憎しみの連鎖』を俺の番で斬れと。だが、今更だな…とうに連ねてしまった」

 柔らかさはそのままに、口調は己に向けた嘲りと怒りに満ちていた。その視線の先にあるのは何だろうか。過去の自分か、それとも今日助けたルースの姿か。
 ヒュンケルという名の鎖の輪に連なった、続きの輪は多すぎた。ルース少年はその内の一つだ―――けれども、

『助けてくれて、ありがとうって…伝えてもらえませんか……?』

 ―――けれども、少なくともルースの輪から次は、きっともう繋がる事はない。
「…解けて落ちる鎖だってあるわ」
 ぽつりとエイミは呟いた。
 その言葉にヒュンケルは驚いたように彼女を見た。思いがけない事を言われた―――そんな表情だった。



「今日の坊や―――ルース君みたいに、貴方への憎しみを捨てる人だっているのよ、ヒュンケル」
 エイミはヒュンケルに微笑んだ。対するヒュンケルは戸惑いを隠せないでいる。いつも冷静な彼のそんな表情は、エイミにとってとても新鮮なもので、けれどもその苦悩は、間断なく見続けてきたものだ。
「そんな事は…あの子が俺を許すなど、あり得ないだろう」
 言葉を選ぶように、ゆっくりと、ヒュンケルは呟く。その呻くような低い声にエイミは痛みを覚えた。

 『俺を許すなど、あり得ないだろう』というその言葉は、自嘲と共に彼を切り刻む刃に等しい。本当は許されたいと願っているのに、その願いを持つ事さえもヒュンケル自身が断罪する。そうして益々彼は罪を増やし、救われるべきでない罪人として罰を望まれるのだ―――彼自身に。
 ヒュンケルの存在を知り、その正体を知った時から、エイミは彼を目で追うようになっていた。だから知っている。彼がいつも悩み苦しんで、己を責め続けている事を。

 彼は故国を壊滅させた人物であり、敵であった人間なのだと……わかっている。
 国民の多くが不死の軍団に殺され、美しかった街並みは瓦礫の山と化した。戦の陣頭に立った先王は、三年を経ても未だ遺体すら見つからぬままだ。
 当時の事を思い出せば、記憶の大半は紅に染まっている。その中でも、パプニカ城陥落の時の事は一際鮮やかだ。

 レオナ姫を守って城から脱出する際、振り向いたエイミが見たのは、炎に呑まれる街。そして、死霊の群れの中にあって彼らを指揮する、唯一の生者だった。何故だか、遠目に鮮やかな銀の髪が目に入ったその時、「敵の指揮官は人間のようだ」という情報があった事を思い出し、彼がそうなのだと直感した。
(どうして?! どうして人間が魔王軍に与するの?! どうして私たちと同じ人間が、魔物に味方をして私たちを襲うの?!)
 怒りと疑問ではち切れそうになりながら、エイミは走った。悲鳴を乗せて自分を追いかけてくる風を、ただひたすらに背に受けて振り切るように。

 紅蓮の思い出に、拳を作る。そうして、その原因となった男の苦悩に沈む横顔を見、エイミは視線を地に落とした。
 ヒュンケルは悲劇を生みだした人間だ。パプニカの民にとって、憎んで当然の相手だ。罵って当然の人間だ。
 けれど―――憎むべき(・・)相手では…ない。

「あり得なくはないでしょう…。貴方が憎しみを捨てたように」
 返事はなかった。静かに息を飲む音が横で聞こえただけだった。
「ね、ヒュンケル。貴方はどうしてアバン様を許せたの?」
 あえて軽い声音を作って問う。
 ヒュンケルはどこか困ったように顔を歪めた。彼にとって楽しい質問であるはずがないので当然だろう。
「どうしてと言われてもな……。先生は父の仇ではなかった。マァムが魂の貝殻で父の遺言を…」
「知ってるわ。でも、それはマァムが偶然、魂の貝殻を手に入れて貴方に渡してくれたからわかった事でしょう?」
 眉を僅かに顰めた彼は、怪訝な表情だ。何が言いたいのか? と無言で問うてくる。
「お父様の死の真相を知らないままなら、貴方はずっとアバン様を憎んで、その弟子のダイ君たちを恨み続けたの?」
「っ! それは…」
 違う―――と言いかけて、ヒュンケルは固まった。


 どうしたの? エイミの瞳はそう問うている。
 答えられずにヒュンケルは言葉を探すが、そもそもが、何故答えられないのかがわからなかった。
 三年前のダイたちとの闘いがヒュンケルの脳裏に蘇り、エイミの問いを反芻する。
 あの時、マァムが魂の貝殻を自分に渡して、父バルトスの遺言を聞かせてくれなかったら……どうしていたのだろう。

 ダイとポップを手に掛けて、勇者アバンを超えたと、父の仇を討てたと満足したのだろうか。

 想像し、すぐに否定する。
 その瞬間は満足しても、きっと後悔に似た気分に襲われたはずだ。
 何故なら、自分は復讐のために師事しながら、心の奥底ではアバンを先生として慕っていたのだから。

「違うのでしょう? アバン様を貴方がずっと憎み続けるだけだなんて、想像できないもの…」
「…ああ」

 エイミの確信に満ちた言葉に、ヒュンケルはただ頷いた。
 彼女の言いたい事が何となくわかった。
 自分がアバン先生を父親の仇として憎むだけでなく、いつしか慕っていたように、パプニカの民も自分の事をただ憎むばかりではないのだ、と……
 そうなのかもしれない。だが、嬉しさに似た感情が湧きあがるのをヒュンケルは抑え込んだ。仮令そうだとしても―――
「だが、先生は正義の為に戦ったのだ。俺は、そうではない」
 憎しみの為に戦い、憎しみの為に破壊して殺した。それが許されるはずはないのだ。
「―――パプニカの民は、自分が、八つ当たりで殺したのだから」



 ヒュンケルの言葉にエイミは痛ましげに眼を伏せる。
 己が憎しみによって大勢の人を殺したという事実から、ヒュンケルは決して逃げようとはしない。パプニカの民に怨まれることや怒りを向けられることを、当然だと受け止めている。彼の中で、己の所業に対して許しを乞うなど、あり得ない事なのだろう。
 その姿勢は、エイミにとって「パプニカを襲撃した魔王軍不死騎団長」への怒りを増させるものではなかった。
 誰とて程度の差はあれど、罪を犯したならば言い訳をしたり、その罪に走った理由を正当化する心が働くものだ。けれどヒュンケルにはそれがない。城や街の、ヒュンケルを受け入れている者は皆、彼への怨みを捨てた理由として彼のその態度を挙げる。
 けれど、とエイミは思う。

 許されるはずがない―――その言葉。許されるという事を頑なに否定する彼の、心の叫びが聞こえた気がした。

 そう。ヒュンケルは、自身を『許されてはいけない存在だ』と思っているのだ。
 違うのに。そうではないのに。
 思いきり首を振って、否定できるものならしたかった。だが、エイミ自身にも説明が難しいものを、感情のままに伝えて届くはずがない。想いのうねりに翻弄されぬよう、彼女は自らの言葉を探した。
「…貴方の言いたいことは、わかるわ」
 小さな肯定。
「パプニカの民は、二度の大戦で魔王軍に大勢殺された。私だって正直、魔王軍は恐ろしいし、憎いわ…」
 今度はヒュンケルが頷く番だった。
「それが当然だろう。むしろ―――」
 俺には不思議だ。そう続けたヒュンケルの顔は、困ったように笑っていた。
「え?」
「君が…俺を好いてくれるということが、不思議なんだ」
「……それは」
「俺は、パプニカを滅ぼした男だ。アバン先生が俺を導いてくれたような…そういった恩など、俺と君との間にはないだろう。だと言うのに…」
 何故なんだ? と真っ直ぐに尋ねられる。エイミはヒュンケルの逸らされる事のない視線に、ドキリと胸が鳴ったのを感じた。
 理由を問われたが、答えの一つは先程も考えた事だ。ヒュンケルの罪を自覚し静かに向き合う真摯な態度…そこから積み重なった様々な出来事が好意を抱かせたのだ、と。そう答えれば彼は納得するだろうか。

 いや…と自答が返る。尋ねられ答えを返す…それだけでは、ヒュンケルが納得しても、エイミの目指すものには届かない。

 いい加減な言葉で返す事は出来ない。もとよりそんなつもりは無いとしても、この、憎悪の何たるかを知っている男の前では、全てを曝け出すべきなのだろうと、彼女は覚悟を決めた。
 ふ、と息を一つ吐く。
「そうねぇ…きっかけは、顔、かしら」
 苦笑しつつエイミは答えた。
「初めて貴方の顔をハッキリと見たとき、驚いたのよ……物凄い美形なんだもの」
「そ…そうか……」
 懐かしそうに目を細める彼女の様子に、ヒュンケルは思わず知らず、己の頬に手をやった。
 自身が女性に好まれる容姿をしている事は、ヒュンケルは一応自覚がある(弟弟子が自分につっかかるときは、必ず容姿にも文句をつけるためだ)のだが、それを武器にして女性の心を得ようとしたことは一度もなく、エイミにそんな風に言われると反応に困ってしまう。
 だが、困っているのはヒュンケルだけではなかった。
「貴方は、あまりにも恰好よくて…想像とまったく違っていたわ」
 エイミの苦笑が深くなった。

「きっと、『魔王軍についていた人間』なんて、悪魔のような容姿だと思っていたんですもの」

 彼女は俯き、小さく「ごめんなさい」と呟いた。
 ヒュンケルはやはり困惑で固まったままだった。彼女の謝罪の示すところが、あまりにも重かったからだ。


 エイミの脳裏で、大戦からの記憶がいくつも現れては消える……。
 魔物などという存在を消し去ってやりたいと、何度考えたかしれない。悲鳴と恐怖と絶望に包まれた真紅の王都は、決して夢でもなんでもなく、三年前の現実だ。避難が済んだ後、行った偵察で、焼跡をうろついている魔物たちを怒りにまかせて殺したのは、一度や二度のことではなかった。
 あの死霊の群れを指揮していた男―――人間だというなら、人類に対しての裏切り者として、いつか必ず一矢報いてやりたいと、願っていた。

「姫さまが、しょっちゅうダイ君の事を仰ってたけど、それは『聖なる島』の話だからだって思っていたわ」

 どこかで、自分とは関わりがない事だと思っていたのだろう。人は人。魔物は魔物。混ざり合う事などあるはずがなく、心を通わせる事など夢物語だと。
 そんな魔物に味方をする人間は、きっと残忍で卑劣で、堕落した存在なのだと―――それこそ伝説に言う悪魔のような醜悪な人物なのだと思っていた。無論、強くそう考えていたわけではないが、当時を振り返ってみれば、漠然とそう思い込んでいたのだとわかる。
「『フレイザードの元から姫さまを救い出してくれた勇者の一行』の剣士が、魔王軍の不死騎団長で…その人が自分を裁けと姫さまに言った時はショックだったわ……」
 様々な事が、余りにも想像と違っていた。

 魔王軍の将として魔物に味方した男が、高潔な魂の持ち主だったことも。
 そもそも彼は人間を裏切ったのではなく、人間に殺された父親への愛のために魔に属したのだという事実も。

 冷たい風に前髪がそよぐ。座り込んだままの身体は冷え切っているはずなのに、声には熱がこもっていた。
「憎んでた相手のはずの貴方が、どんな人間なのか、あの時見てしまったから…」
 取りも直さず、それは自分の中でヒュンケルが、『魔王軍の不死騎団長』という『仇』から、『ヒュンケル』という名の人間に変わった瞬間だったのだろう。
 そして……自分が衝撃を受けた理由を考えざるをえなくなった瞬間でもあった。
「さっき貴方の、顔のこと、ね…言ったけど……『どうして人間を裏切って魔王軍に入ってたのに普通の顔をしてるのかしら』って思ったのよ……。可笑しいでしょ? だったら私は貴方の容姿に何を求めてたのかしらね?」
 苦笑が漏れる。黙って聞いてくれるヒュンケルの表情は変わらない。
「姫さまの前で貴方が裁きを受けると言った時、本当に悔いているんだっていうのがわかって…その事だってショックだったわ。真っ当な、そうあるべき態度なのに。じゃあ私は貴方がどんな態度なら当然だと思ってたんだろう……って」
 醜悪で、人間を見下して、殺戮に罪悪感など感じず、けれど自身の命には執着する男―――それが『魔王軍の不死騎団長』に自分が期待していた人物像なのだと思い至った時、より以上の衝撃をエイミは覚えた。
 自分がヒュンケルに感じていたのは、故郷を破壊された者としての正当な怒りだったはずなのに。なのに、これは何だ?! 憎み、蔑みたかっただけではなかったか…?!

 裏切り者を裁くのだと、思っていたのに。
 正義が邪悪を討つのだと、考えていたのに。
 なのに、彼をこのまま憎むのは、彼がパプニカにした事を肯定する事になるのではないだろうか………?

 ヒュンケルを認めたくはないと思っていても、頻繁に耳に入って来るのは、勇者一行の中での彼の目覚ましい活躍だった。圧倒的な強さで敵を蹴散らしていくという武勇伝だけではなく、命懸けで仲間を救った話や、魔王軍の知己との訣別も聞いた。
 そうして時折姿を見せれば、彼はいつも陰にいた。会議などには顔を見せるものの、それ以外の時は可能な限り目立たぬように…人目に触れぬようにしているのがわかった。
 あれだけ華々しい戦果をあげながら、誇る事もなく、驕る事もなく、それどころか『アバンの使徒としての功績』だけを残して、自身の存在を消そうとしているかのようで。

(そうだ…。私は、そんなヒュンケルが居た堪れなかった……)

 功績をふりかざし、声高に権利を主張されれば反発しただろう。だが、実際には彼は与えるばかりで何も受け取ろうとはしなかった。人々に希望や未来への展望を与えてくれる立役者。だと言うのに、人々の中に彼自身は勘定に入っていなかった。
 違う、と思った。それでは駄目だ、と。
 それでは駄目なのに。償うというのなら、その償いを認める者がいなければ駄目なのよ、ヒュンケル。貴方は『裏切り者』じゃない『人間』なのよ!

 私は見ているから。私はアバンの使徒じゃないけれど。パプニカの人間だけれど。いいえ、パプニカの人間だからこそ。貴方がどんなに必死に償おうとしているのかを、ちゃんと見ているし、認めているから……!!

 記憶の海から意識を浮上させ、顔を上げれば、銀月と同じ輝きで彩られた秀麗な顔がエイミを見つめていた。
 綺麗な顔だわ…と、ふと思う。この顔が、以前は人間への憎しみに歪んでいたのかと考え、どんな風だったのかを彼女は想像した。
 そして答えはすぐに出た。怒りのままに魔物を屠った、当時の自身の表情が浮かんだからだ。思い出すだに酷い翳をまとわりつかせていた…。
 頭を一つ振る。

「色々…本当に色んなことを考えたわ。姫さまの出した答えを奉じつつ、怒りのままに貴方を刺したいって思ったことも一再じゃない。今だって、あの頃を思い出せば貴方を詰りたくなる。でも、最前線で身体を張って私たちの矛となっている人にする事じゃないって思って、悩んで、いつからか…私は貴方を目で追うようになっていたの」

 ずっと見てきた。パプニカの人間だからこそ。
 そうして…政に携わる者として、あの若き女王を補佐する者として、公正であることが求められる身であれば、あとはもう気持ちを整理するまで早かった。
 人類が争うのは魔物相手だけではない。同じ人間の治める他国に攻められ蹂躙されたとしても、外交の一環なのだ―――互いの利益の為に暴力を以て語り合う最悪の形ではあるが。
 その敵国の武将が、今度は味方し、囚われた主君を救い出すために手を貸してくれた……ヒュンケルの事はそういう解釈になる。彼だけでなく、クロコダインやラーハルト、ヒムといった嘗て魔王軍にいた者で後に勇者ダイに味方した者全てが、公的にはそう位置づけられているのだ。

 ―――身に受けた不幸も悲しみも怒りも、どこかの時点で受け入れなければ、相手を滅ぼしつくすまで終わらない。

 ならばどうする?

「人だとか魔だとかを取っ払ってしまうと、貴方自身に怒りは感じても、憎しみはもう…湧かなかったわ」

 『魔王軍の不死騎団長』でも『裏切り者』でもなく、彼をヒュンケルという個人として認識したその時に、どこか心がラクになった…。思い返せばそういう事なのだろう。
 あるいは疲れたのかもしれない…とエイミは思う。どれほどヒュンケルを憎んでも、喪われた者は返らない。仇討ちをしたとして、満足するのは自分の心だけだ。そうして、ヒュンケルの生い立ちを知り、彼の、身命を顧みずに敵軍から民を守る姿を見れば、嫌い続ける事も難しかった。ましてや、それらを肯定すれば、次に堕ちるのは自分であることをエイミは理性に拠らず悟っていた。



「そう…か……」
 初めて話されたエイミの心の変遷に、ヒュンケルは小さく点頭した。
「エイミ、君は…凄いな。俺と同じ所に嵌り込まなかった」
 全ての『人間』を『父親の仇』と見做してしまったヒュンケルは、人間を憎み蔑むための理由を探していた。誰もが持っているだろう弱さを悪意を以て解釈し、受けた優しさを偽善と断じようとした…その自覚がある。
「どうかしらね…私だって、あの時、大切な人がたった一人で、殺されてしまったのなら、貴方と同じように憎しみに狂っていたかもしれないわ」
 彼女の声には苦みがあった。憎み怨むという感情が、どれだけ負の力に満ちているかをお互いが知っているという事実が、妙な共感に繋がっていた。

 大切な人―――父バルトスの事を、彼女にああも話したのは先刻が初めての事だ。以前から知ってはいたのだろうが、こう極自然に受け容れてくれているのを見ると、不思議な感じだった。人と魔という違いを見ずに、地獄の騎士である父の事を語ってくれる人間は少ない。まして、エイミはパプニカの民だというのに。
「……ありがとう」
「え?」
「父の事を、そんな風にちゃんと見てくれて…俺が父を慕っている事も否定せずにいてくれて、感謝する」
「ヒュンケル…貴方……」
「俺が子供の頃の話をしても、君は普通に思い出話として聞いてくれた。父の事を良く言っても怒らないでいてくれた。……ありがとう」
 パプニカ宮中で知己は多く出来たが、昔の話をしたことなどついぞ無かった。尋ねられるわけでもないなら、話すべきではないと思っていたし、あえて過去を尋ねてくる者は、自分に隔意ある者ばかりで、魔物に育てられたという事実を蔑むための材料とされるのは御免だったからだ。

 しかしそう言った環境での「当たり前」は、薄紙のように精神に入り込んできた。いつしか父バルトスに育てられたこと自体が忌避される事であるように考える自分に気付き、愕然としたのだ。憎しみの為に犯した罪が、魔物に育てられた所為で犯した罪にすり替わりそうになる…それは紛れもない恐怖だった。そして、周りのほとんどの人間が己をそのように見ている事に気付いた時、ヒュンケルは無意識に自身をその他の人間と区切っていた。

 エイミは、その区切りを簡単に超えてしまった。人や魔などという違いは関係がないと。親であり、慈しんで育ててくれた者であるならば、子が愛するのは当然だと。
「だって、そんなの…当たり前のことだわ」
 あっさりと述べる彼女が有り難かった。
 エイミは言う。
「私が貴方に罪を見るのは、貴方が憎しみから人を大勢殺したから。……お父様のことや、貴方が属していたのが魔王軍だったことは関係がないわ。必要以上に卑下はしないで欲しいの」
 最後の部分は、同じような言葉で主君にも言われたことがあったなと思い出す。だが……
「どんなに言っても、貴方はきっと自分を責め続けるんでしょうけど…それでも、そんな貴方をちゃんと受け容れる者はパプニカにもいるわ。それを忘れないで頂戴」
 口を開く前に、エイミが言葉を次いだ。こちらをじっと見つめる大きな瞳に記憶が刺激される。……そう、ルース少年も同じ眼差しをしていた。ヒュンケルの正体にうすうす気づいていただろうに、怒りではなくどこか心配そうな、哀しそうな表情でヒュンケルを見つめていたのだ。

 息を一つ吐く。エイミの言葉の一つ一つが、重い。
 受け容れてもらえる―――許してもらえるという事は、ヒュンケルにとって望んで已まないことだ。けれど、
「だが俺は…許されるべきでは……」

「なら、私たちに永遠に憎めと言うの?」

 高地のしじまに、静かなそれは、とても良く響いた。
「あ……」
「言わないでしょう? …憎み続ける事の辛さを、貴方はよく知っているはずだもの」
 ヒュンケルは顔を覆う。
「ああ…ああ……」
 凛としたエイミの声とは対照的に、彼のその声は震え、掠れていた。
 ヒュンケルの腕にエイミの手がそっと触れた。
「憎むことってね…過去しか無いという事だと私は思うの。憎み続ける事しか出来ない人は、それだけ今迄が大切で…それに等しいだけの何かを、ずっと見つけられない人なんだと思うわ……。私は…そうじゃないから」
 心や、感情の程度は、人それぞれで。全員が満足できる方法などありはしない。
 誰よりも、ヒュンケルを許せないのはヒュンケル自身だ。
 ―――それでも人は、前を見て生きねばならない。
「前を見て……」
「ええ、そうよ。自分の心に折り合いをつけて、悲しいことや辛いことはその痛みを少しでも薄めようと努力して、受け容れて、楽しいことや嬉しいこと、遣り甲斐のあること、生きている意味…そういった未来を築くための光を見て、そうやって生きていくんだわ」
 辛いことや苦しさから目を背けるのは、当たり前のことだ。取り返しのつかない損失であればあるほど、その事実は認めがたく、けれど受け容れざるをえない。ならばその損失に、これから先を生きていくために意味を求めるのだ、人間は。

「姫さまが貴方に下した裁きは、そのまま、私たちパプニカの民全てへの言葉よ。憎しみに囚われず、より良い未来のために生きるための……」

 そのための、パプニカ全ての道筋を、エイミの主君は民に示した。だから皆「ついて行く」のだ。父を喪った悲しみに震えながらも民の前では頼もしげに笑顔を浮かべる、あの、細い身体で王道を歩む若き女王に。

 ヒュンケルが自身を許せないのならば、代わりに許そう。自分やルースといった、彼の人間性に触れた者だけでも。
 光のために生きると誓った男のために、光の中で生きるための、よすがとなりたい。―――それが、エイミに生きることの美醜を教えてくれた男への、彼女なりの想いの表し方だ。
「ヒュンケル、貴方も…ついて行くのでしょう?」
 示された道に、光のある方向へ―――皆と一緒に。

 じっと見つめられて、答えを求められて、だのにヒュンケルは頷けなかった。頷いてよいものか、わからなかった。
 レオナ女王の示した道は、明るい。光の…希望を求める者の歩む道だ。自分は勿論その道が正しい事を知っているし、その道のためならばどんな邪魔も排除しようと剣に懸けて誓う。だが……ついて行っても良いのだろうか?

「大丈夫よ」
 心を読んだその声に、びくりと肩を震わせ、ヒュンケルはエイミを見た。
「居場所が無いなら、作りなさいな。貴方は償わなければならないし、私たちは、貴方を受け容れなければならないのよ。離れていては、それは不可能だわ」
「エイミ…」
 大きな瞳が、強い光を湛えてヒュンケルを映している。
 月のものばかりでない光が、届き始めた。水平線の彼方が白み始めている。

「パプニカの民や貴方のお父様の死を無意味にしないで。姫さまの示した道を否定しないで。たとえ、光の中を歩くのが―――」

 かわたれ時の直前、今の今まで存在しなかった影が、岩肌から生まれ始める。光が届いたために、辺りは夜よりも暗く感じるほど。
 照らされて、より明らかになる罪のように。

「―――貴方にとって地獄だったとしても」



 私も一緒に地獄について行くから。



 ヒュンケルは、腕に添えられた細い手を取った。
 言葉は無い。ただ震えて握りしめる―――それが彼の返事だった。



(12.06.01仮UP。12.08.30全UP。)



入口へ  あとがきへ