とりあえず


マァムは、広場を駆け回る子供たちの姿に目を細めた。
人気のあるボール遊びは、既に大きい子らに取られてしまったらしい。年少の子らはめげずに石蹴りを始めた。隅の花壇の近くでは女の子たちがボロボロの人形を使いながら、ママゴトに興じている。
どんな時代にあっても子供は遊びの天才だ。友達がいれば、その世界は無限に繋がっていく。そう…どんな時代でも、どんな状況でも。たとえそれが大戦後の混乱期だろうと、親を亡くした寂しい境遇であろうと、変わることはない。
背後にすっと影が差した。
「元気な子たちでしょう」
穏やかな声に、マァムは首肯し、振り返る。
「はい、とても。きっとこちらの園の運営がいいからですね」
心からの賛辞をマァムは贈る。
実際、子供たちの様子は素晴らしかった。
古着ではあるだろうが、清潔な衣類。栄養状態もいいようで、痩せて飢えた目をした子は見当たらない。何より笑顔が眩しかった。
転んだ友達を立たせてやる子がいれば、自分よりも小さい子におもちゃを貸してあげる子もいる。何気ないことかもしれないが、そういった行動は「自分は大切にされている」という自信が子供になければ育ちにくいものだとマァムは思っていたから。

魔王軍の被害がほとんどなかったテランを除けば、どの国にも三年前の大戦で孤児が多数生まれた。
当然のごとく、彼らを救済するために孤児院は手を差し伸べた。が、国が運営する公営の孤児院なのだから予算はおりるが、お金が必要なのは孤児院だけではないのは当然の話だ。子供たちだけでなく大人も皆が自分の生活だけで精一杯の状況であるため、なかなか寄付も集まらない。さらに言えば、この度の大戦の被害は18年前の戦の比ではなく、孤児の数が多すぎた。ゆえに公営のそれだけでなく、各地の領主や教会が私的に開く孤児院も引く手数多の大盛況となっている状況だった。
この孤児院は、それら私立の孤児院の中でも特に有名なものの一つだ。
もともと大戦前から存在しており、ロモスの貴族の中でも有力なジャスティ公爵家、その3代前の当主が創設者だった。
潤沢な資金と堅実な運営。加えて代々の当主が篤実な人柄で知られているこの孤児院は、悲しい想いを味わった子供たちに、再び幸せになる道を示してくれるとして、いまやそのノウハウはロモスの全孤児院の範とまでなっている。

「聖拳女殿にお褒め頂き、光栄ですよ」
マァムの言葉を聞き、彼―――ジャスティ公爵家の次期当主であるテンデルは、嬉しそうに笑う。
遠くカールの国にいる優しい師を思い出させる、感じの良い、さっぱりした笑顔だった。
「……色んな孤児院を見学させていただいてますけど、こちらは噂に違わず素晴らしいです。子供たちがこんなに元気で…職員の数も多いし、それに…職工ギルドと提携されていると聞きました」
「ああ、職業訓練のことですか?」
子供たちに色んな仕事を幼いうちから何度も見せてやり、希望する職が見つかれば徒弟の真似事をさせる。まだ始まったばかりのシステムだ。
「はい。『本当なら、自分の親や住んでいる地域からごく自然に学んでいくことを、院に入ったために失ったとなれば子供たちに申し訳ない』……そう仰ったんでしょう?」
「本当によくご存知ですね、聖拳女殿は!」
テンデルは少々驚いたようだったが、マァムにしてみれば、孤児院経営に僅かでも関心を持っている者なら、先にあげたテンデルの言葉は有名すぎて、知らない方がおかしいというものだ。
「色んな所で噂になっていますもの。『ジャスティ公爵家の若君』と言えば、他国でも慈善家として有名です。私も子供たちの世話をすることがよくありますから、いつかこちらを見学させていただきたいなと、ずっと思っていたんです。…今日はお招きいただいて、本当にありがとうございます」
頭を下げるマァム。
「慈愛の使徒と呼ばれる貴女にそのように言っていただけるのなら、この院は合格というところでしょうね」
テンデルは柔らかな笑みを浮かべた。横に樹つ大きなケヤキが、風にさわさわと鳴り、木漏れ日が彼の顔に落ちてその笑みを飾る。
「私もよく噂を聞きます。アバンの使徒のうち、慈愛の使徒と名高い聖拳女殿は、大魔道士殿とともに各地を巡って恵まれない者に手を差し伸べておられる、と」
薄茶の瞳でマァムを見つめて、テンデルは今度はこちらの番とでも言うように彼女の業績を挙げだした。
マァムはごく僅かに仰け反った。テンデルの言は、確かにその通りなのかもしれないが、自分たちのやっていることを改めて他人から言われるというのは妙な気分がするものである。
「力なき者たちのために砦を築き、貧しき者たちに薬を分け、子供たちに道を示されている……」
「…………。」
それはきっと、大戦時の瓦礫を撤去して街の壁を修理するのを手伝った事や、ポップの作った上やくそうをスラム街で格安で提供している事、村の子供たちに絵本を読むついでに簡単な字を教えている事について言っているのだろう―――テンデルの雅な表現は、ほんの少し落ち着かない気分をマァムに与えた。
「貴女がそんな風になさっていることに比べれば私がやっている事など、微々たるものだと思います」
「そんな…」
「私に出来るのは、畢竟、事業の一環としての出資―――それに尽きますから」
自嘲するテンデルに、マァムはかぶりを振った。
「でも…それで充分じゃないでしょうか?」
彼女から見れば、テンデルの態度は過ぎた謙遜だった。謙虚な態度というのはそれだけで美徳だと彼女は思っているが、それでも目の前の青年が自らを貶すことによって、彼女が高い位置に置かれてしまうのは、気分の良いことではない。
「お金は、無いより有る方が良いに決まっています。それに、テンデルさんは子供たちを援けるのが良いことだと思って出資されてるんでしょう? 貧しい人が全財産をなげうっても自分一人すら救う事が出来ないのに対して、お金持ちがその使い方を正しくわきまえてさえいれば、何千人も救う事が出来ます。それが結局はより多くの人の幸せに繋がるんだと、私は思います」
テンデルは目を丸くする。次いで、苦笑した。
「まいったな…」
「え?」
呟きに首を傾げたマァムに、彼はやはり困ったような笑みを向けた。
「そんな風に言ってもらえるとは、思ってもいませんでした。その…アバンの使徒の方々というのは、金銭に価値を求めない方々なのだろうと……。勝手な思い込みだったようですね」
すみませんと謝罪されて、今度はマァムが困る番だった。
「あ、あの、すみません…私…余計な事を……」
「とんでもない。嬉しいんですよ。私がやってきたことを肯定してもらえて。…やはり、貴女は……」
柔らかな風。二人の髪をゆっくりと撫でるようにそれは通り過ぎていく。

「私の理想の女性だ」

葉擦れの音が重なったその低い声を、マァムは呆然と聞いた。



公爵家所有の豪華な馬車に一人腰かけ、マァムは黄昏の空を見つめていた。
四頭立ての馬車はさすがに速い。景色が飛ぶように過ぎていく。
来る時もロモス王と対面してからの事だったため、城下町に迎えに来てくれた。帰りはネイル村まで送ろうと言ってくれたのだが、王城にまだ少し用があると言い訳をしてそこまでの好意は断った。
城門で待っていれば、恋人が迎えに来てくれるのだという事まで、言えるはずもなかった。

(どうしよう……)
マァムはきゅっと唇を噛んだ。
テンデルに言われた言葉が頭の中でグルグルと回っている。孤児院の見学のつもりが、まさかあんな事になるだなんて…思ってもみなかった。

『私と共に生きて頂けませんか?』

―――それは、プロポーズされたのと同じだった。
何を言われたのか一瞬ぼんやりとしてしまった彼女の手を、テンデルはそっと握る。
あたたかく、ソフトな感触の手だった。

大戦後、アバンの使徒は全員公的な立場というものがついて回るようになった。マァムも例外ではなく、それにともない公の場に出ることが多い。テンデルも大貴族の一員である以上、同じ場所でよく彼女を見るようになったのだという。
けれど、彼がマァムを見初めたのは華やかな舞踏会や園遊会の場ではなかった。
かつての武術大会の跡地。ひっそりと建てられた石碑の前にたたずむ様子を見たからだ。
超魔生物の実験体となったものたちの為、そして、灰となって遺体すら残さずに逝った妖魔学士ザムザの為に建てられたそれは、詣でる者もない敵の墓だ。それを前にして花を手向けるマァムを見た時、テンデルは心を打たれたのだ。

『貴女のように敵に対しても涙を流せる人が共にいて下されば、あの子供たちも喜びます。私では気付かない至らぬ点も、貴女なら改善出来るでしょう。何より…』

馬車が停まった。
扉を開けてくれた御者に礼を述べ、彼女はロモスの城門前に降り立った。
夕日に照らされて長く伸びた己の影を踏みながら、門を守る衛士と挨拶を交わし、公爵邸へと戻っていく馬車を見送る。

『何より、私が貴女を必要としています』

テンデルの静かな声が、耳の奥で何度も木霊する。
マァムは溜息をついた。
テンデルの言葉は、真剣そのものだった。しかも恋人として付き合うという話を通り越して、結婚の申し込みに等しい告白―――女の子なら誰でも一度は憧れるシチュエーションだ。まるで自分が絵本の中の姫君になったような気がした。
それでもマァムは首を横に振った。
すでに彼女には選んだ相手がいるのだ。大戦を共に闘った大切な仲間であり、今は恋人として共に暮らす男性が。いくらテンデルが真剣でも、二股をかける気が無い以上、断るのが当然だった。
だというのに―――

「ごめんな。待ったか、マァム?」

前方から声がした。
「ポップ」
迎えに来てくれた青年の名を呼び、マァムは微笑んだ。
衛士らが会釈をするのに、明るく挨拶をするポップ。その横顔を照らす陽の光は、随分と茜色を帯びてきている。うっすらと滲んだ汗が額や首できらきらと光り、彼が先程まで忙しく立ち働いていた事を証明していた。
少年時代特有の丸みが、ほとんど取れたシャープな輪郭が、夕日に縁どられている。近づいてくる彼の影は大きく、その中にすっぽりとマァムは収まった。

『大魔道士殿とお付き合いなされているのは、知っています』

「遅くなってごめんな。村で毒消し草を選り分けてたら時間かかっちまって。涼しくなってきたし、小母さんも待ってるから早く帰ろうぜ」
「…ええ。ありがとう」
にかっと笑う彼に、静かにマァムは頷いた。ポップは僅かに首を傾げる。
「……どうした? 疲れたか?」
気遣ってくれる言葉に、逆に申し訳なさを感じて、マァムは黙って首を横に振った。

『私では駄目ですか? 大魔道士殿と比べて、私には、何が足りないのでしょう?』
『確かにあの方ほどの魔法の才は私にはありません。その点で比べられたのなら、私にはなす術がありません。ですが…』


「違うの。そうじゃないわ」
―――比べたんじゃない。比べたわけじゃなくて…。
「そっか。それならいいんだけどさ」
安心したように笑うポップに、マァムもにこりとした。

『誠実さで彼に負けるつもりはありません』

「色々、考えなきゃいけない事が多くて……」
そっと目を閉じる。
「ああ…今は色々忙しいもんなぁ。手伝える事があったら、言ってくれよ」
ポップの手から魔法の波動が伝わってくる。ああ、今日はキメラの翼ではないのだ。ぼんやりとそんな事を考える。
瞬間移動呪文(ルーラ)!」

幾度となく聞いた、ポップの呪文の紡ぎ。行先は、母の待つネイル村。
…けれど、きっと今日もまた、辿り着くのは森の中だろう。自分たちが初めて出会った、あの思い出の場所。
マァムは握る手に力を込めた。
そう、あそこは思い出の場所。どんなに彼が呪文の腕を上げても、これほど時間が経っても、いつもそこに着いてしまう―――

『私を選んでもらえませんか』

―――帰るべき場所を知っているはずなのに、なのに迷い込んでしまうのだ。果て無き薄暗さを湛えた、あの森の中に。





(比べたんじゃない。比べたわけじゃなくて…私は……)
思考はいつもそこで止まる。
ジャスティ公爵家より帰ってからというもの、テンデルの言葉が脳裏にこびりついて離れなかった。

告白をされてから、早や三週間が経っていた。
来週にはテンデルの二十歳の誕生パーティーがある。"全ての指を使いきる年齢"は、どの国においてもそれなりに人生の節目と捉えられており、他の年齢の誕生日とは趣が違う。特に貴族社会においては家督相続の目安にもなるため、後継ぎがその年齢を迎えると祝い方は盛大なものとなる。派手なところでは、反目する他家の貴族や有力商人、果ては近隣住民までも屋敷に呼ぶこともあるのだ。
…その日に返事を聞かせてほしいということなのだろう。マァム宛てに招待状が届いていた。

テンデルは決して遊び半分ではなかった。どこまでもその態度は誠実で、瞳に宿る光は真摯だった。
ならば、断るにしても、単に断るだけとはいくまい。きちんとその理由を伝えねば、彼は引き下がらないだろう。
そう思い、理由を口にしようとしてはたと気付いたのだ。

―――自分は、何故、ポップを選んだのだろう。

あまりにも今更すぎると、自分でもそう思った。だのに、答えは出なかったのだ。好きだから付き合っている…それは当たり前だ。嫌いなはずがない。けれど、好きである事の明確な理由というものを探せば、それは捉えどころのない、形の無いものだった。

「お、いたいた。おーい、マァム!」
向こうで当のポップが呼ぶのに、マァムははっと身体を揺らした。
「どうしたんだよ? 水遣りはもう終わったんだろ?」
小走りにやって来るポップ。菜園の水遣りに彼女が出かけたのは既に随分前だった。心配して見に来てくれたのか。
「ご、ごめん。ちょっと考え事してたの」
「…そっか」
黒い瞳がじっと自分を見つめていた。何もかもを見透かされているような気分になる……そう感じるのは、自分が後ろめたさを覚えているからかもしれない。
ふとその視線が外れた。ポップは明後日の方向を見ながら、頬をかいていた。
「あぁそうだ。子供らが来てるぞ」
「え? …あ!」
言われてみれば、今日は絵本を読んであげる約束をしていたのだ。慌てて彼女は立ち上がり、ポップに礼を言って駆け出した。
ポップは何か言いたそうにしていたが、結局は「急げよ」と小さく笑っただけだった。
絵本をいい口実に逃げた自覚があるマァムは、だから気付かない。
その背を見つめていたポップが、ひどく落ち込んだ様子で肩を落とした事に。

夜。借り物の童話集の中にテーブルに置きっぱなしだった一冊を直しながら、マァムは内心で溜息をつく。
今日、子供たちにせがまれて読んだ話は、ラストがいわゆる『王子と姫はいつまでも幸せに云々』という話ばかりだった。こういった話の常として、姫君のバリエーションは豊かだが、出てくる貴公子の性格はどの話でも似通っている。
物腰が優しくハンサム、親切なのに加えて賢明であり、主人公にのみ愛を注いでくれる王子様。
……テンデルはまさに、そういう人物なのだろう。

『誠実さで彼に負けるつもりはありません』

真摯な瞳で見つめられ、僅かも心が揺れなかったと言えば、嘘になる。
魔法の才能や、政治力といった事柄で、ポップとテンデルを比べるつもりはない。それは、かつてポップに対しても言ったことだ。彼らしいところを見せてくれればいいと、自分はそう言ったのだから。
だがそれでは…同じだけの想いを向けられれば、一体何を以て選ぶ理由とするのだろう。
はぁ…と今度は実際に溜息が出る。
そんな事を考えているものだから、ポップに対して普段通りの対応など出来るわけもなかった。よそよそしくオドオドとしていて、挙動不審だろうというのは、自分の事だからよくわかっている。そして、そんな自分にポップが常に何か言いたそうにしているのもわかっていた。
彼が不審がるのは当然だ。しかし、問い尋ねてくる事はなく、ただいつものように明るく振る舞ってくれる…それが申し訳なかった。
だが、こんな今更な事を彼に話して相談出来るはずもない。
(私は、ポップの事が好き……)
今更の、けれど重要な確認。
(なのに、その理由がわからないなんて……)
言えるわけがない。付き合うまでにも共に旅をした仲だというのに、付き合いだしてからそんな事で迷うなんて。
(私…やっぱり何も変わらないままだったのかしら………)
レオナに、からかいに見せかけた真剣さでよく指摘されるように、マァムは恋愛というもの…男女の心の機微に疎かった。いまだとて、ぴんと来ない事が多い。個人に対する親愛の情なら、好きか嫌いかではっきりするが、その個人が異性であった場合に、普通なら考える事や思う事が欠落しているのだ。
ために彼女は完璧な『慈愛の使徒』であれたとも言える。誰か特定の人物に執着する心が強ければ、決してアバンのしるしは光らなかったろう。けれどもそういった性格と言動が、ポップをしたたかに傷つけてきた事を決戦間近に気付かされた。
そして今もまた……同じように傷つけている。
(ポップは…あんなに私の事を想ってくれてるのに……)
ポップはいつでもマァムを包んでくれる。あたたかく、時に力強く。彼が抱きしめてくれる時以上の安心感は、どこにもない。母親を除けば、この世で唯一と言っていい、マァムが自分らしくあれる居場所だった。
だが、彼に想われているから自分も愛するというのは…違うだろう。そんなギブ・アンド・テイクが、この想いの正体なのではない。
(…別の人が同じだけの事をしていたら、私はちゃんとポップを選んだの………?)
ある意味で、それは恐ろしい自問だった。
彼の事は『特別』だと思っている。親友の為に心を砕くその姿も、新しい薬を作ろうと研究する姿も、時々ふざけながら子供たちの勉強を見てやる姿も、元大魔王と低次元な口喧嘩を繰り広げる姿も、政策と理想との齟齬に苦悩する姿も―――全てが愛おしい。

けれど、それらは付き合い始めてから更に気付いた彼の良さだ。

恋人として、パートナーとして選ぶ前から、彼の事は仲間として大好きだったのだ。そう…人として。尊敬する個人として。…男性としてではなく。
そして、今でもその感覚が強いという自覚があるために、テンデルの告白にも断固とした拒絶が出来なかった。
いっそ話してしまえばラクなのだろう。告白されたのだとポップに相談する事で、自分がテンデルに対して何の想いも抱いてない事も、ポップにどれだけ重きをおいているのかという事もアピールできるのに。
マァムは自らの腕を抱き寄せた。ぶるりと頭を一つ振る。
(いやだ…こんな事を考えるなんて…)
それはただの逃げだ。相談をする形で、ポップに丸投げしてしまうだけの、狡くてひどく無責任な行為ではないか……!
頬を紅潮させ、下唇を噛みしめる。己の不甲斐なさに涙が出そうになるのを、彼女はなんとか堪えた。
泣けば必ずポップは気付く。気付いて、心配してくれて、そうしてその想いに自分は甘えてしまう。彼は悩みの原因を探り当てるだろう。
その時、どう反応するだろうか。浮ついている自分に怒りを覚えるだろうか。未だにこんな基本的な事で悩んでいる事に落胆するだろうか。それとも、何でもない事のようにカラカラと笑って励まそうとするのだろうか。
……きっと最後だろう。『ったく、しゃーねーなぁ』…ほら、台詞まで簡単に想像する事ができる。溜息をついて頭を緩く振り、ちょっと困ったように笑いながら『そんなに深く考えるなって』と私の肩を叩いて言うのだ。……他の言葉も感情も、全て笑顔の裏に隠して!
(そんなの…絶対に、駄目よ………)
自分は彼を選んだのだ。もっと彼に相応しかろう娘がいる事を知りながら。彼が、その娘の想いを知りながら、自分を求め続けてくれたように。

マァムの中には、一人の少女に対して強烈な引け目がある。
長く美しい黒髪と、同じ色の瞳を持つ清楚な占い師の娘―――メルル。
彼女に対してのコンプレックスは一生拭えないだろう。大戦後の旅を通して、気の置けない仲の良い友人になれたが、同時に彼女はライバルであり、目標でもあった。

メルルは、ポップが好きだった。

メルルのポップへの想いを献身を目の当たりにするたびに、その激しさと強さに圧倒されてきた。ポップという男性だけに想いを捧げるメルル…戦う力はなくとも、身を呈して彼を守ろうとし、大魔王戦では心を繋げることさえ出来た彼女に、どうしてこんな、異性としてようやくポップを意識しだしただけの自分が敵うだろうと思った。一人の相手をそれほど強く想える心を持っている彼女に、羨望も覚えた。

だが、そんな少女の想いを知りながらも、ポップは自分への告白は取り消さなかった。自分が、長く待たせた返事を彼にした時、心底からの笑顔で自分を抱きしめてくれた。

嬉しかった。嬉しいと同時に、ポップの手を取った時、嬉しさの中に潜む優越感に気付いて愕然とした。大切な友人であるメルルにそんな感情を覚えた自分自身が、ひどく醜くて憤ろしく哀しかった。そして…恐ろしかった。
何故なら、どれほど己の矮小さを自覚しても、もう自分は選んでしまったのだから。それまでの人生で覚えた事がない強い独占欲。初めは小さくとも、今後それはどんどんと大きくなるだけの想いだと理性に拠らずして悟っていた。
理屈ではなく、道理も関係なく、ただ全く感情の範疇にしか存在しない想い。これが恋だと言うのなら、なんと恐ろしいものなのだろう……!
どこかで自分の中の何かが根本的に変わった事を、マァムは感じた。
自分がポップの手を取れば、メルルがどんなに辛いかなんて考えずともわかることだ。それでも身を引く事をしなかった。ポップに返事をしようと決めた時、最早そんな選択肢は、自分の中のどこにも存在しなかったのだ。

(そうよ…しっかり、しなきゃ………)
友人の心を傷つけてでも望んだ関係なのだ。今後もあの可憐な占い師の前に、顔を上げて立ちたいと思うのならば、誤魔化す事は出来ない。自分が何故ポップを選んだのかをはっきりさせねばならない。

自分にとって、他のあらゆる存在と彼がどう違うのか―――そこに答えがあると思うからだった。





台所の隣、数種類のハーブの匂いが充満している小部屋で、ポップは調合をしていた。
ここのところ彼は一日の大半をこの部屋で過ごすようになっていた。冬に備えて作っておきたい薬の種類はかなりの数にのぼり、数も大量に必要となるからだった。
と、いうのは確かに理由の一つだったが、彼にとってはもう一つの理由の方がウェイトが大きかったに違いない。勿論、面と向かって言われれば決して認めはしなかっただろう。マァムと顔を会わせづらいなどという事など。
緑色の液体が、眼下でぐるぐると渦を巻いている。
ゆっくりとしたリズムで、巨大なへらを使い、底が焦げ付いたりしないように攪拌する。熱気も相まって中々の重労働だ。いつもであるならば、その作業を億劫に感じる事もあるのだが、最近は違った。
単調なその作業は、ポップの心を空っぽにしてくれる。何も考えず、ハーブの清涼な香りを吸い込んで、緑色の渦を見つめることに没頭し続けていたかった。とても無理だという事くらい、わかっていたのだけれど。

この数週間、マァムの様子がおかしい。
体調が悪いわけではなく、仕事に失敗したわけでもなさそうだった。ロモスに登城した日―――その日から、心ここにあらずといった状態で、ぼんやりと何事かを考えている事が多かった。
三年前から、常に見つめてきた相手の変化だ。しかも、彼女自身も自覚があるとは思うが、マァムは隠し事が出来ない人間だ。余りにもその様子が顕著なので、何度かは声をかけようかと思った事もある。
ただし、あの状態の彼女に何を訊いても答えてはくれない事がポップにはわかっていた。無理に聞き出そうと思えば出来るだろうけれど、それをするには彼には度胸がなかった。有り体に言えば、怖かったのだ。
(あいつの、あの顔………)
覚えのある表情だった―――どこか夢見心地な瞳も、ほんのりと上気した頬も、どこか不安気で、そのくせひどく幸せそうな雰囲気も。

それは世に言う『恋スル乙女』の顔だった。

(相手は、やっぱ…ジャスティ公爵家の…若君って奴なんだろうな……)
ロモスの仕事帰りには既に考え事をしていたマァムだが、その日は公爵家ゆかりの孤児院を見学していたはずだった。そして、先日、彼女宛てに誕生パーティーの招待状が届いてからは、さらにぼんやりとしている事が多くなっていた。
この方面に異常に鋭い(マァムに関する事限定でという形容がつくが)彼の勘は、相手の男性をしっかり当てていた。
ポップはテンデルに会ったことはないが、マァムと同じく子供らの相手を村々でしている以上、彼の業績は聞き及んでいる。孤児院の方針や、訪れた者の感想、テンデル自身の評判……どれをとっても文句のつけようもない、まさに理想の体現だった。
そんな人物に求愛されれば、どこまでも真っ直ぐなマァムの事だ。心惹かれるのではないだろうか。…惹かれても当然ではないだろうか。
だとしても、ポップにマァムを責める権利など無い。
ポップ自身がメルルに告白された時、そして大戦後に改めて彼女から好きだと言われた時、非常に揺れたのだから。
メルルはとても良い娘だ。優しいし、所謂ところの女の子らしいし、いざという時の行動力もある。ダイの捜索時には、どれだけ彼女の能力に助けられたかわからない。戦闘が出来ない事で「ポップさん達にばかり戦わせて…」などと申し訳なさそうにする姿はいじらしく、守りたいと自然に思った。
恩もあり、強い信頼もある。何より、メルルは自分の事を好きだと言ってくれた―――。
「……………。」
へらを持つ手に、力が入る。
自分のような男を愛してくれて、敵の攻撃からは身を呈して庇ってくれて、しかも最後には心で繋がる事まで出来た少女……あの時、彼女からの息も絶え絶えの告白があったからこそ、今の自分がいる。
あの黒目がちの娘の細い手を取ることも出来たのだろう。そうしたとしても、きっと幸せであったに違いない。けれど―――
(起こらなかった人生を考えたって、無意味だよな…)

―――自分の中での唯一は…変わる事がなかった。

たとえ、想いが届かなかったとしても、自分はマァムを想い続けたのだろう……。そんな仮定もやはりまた、無意味なのだけれど。
人は『いま』をしか生きられない。同時に二つの道を歩く事は出来ない。
ならば、マァムはどんな道を選ぶのだろう―――願わくは、同じ道を一緒に進みたい。
(俺には、あいつしかいねぇんだから……)
根性無しの自分を引っ叩いて性根を入れ替えるチャンスをくれた…人生を変えてくれた、恋愛音痴の美しくお転婆な娘。自分は彼女が…。彼女だけを……!

どこかで鳥が啼いた。強く、鋭く。思考の帳が切り裂かれ、ポップは小さく息を吐いた。





様々な理由を作って逃げてはいても、同じ家で起居している以上、会わずに済ませられるわけもない。表面上は何も問題が無い振りをしつつ、ギクシャクと更に数日。お互いに作り笑いが実に巧みになったとポップは思う。
答えを待つのは慣れていた。こうして一緒に住むようになるまでに二年近く。ひと月の期間がどれほどの事だろう…とは言え、『いつかマァムが相談の形で話を振って来るのではないか』『いやそれよりも、いきなり別れ話を切り出されたらどうしよう?!』等々が頭から離れる事はなく、胃に悪い数週間だった。
最初見えていた、『恋スル乙女』の表情は、もうマァムの顔に浮かぶ事はなかった。自分の勘違いだったのか…? とも思ったけれど、申し訳なさそうにこちらを見る彼女に気付き、更に動揺する羽目になってしまった。
結果、こちらからも何も言いだせず、今日はテンデルとやらの誕生祝賀会―――審判の日だ。
大袈裟な言い方だが、ポップにとってはマァムの答えは審判に他ならない。付き合ってから今迄に行ってきた様々な出来事が一晩中頭を駆け巡って一睡も出来なかった。隣のベッドで横になっているマァムを起こして、早く結論を出してくれと言おうかとさえ考えたほどだった。
胃がキリキリと痛い。マァムが知らない男の手を取るかもしれない…そう考えるだけで、叫び出しそうになる。だが、もっと恐ろしいのは自分の心だった。あの申し訳なさそうな視線の意味を考えて、彼女に振られるかもしれない事を考えて―――それが事実になったとしたら? 耐えられるのだろうか、自分は? 可愛さ余って憎さ百倍とならないだろうか? 相手の男にだけでなく、マァムに対してもドロドロした感情をぶつけない保証はどこにもないではないか…!
深い呼吸を繰り返す。居間のテーブルの上、指を組み合わせていた両手は真っ白だった。
(師匠がいたら、杖で殴られるな……)
魔法使いは常にクールであれというのが、大魔道士マトリフの教えの中の基礎であるならば、いまの自分は弟子失格だ。マァムが何を言ってきても笑顔で受け入れよう―――そう思い込もうとしても、もうすぐテンデルの誕生祝いの時間だと思えば知らぬうちに拳を作ってしまっている。
 きぃ…
ドアが鳴った。礼装に着替えたマァムが立っていた。
「…………よぉ。…似合ってるぜ」
服など全然見てもいないくせに、当たり障りのない賛辞を口にする彼に、マァムは苦く笑った。

―――結局答えは出ていない。

一晩中考えたのだけれど、掴めそうと思っても、するりと手から逃れてしまうのだ。なのに、既に答えが出ているような感覚もあって……わからないまま朝を迎えてしまった。
「一旦、ネイル村に行くんだよな? 馬車を呼んであるんだろ?」
「え…」
「だから、馬車が来るんだろ?」
「あ、う、うん。呼んであるわ」
再び答えの出ない思考の海に潜りかけていたマァムは、ポップの言葉に慌てて頷いた。さすがに、貴族の会合に徒歩や移動呪文で訪ねる事は出来ないため、馬車を呼んであるのだ。……もう余り時間はない。
「そっか。…じゃあ、遅れないようにしろよ。…ゆっくり、楽しんでこいよな」
視線を合わそうとしないポップ。彼は、この一カ月の自分をどう見ていたのだろう。鋭いから、問題の一端くらいは当てているのかもしれない。
「……ええ」
頷いた彼女に、ポップはようやく目を合わせた。見事な作り笑いだった。

「テンデルって人に宜しくな」

それきりまたうつむき加減に視線を合わそうとしない彼に、マァムは思わず呼びかけていた。
「ポップ」
呼んだ彼女が驚くくらいに、ポップは身体を震わせた。
「っ…馬車に遅れるぜ?」
声から逃げるように彼は踵を返した。実際逃げようとしたのだろう。そのまま錬金釜の部屋に向かおうとするのを、マァムは腕を掴んで引き止める。
「ポップ…答えてほしいの」

「あなたは…どうして私が好きになったの?」





『…どうして私が好きになったの?』
別れ話をされるのではないかとビクビクしていた自分にかけられたのは、意外な問いだった。拍子抜けというのではないが、僅かにも気が抜けたのは事実だ。
(今更、理由なんてな………)
そんな風にも思うが、改めて尋ねられると、確かにこうだと答えることは難しいのかもしれない。

切っ掛けは何だったのだろう…と、ポップは三年前の己を振り返った。
あの男勝りの腕力で自分を殴る姿と、包容力のある優しさのギャップに惚れたのだろうか。
それとも、情けない自分を引っ叩いて、叱りながら正しい道を示してくれるその魂のありように?
いや、ひょっとしたら単純に、からかい気味に触った身体が男の自分と明らかに違う柔らかさと円やかさを持っていて、脳が痺れたのかもしれない。
魔の森で? ネイル村で? “おっさん”が攻めてきた時だろうか?

それらは全部真実のようで、けれど全部違う気もした。
スタート地点はすでに遥か彼方で、どれほど振り返り目を凝らして見つめても、はっきりと見ることは出来ない。

当たり前か。とポップは苦笑した。
何が理由なのかはわかるはずもない。一体誰が『今から自分はこの相手を好きになる』と決めて恋愛をするというのか。
それは始めるものではなく、始まってしまうものだ。いつの間にか。気が付いたら相手に惚れてしまっているのだ。
運命とか定めとかいうものに似ている―――ポップは思う。
選択肢はいくらでもあったはずなのに、自分は数多ある様々な未来の形の中から、この現実に辿り着いたのだから。当時を振り返って、その時々の選択肢を違う方向に辿っていく事は出来るが、何の意味もない。選ばなかった道は起こらなかった事でしかなく、ポップにとって大切なのは、これから先に待つ無数の未来をどう歩いていくかという事だった。…できれば一人ではなく、彼女と共に……。

『わからねぇ…。気が付いたら、もう…惚れてたよ、お前に』
そう答えると、彼女は一瞬目を丸くした。
『気が付いたら……?』
『ああ…お前の事を考えるのが、なんつうか、こう……当たり前になってた』
『…………当たり前に…』
『うん。……マァム?』
質問の意図を訊こうかと思った時だった。彼女は笑った。

『ありがとう、ポップ!』

声をかける間もなく、彼女は外に駆け出し、キメラの翼を放り投げた。
光の翼の幻影を目の前に見ながら、ポップの網膜に焼き付いているのは、先程の笑顔だった。
このひと月、一度も見る事のなかった、彼女の心からの笑顔。

寒さを湛える曇天に、光が差したかのような…そんな眩しい笑みだった。



テーブルに突っ伏した格好で時計の音を聞く。
今日は子供たちもやってこないし、怪我人や病人も来なかった。窓の外ではそろそろ太陽が傾きだしている。
何をする気にもならず、ただぼんやりとポップは過ごしていた。

あの笑顔の意味は、何だったのだろう……?

そもそも彼女はどうしてあんな問いをしたのだろう? テンデルの事で色々と考えていたようなのは確実だったが、その事とあの問いにどんな繋がりがあるのだろう?
「……………。」
わかるはずもない。別々の個体なのだから、自分たちは。……だからこそ出会い、惹かれたのだ。
(今頃…テンデルって奴に、返事してんのかな……)
自分の事を抜きに考えれば、彼女が公爵夫人(!)になるというのは誰が聞いても良い話なのだ。事は政治の領域にも属するのだから。
大戦時の仲間は、世界各国に散らばっている。一人ひとりが一軍に匹敵する力を持っているために、特定の国に固まる事はどの王も歓迎しない事がわかっていたからだ。
いまは毎年サミットを開く事もあり、国々は相互扶助体制に前向きだ。戦の気配もない。だが、そんな平和な時代がいつまでも続くものでもないのは、少しでも歴史を学べばわかる事だ。人類の歴史は戦いの歴史……相手は異種族だけとは限らない。
その点、ロモス出身のマァムがロモスの貴族と結ばれれば、何の問題も起こらない。寧ろ国を挙げて寿がれるだろう。
(あいつに…お姫様みたいな暮らしが似あうとは思えねえけどな……)
息の抜けるような笑いが漏れた。それでも、と思う。
テンデルの人柄が評判通りなら、きっとマァムを飾りものにはしないだろう。孤児院や養老院を経営しているという話だから、マァムも形はどうあれ関われる。何より、一から土台を築いていかねばならない自分と一緒にいるよりも、公爵家の資産があれば、もっと多くの人々をいますぐにでも救う事が出来るのだから。
(…それを条件に求愛されたとかなら、こっちも気がラクなんだけどなぁ)
マァムが応えない限り、孤児院の子供たちを見捨てるとでも言うような屑なら、ぶん殴って終わりなのだが、そうではないだろう。旧家の誇りをそういう事で汚すような人間に、ああも立派な経営は出来まい。
ふぅと溜息をつく。もう何度目かわからなかった。
そういう出来た人間ばかりが、マァムの周りに集まるのは、とりもなおさず彼女が良い女だからだ。自分には勿体ない、綺麗な女。…選んでくれた事が嬉しくて、胡坐をかいてはいなかったろうか。彼女の綺麗な栗色の目には、結局のところ自分はどう映っているのだろう。
どれだけ愛されても、やはり自分はいつもどこか自信がない。
(結局、いつまで経っても俺は、あの時の…魔の森で鼻水垂らしてたガキのままだな……)
マァムの返事が恐くて、問題を先送りにして目をそむけて―――変わらねばならないと誓ったはずだったのに。

「なんだそのザマは?」
「うわあ!!?」

いきなり背後からかけられた低い声に、ポップは文字通り飛び上がった。
バクバクする胸を無意識に押さえ振り向けば、玄関の扉の前に銀髪の魔族が腕を組んでこちらを見ている。
「な…んだバーンか。驚かすなよ! 『ただいま』くらい言えよな!」
「……大なめくじに負けたメタスラの如き空気をまとった奴に、何故律儀に挨拶してやらねばならん」
「は…? え…大なめくじ??」
冷めた物言いに含まれた魔界風の比喩に、瞬間的な怒りをそがれてしまい表情の選択に困ったポップを尻目に、バーンは荷物を置いた。
「マァムはどうした? お前がそういう状態ということは、どうせあれが問題なのだろう?」
天地魔闘の如く、最小限の言葉で的確にして最大限の攻撃である。本人にその気がなくとも、ポップにとっていまマァムの事を言われるのは、痛恨の一撃に等しい。
「……なんで、里に行ってたお前ぇがンな事わかるんだよ…」
「つまり図星というわけか」
墓穴を掘った大魔道士は、今度こそぐぅの音も出なかった。戦闘ではあれほど怜悧な頭脳を持っているはずなのに、この青臭さはなんなのだ? とは元大魔王の心の声であるが、無論ポップには聞こえない。
「パーティーだよ…公爵家の若君の誕生祝い…」
ぽそりと呟かれた答え。冷たく光る金眼で目の前の青年を見降ろしつつ、バーンはけれど、いつものようにからかって遊ぶ気にはならなかった。何があったのかは知らないが、不安ではち切れそうになっている相手をつついて、爆発されても大変だからだ。
「そうか、なるほど。…昼から行っているとなると、そろそろ散会と言ったところだな」
窓の向こう、夕日はその傾きを大きくしている。
「そうだな……」
帰ってくるかな……
人の耳なら聞こえなかっただろう呟きを、バーンは確かに聞いた。そういう事か、と口角を上げる。喧嘩をしたのか、それとも会場に伊達男でもいるのか……どちらにせよ娘に振られるかもしれない事を気にしているわけだ。
「迎えに行け」
「……は?」
「さっさとマァムを迎えに行ってこい。鬱陶しい男に居られると、空気が悪くなるわ」
「お前な…ここ、俺の家だぞ?」
「ああそうだ。貴様とあの娘の家だな」
「…………!!」
息を飲む音に、にやりと笑ってやる。
「行け。留守はしてやる」
返事はなかった。瞬間移動呪文(ルーラ)の声が、代わりだった。





前回と同じように首を横に振った自分に、テンデルは肩を落とした。
「そう、ですか……」
「ごめんなさい…お気持ちはありがたいのですけれど……」
せっかくの誕生日に笑顔を奪ってしまって申し訳ない気持ちはあるが、仕方のない事だった。
「いえ…考えて頂いての結論なのですから………。マァム殿、」
顔を上げたテンデルの目には、どこか切羽詰まった光があった。
「教えて下さい。私の…どこがいけなかったのですか?」
彼の辛そうな目をマァムは正面から受け止める。逸らす事は出来なかった。
「……どこも、駄目な箇所なんてありません。ただ、『違う』―――それだけです」
「え…」
「テンデルさんは、ポップとは違う。それだけの事です」
言葉にしようとしても、それ以上の表現はなかった。だが、やはりわかりにくいのだろう。テンデルは困惑気味だ。
マァムは小さく笑う。それは自嘲の笑みだった。昼に、ポップに尋ねた問い―――その答えが、自分が答えに至る道を照らしてくれた。
「ポップは…色んなものを私にくれました」
思い起こすのは、旅の事。出会ってすぐの出来事から、大戦後にダイを探し世界を巡った、長いけれど凝縮された数年間。
「彼に告白されてから、随分長く時間をかけて、私は返事をしましたけど……」
その返事をするに至るには、メルルとの三人旅が欠かせなかった。あれがなければ、今のような自分は存在しないだろう。
あの数年間で、いつの間にか気付いた時には自分は変わっていた。それまでの自分には、もう決して戻れない。
「長い旅の中で、私は彼から色んなものをもらったんです。絶対に敵わないと嫉妬する事も、人に有るものを自分に無いからといって羨ましがる心も、自分だけが選ばれた事に対する醜い優越感も、誰にも彼を取られたくないと願う浅ましい独占欲も、………彼の手を離したらどうなるのだろうという恐怖も」
広大な庭の片隅、孤児院と同じ立派なケヤキがざわざわと揺れる。多くいた招待客達もほとんどが解散し、残っているのは親族ぐらいなのだろう。閑散とした庭園で、たたずむ二人にオレンジ色の太陽が最後の光を投げかけた。
「全部、ポップからもらったんです」
恥じらうように微笑むマァムのその表情を、テンデルは知っている。
それは『恋スル乙女』の顔だ。

「だから…彼はもう、私の一部です。離れる事は、出来ません」

テンデルは頷いた。かけられる言葉は彼の中に存在しなかった。
残念な結果ではあるが、こうも見事な答えをもらってなお食い下がるほど、男を捨てたつもりはない。
きっぱりと諦めよう。そう…諦める事が出来る。考えようによっては、貴重な経験だ。
決してかなわぬ恋―――…それを目の当たりにしたのだから。





馬車が村に着いた頃には、すでに夜だった。一度母に顔を見せてからキメラの翼を使って戻るつもりで、マァムは家に向かった。
村の者はもう誰も外にはいない。家々の中からはたまに声が聞こえるが、広場はしんとしていた。そろそろ夕餉の時間だから、そんなものだろう。
ガサ…という音が、マァムの耳に届いた。
「え?!」
音が鳴ったのは、森側の道だった。マァムは顔を引き締める。
家はもう目の前だったが、森の魔物でも入り込んだら大変な事になる。出入り口には聖水がまいてあるから普通は森の魔物程度なら入ってこないのだが……
だが音の正体は、彼女の想像したどれでもなかった。

「マァム…」
「ポッ…プ?」

ポップの様子は酷いものだった。いたるところに土と葉っぱと小枝が引っ掛かっており、服は何箇所か破れている。
「ど、どうしたの?! こんな格好で……怪我は?!」
大丈夫…と小さく彼は笑った。
「村に行こうと思ってルーラしたらさ、やっぱり失敗して……あの場所じゃなかったんだけど、近くの木に突っ込んだんだ」
キメラの翼を使えば、よほど目的地のイメージが滅茶苦茶でない限りは無事に運んでくれるのだが、ルーラは術者の魔法力のコントロールが問題になるため色々と難しいと聞く。その説明にマァムは一応納得したが、一つだけ疑問があった。
「あの場所じゃなかったの…?」
いつもならば、ネイル村をイメージしてルーラを唱えても、ポップは森の中に着地するのだ。あの場所とは、森の中…自分達が初めて出会った場所だった。
「ああ…すぐそこの木だ。随分と村に近くなったぜ」
にゃははと明るく笑うが、その笑いはすぐにしぼんでしまった。
「………。」
「………。」
虫の音が響く中、二人はしばらく無言だった。やがてポップが何かを決心したように顔を上げた。
「あの…さ…、パーティーは、どうだった?」
「……豪勢だったわよ。とっても。綺麗なお庭で、テンデルさんに皆で乾杯して、あとは立食だったわ」
あえて、はぐらかした返事をする。ポップは自分とテンデルの間に、何があったかをおそらくわかっているのだろう。けれどそんな風に遠まわしに尋ねられても、先読みしてまで答えたくはなかった。意地が悪いかもしれないが、そういうのは、男の役割ではないかと思うから。
「そうじゃなくて…」
「うん。なぁに?」
ちょっと傷ついた顔をするポップ。自分を見ようとしない黒い目が一度閉じられ、…次に開いた時にはどこか力が宿っていた。

ポップはマァムに向き直った。

「お前は…テンデルを選んだのか?」

真っ直ぐに自分の目を見る黒い瞳。静かな声は少しだけ震えていたけれど。
マァムは微笑んだ。
「いいえ…選ばなかったわ。ちゃんとお断りしてきたの」
まるでその答えを吟味しているかのように、ポップが次に言葉を発するまでしばらくの空白があった。そして、その長さに反比例して、反応はとても短かった。「そうか」とただ一言。
隣に腰かける恋人から、安堵した空気が伝わってくる。張り詰めていた空気は、もうどこにもない。
「不安にさせて、ごめんなさい。もう、あなたのお陰で答えは出たから」
「俺の? 答えって…?」
「ちょっとね……。私にとって、とても大切な問題だったの」
「…そ、か」
ポップの手が、マァムの手を取った。互いにあたたかく…少し荒れた手だった。「なぁ」と彼は言う。
「もし、お前が…また誰か別の男に告白されてもさ……とりあえず……」

「俺に……俺にしろよ。俺は…頼りないかもしれないけど、苦労ばっかかけるかもしれないけど…! 絶対にマァムが望む分だけ頑張ってみせるから―――」

―――だから、俺にしろよ。

「ええ…ありがとう」
静かで力強い要請に、マァムは頷いた。
もう自分の中で答えは出ていた。改めてポップが求めてくれたのなら、頷くのに何の躊躇があるだろう。
(それでも『とりあえず』なんてつける辺りが、ポップらしいわね)
彼の肩に頭をのせて、ふふっと笑う。

きっとこれからも色々と問題はあるのだろう。それでも自分には、とりあえず彼がいる。彼の存在の答えがある。
それをよすがに、これからも進んでいこう。渡りが決して迷いはしないように、自分ももう、迷う事はない。



何があろうと、他の全てを取り敢えず、ただあなたと共に。


(終)



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