繕う


大通りの喧騒を離れ、3回角を曲がる。
1回曲がる都度、道は狭まり、建物の色はくすんでいくようだった。狭さを利用するかのように洗濯物が建物同士を繋ぎ、訪れる者を歓迎する旗のように揺れている。雑多なにおいが満ち、日当たりの悪さからか、それとも人の多さからか、湿気が凄まじい。
そんな路地にも、少なからぬ数の店がある。門から王城に続く真っ直ぐな大通りに面しているのは、それなりに勢いのある大店ばかりだが、こういう場所にあるのはほとんどが個人の露天か、住居を兼ねた小さな構えばかりだ。
大戦の前から、元々この地区はこうだったのだと言う。戦火に焼かれ廃墟となった後、再び大通りが作られ、路地が作られ、それに沿うように家が建っていったのだと。
もちろん、全てが元通りというわけではないのは、当たり前だ。
壊れた物がそっくりに作り直されても、元の物ではないのと同じ。失われた人々は―――決して還ってはこない。

ローブを目深にかぶった姿で、ヒュンケルは服屋を探す。

現在、聖騎士の称号で呼ばれパプニカの近衛隊に属しているヒュンケルには、結構な額の給金が出ており、制服が支給されている。だが、いま彼が小脇に抱えているのは近衛の紋章が入ったそれではなく、普段着とでもいうべき服だ。
先だって、とある出来事で破れてしまったそれと同じ物を、ヒュンケルは求めるつもりだった。
だが…

これは…まいったな………

路地に入って5分も歩かぬうちに、彼は心の中で独りごちる羽目になった。
簡単な作りの服だからすぐに見つかるだろうと考えていたのだが、甘かったようだ。通りには似たような露天がズラリと並んでいる。安価な既製品が多いのだろう、どの店も同じような衣類を扱っている。
こんなことになるのならば、店の名前も調べておくのだった。と早くも彼は後悔し始めていた。
ならばその辺の店の者に取り扱っているかどうかを訊けば良いのだが、そういう発想はヒュンケルにはない。出来ないわけではないのだが、元から人付き合いというものが不得手な上、ここがパプニカであるということが心理的な制限に拍車をかけている。
他国の街でなら尋ねたかもしれないが、この場所は―――この国は彼が破壊したのだから。
『元魔王軍不死騎団長 ヒュンケル』が、人間憎しの心の赴くままに。

この場所も、あの日に歩いたかもしれない。

逃げ惑う人々の群れ。泣き喚く幼児、杖を失くし転ぶ老人、赤子を抱いた女性……非戦闘員には特に興味もなかったが、城が、街が、人の営みそのものが、当時のヒュンケルには憎悪の対象だった。彼が暗黒闘気で操った屍の群れは、『襲え 破壊しろ』という主の簡潔な命令に従って街を蹂躙していった。
中には、屍を操っているのが彼だと気付いて立ち向かってくる兵士もいた。だが、圧倒的な戦闘力の差がヒュンケルに刃を届かせることはついぞ無く、かえって、その弱さがヒュンケルの苛立ちを助長した。
無造作に剣を振るっては、勇敢で無謀な兵を斬り捨て、事切れたその骸を暗黒闘気で立ち上がらせて残りの者を襲わせた。いま殺された同胞が、自分たちに襲いかかってくるのを見た兵士達の驚愕と悲しみと…憎しみに満ちた目は、暗く鮮やかにヒュンケルの脳裏に焼きついている。

ダイたち仲間と出会うまで…光を得るまで、あれと同じ目を―――己もしていたのだ。

大戦が終わり、平和になった世界であるからこそ、人々の悲しみや恨みは強まっている。自分が、師アバンを父の仇として憎み続けたように。
周りを見る余裕がやっと出来て、そうして…自分が失ったものの大きさが、価値が、段々と見えてくる。

『平和になったのに、あの人はもういない』
『隣は家族全員が無事だったのに、私は皆を失った』
『自分の手は、足は、もう元通りには動かない』
『思い出のつまった家が、跡形も無いなんて』
返せ。帰せ。かえしてくれ。戻してくれ。
戦の前に戻してくれ。私の、俺の、僕の、父を。母を。夫を。妻を。子供を。恋人を。友人を。手を。足を。家を。財産を。
以前の通りにかえしてくれ。私の、俺の、僕の、輝いているはずだった、こんなはずではなかった、もっともっと素晴らしいはずだった、存在しているはずだった―――未来を…!

ヒュンケルがパプニカの人々と関わる事を極端に避けるのは、その想いを知っているからに他ならない。人々の、魂かけての號びを知りつつも、応える術がないからだ。彼が持っているのはその身一つであり、死者と生者のどちらに与えるにしても、数は足りないのだから。

人と関われば顔を合わさねばならない。もし顔を知る者が自分を見咎め、騒ぎになったならば…上手く事を収めるなど不可能だということくらい、深く考えずともわかることだった。
しかし、だからと言ってあっさり帰るという訳にもいかない。
ちらりと手に持つ袋に視線を落とす。この服だけは、何とか同じ物を手に入れなければ。
もう少し探してみよう。
そう思い、再び歩き出したヒュンケルの耳に、聞きなれた声が響いた。



「なあ、頼むよ。教えてくれ! ちゃんとお礼はするからさ、な?!」
「いや…そう言われましても、ウチも商売ですし…」
「開発に成功したら、パッケージにこの店の事も書くしさ。品も格安でお宅に卸すから! な? な?!」
「………かないませんね、大魔道士さまにゃ」
「サンキューおっちゃん!! 恩に着るよ!!」
「恩よりも、ウチの服買って着てもらったほうが嬉しいんですぜ? まったく…。じゃあ、持って来ますから、少々お待ちを」



少し歩いた所にある、小さな店の軒下で、その店の店主と思しき男性と、客の青年とが親しげに話していた。
呆れたという態で肩を竦めながら奥に消えた店主を見つつ「よっしゃあ」とガッツポーズをしている青年に、ヒュンケルは近づいた。

「ポップ…?」

黄色いバンダナが揺れた。
緑を基調とした明るい服の青年が、振り向く。
「ヒュンケル?」
丸くなった黒い瞳が、笑みの形に細まった。
「こんな所で会うなんて、珍しいじゃん。どうしたんだよ? 仕事は?」
姫さんのお守りをしなくていいのか? 矢継ぎ早に問いを発して、六つ下の弟弟子はカラカラと笑う。
知り合いに会えた事で少し和んだ空気をまとい、ヒュンケルは苦笑した。
「今日は非番だ。ここには服を探しに来てな。…お前こそ、こんな所で何をしているんだ? 今はベンガーナに居るのではなかったのか?」
そう。この弟弟子であり希代の大魔道士でもある青年は、ベンガーナに仕官している身のはずだった。仕官と言っても、王個人に雇われている形をとっているため、無位無官であり毎日登城する義務もない。仕事量は多いが、しがらみの少ない自由な身でもあるため、それを利用して各地を転々としつつ復興の手助けをしているのだ。―――愛する女性と共に。

ヒュンケルの脳裏に、薄桃色の髪の娘が浮かんだ。敵として出会った彼を慈愛の心で包んでくれた聖母のような存在……マァム。
5歳も年下の妹弟子である娘にヒュンケルが抱く想いは単純だった。『敬愛』―――その言葉に尽きる。
3年前の大戦で、憎しみの闇に囚われていたヒュンケルに光を与えてくれた娘は、共に歩む存在として、目の前の青年、ポップを選んだ。以前からポップが彼女に恋焦がれていたのは周知の事実で、マァムが彼の手を取ったと聞いた時、ヒュンケルは二通りの意味で心から祝福したものだ。一つには、ポップの想いが成就したこと。そして二つ目は、マァムが幸せになるだろう事が確信できたからだった。
実際、ポップと共に暮らし始めてからのマァムは、以前よりもさらに幸せそうだ。毎日が充実しているのだろう。ふと見せる笑顔が、ハッとするほど美しい事がある。そしてそれは、ポップに向けられる時に顕著だった。
自分が選ばれなかった事に嫉妬はなかったのか、そんな事を訊かれたこともあったが、それについてのヒュンケルの答えは「否」だった。元よりヒュンケルの中でマァムに対する想いは、恋愛感情よりも崇敬の方が遥かに勝っていたため嫉妬の抱きようが無かったのだ。
それに、と思う。マァムが万が一自分を選んだとして、自分が彼女を幸せに出来るはずもないのだ。正道を歩んできた娘に、憎悪に半生を捧げてきた男が並び立つ資格などないのだから。

「いや、」ポップは軽い足取りで店の中に入り、店主が消えた奥をチラと見遣ると、ついてきたヒュンケルに視線を戻した。
「今はベンガーナじゃなくて、リンガイアだよ。瓦礫の撤去が終わる目処がついたから、そろそろ移動するけどな」
「忙しいのだな。…今日はいいのか?」
リンガイアにいなくても良いのかと尋ねれば、頷きが返された。
「お前と一緒で、『おやすみ』って奴だ。さすがに、毎日じゃ身体がキツイし。急患以外は遠慮してもらって、今日は羽を伸ばすさ」
「そうか。…城に行くのなら、もうすぐ陛下も御政務を休憩されると思うぞ」
折角の休暇にパプニカに来たのなら、きっと城に向かう途中だったのだろう。そう思っての言葉だった。
ポップとパプニカで会うのは何ら珍しいことではなかったが、その場所はいつも城内だったため、ヒュンケルの台詞は当然のものだった。だが、ポップは首を横に振った。
「会いたいけど、今日はやめとく。おっちゃんに薬をもらったら、すぐに帰るよ」
「薬…?」
ヒュンケルは思わず店の品を見回した。………どう見ても服屋だ。
「…ここは、薬局もしているのか?」
訝しげな彼の問いに、小さく笑いつつポップは「違う違う」と手を振った。
彼は言う。薬と言うのは医薬品ではなく洗剤だ、と。
「洗剤」
「そう。この店は、シミ落としでも結構有名な店でな。俺も何度かお世話になってるんだよ」
「ほう」
そうなのか、と改めてヒュンケルは店を見回した。どこの市場にでもあるような服屋なのに、そんな売りがあったとは。
当の店主はまだ戻ってこない。洗剤とやらを持って来るのに手間取っているのだろうか。
「ベンガーナのデパートにも洗剤はあるんだけどな。やっぱり蛇の道はヘビって言うだろ。『法衣のパプニカ』には、それなりの技術があるってことさ」
確かに、ポップが身に付けるだろう魔道士の服は、ここ魔法大国パプニカの産であると相場が決まっている。布地の産地には、自然、それなりの洗濯技術も確立されるという事か。頷き、ヒュンケルは同時に感心していた。何でもない事のように弟弟子は笑うが、そういう店を探し出すところが彼らしい。
自分には、出来ないだろうな…と心の中で自嘲する。自分が、目の前で明るく笑う青年のように、どんな場所にあっても人々に溶け込み親しく接する…などという事が可能だとはとても思えなかった。
思えば、ポップとは大戦中に何度も衝突したものだ。敵として出会ったのであるから、わだかまりがあるのは当然だった。だが…と言うか何と言うか、面白いことに、一番自分に話しかけてきたのもポップだった。単に場の空気をもたせようとする無意識の行動だったのかもしれないが、そのおかげで、重苦しい沈黙に耐えられない…という事態には一度もならなかったように思う。
ごく自然とそういう風に振舞えるところが、ポップが勇者パーティのムードメーカーと言われる所以だ。
「………。」
己に欠けた所を全き形で備えている弟弟子に、羨望を覚えてヒュンケルは目を細めた。

店の奥は、申し訳程度に設けられているカーテンと、家具の陰になって見る事は出来ない。「遅ぇな…」と小さくぼやきながら覗き込んでいたポップは、自分を見つめる兄弟子の視線に気付いたようだ。
「…なんだよ、じっと見て?」
「いや…。…ところでポップ、その洗剤とやらをお前がもらってどうするんだ?」
不審がる黒い目に、慌てて彼は話を変えた。こういう時、表情に乏しいのは便利なものだ。
ポップは「ああ」と破顔する。
「錬金釜で作ってみようと思って。材料費が安いものなら、沢山作って産業に出来るしさ。……それに、」
言い差した声は、ほんの少し切なげだったが。
「ポップ…?」
「や…ほら、マァムが洗濯を頑張ってくれるもんだからさ、俺も何かしないとな〜って思って」
青年はへらりと笑う。その顔に翳りはない。ヒュンケルが一瞬感じたものは、笑みに払いのけられたようだった。
黒い瞳は変わらず強い輝きを放っている。ならば、過度に気を回すのは無粋だった。―――この弟弟子は強いのだから。魔法力はもちろん、その心根が。
「そうか…。マァムは、元気か?」
「おう、元気だぜ。今日はお袋さんと一緒にジパングに湯治に行ってるよ。『湯煙美人 ジパングの旅』って奴だ」
何が楽しいのか、ニヤニヤと笑う彼に、ヒュンケルは首を傾げた。
「トウジ?」
「温泉で骨休めするこったよ」
「オンセン?」
「ああ…そっか……あったかい泉のことだ」
「ユケムリビジン?」
「…あ〜……ダイが詳しく知ってる」
面倒くさくなったのだろう。カウンター横の小さな棚に行儀悪く腰掛けていたポップは、強引に質問を打ち切って立ち上がった。
視線がほぼ水平に交わって、ヒュンケルは僅かにたじろぎに似たものを覚える。
マァムの事が話題に上っても、ポップは何ら気負うところもなく答えた。……3年という時間が確かに流れたことを、ヒュンケルは改めて感じざるをえなかった。



「それよりさ、ヒュンケル、お前は服を探してるんだろ? どんなのだよ?」
親友に説明の義務を押し付けた大魔道士は、店に入った時のまま突っ立っている相手に話を振った。ここまでほとんどヒュンケルに質問に答えるばかりだったので、流れを変えたかったのだ。
「ああ、普段着だ。この辺の店だと聞いて…」
その返事に、ポップは脱力する。
「あのな…『普段着だ』じゃ何もわからねえよ。色とか予算とか言ってくれねぇと」
「そ、そうか…色は…」
説明しかけて、ヒュンケルは思い出す。持ってきているのだから、見せた方が早いのだ。手にしていた袋を開ける。
戦場では怖いほどに冴えている癖に、このあたり、どうもこいつは鈍いんだよな。とはポップの心中の声だが、無論ヒュンケルに聞こえるはずもない。
「これなんだが」
「どれどれ? …へぇー」
ヒュンケルが出したのは、いわゆる『布の服』といわれる物だった。
大層シンプルなデザインだったが、生地は厚めで、旅人の服だと言われても通りそうだ。色は、角度によっては黒にも見えるだろう、ごく濃い紫紺。
模様の有無を見ようとすると、「後ろには何も無い」と先を制された。
―――深く落ち着いた雰囲気のある服だ。品は良いが、着る人間を選ぶだろう。と、そこまで思い、ポップは気付いた。着る人間を選ぶと言えば、この目の前の戦士ほどその候補として相応しい者はいないということに。
「いいモンじゃねぇか」
「ああ…、貰い物でな。俺も気に入っている」
嬉しそうに応える彼に珍しさを覚えつつ、無人のカウンターを勝手に拝借してヒュンケルが置いたその服を、ポップは素直に賞賛した。なるほど、これなら似たような服を何着か持っていたいというのもわかる。
「色違いのモンが欲しいのか? デザインだけならこの店にも似たのがあるんじゃねぇかな?」
先程から、他の客は来ていない。男二人で服談義というのも妙なものだと思いつつも、店主が戻るまではどうせヒマなのだ。ポップは床や壁に所狭しと陳列された商品を見るため移動しようとした。だが、
「すまんが…、似ている物ではなく、同じ物が要るんだ」
「へ………? 同じって…全く同じ服ってことか?」
下着じゃあるまいし、何着も同じ服を持っていてどうするのか―――呆れて言おうとした言葉を、彼は飲み込んだ。
「ああ」
微かな変化だが、ローブの奥で、ヒュンケルの顔が曇ったのを見たからだ。
「ふーん…」
じっと見ると、栗色の瞳が僅かに逸らされた。
ポップは小さく溜息をついた。わかっている。こういう男なのだ、こいつは。会話は必要最小限。それ以外は静かに佇むだけ。言葉の少なさを自覚している癖に、相手に理解を求めるわけでもない。
世の中には言葉で伝わらない事も確かにあるし、百の言葉よりも沈黙が雄弁となる事態もあるのは事実だが…ヒュンケルの場合はそうではない。寡黙のゆえに誤解を招こうと、それを「仕方ない」で済ましてしまう傾向があるのをポップは知っていた。
ただそれは、開き直っているわけでもなんでもなく、単にどうしたら良いのかがわかっていないだけだという事もポップは知っている。人とは違うコミュニティーで長年育ってきたこの兄弟子は、敵を威嚇、挑発するための態度や自ら憎まれ役を買って出る手段には長けているくせに、『何気ない日常』という場面での振る舞いが実にぎこちないのだ。
……隠し事も下手だよな。
「…………。」
無言でカウンターまで戻り、ひったくるように服を取って『何も無い』はずの背中側を向けた。ヒュンケルの腕のあたりがローブの中で一瞬動いたのは、自分を制止しようとしたのだろう。だが遅い。
「…やっぱりな」
こんな事だろうと思ったぜ。…とはポップは言わなかった。口に出してしまえば、彼の『日常』を認めてしまうような気がしたからだった。

服の背は、スッパリと裂けていた。

「……斬られたんだな?」
口調は問いの形を取っていたが、それは事実の確認だった。
「…ああ」
やはりこの大魔道士に隠し事は無理なのだろう。素直に答えるしかなかった。
「どこで…誰に? まさか城内でか?」
「いや、家に帰る途中だ。兵士の一人でな…ずっと待っていたらしい」
復讐の機会を。憎い男が一人になる時を。
仕事帰りの、夜も過半を過ぎた時刻。しかも家を目前にした場所。さすがに少し気が緩んでいたヒュンケルは、殺気に反応するのが半瞬遅れた。袈裟懸けに斬りかかられた剣を、完全にかわしきる事が出来なかったのだ。
服はその時に破れた。貰ったばかりだというのに、台無しにしてしまった。贈り主の顔がちらつき、申し訳なさが胸を突いた。
「そっか…」
ぽつりと小さく相槌を打った青年は、今一度その裂け目に視線を遣り、固く目を閉じた。
「これだけで済んだのか?」
目を閉じたままの問い。見えないのはわかっているのだが、ヒュンケルは頷く。
「ああ。二撃目の時に当て身を喰らわせて、それで終わりだ」
事実を淡々と語る彼の前で、一瞬青年が震えた。どうした? と訊く間も無く、それまでで一番静かな声が俯いた青年から届いた。
「一応、聞いとくけど……怪我は?」
「心配するな。当て身で怪我をさせたりは―――」
「馬鹿野郎!! 誰が襲撃した奴の事なんざ心配するかよ!?」

お前の事に決まってんだろうが!!

はぁはぁと肩で荒い息を繰り返しながら、ポップはヒュンケルを睨み付けた。白いローブの胸倉を掴み、揺さぶる。……こんな大声で怒鳴ったのは久しぶりだった。
ああ、こいつは本当にムカつく奴だ。何もわかっちゃいない…!
虚を突かれたような表情に、更に怒りが倍化する。こういう男なのだとわかっていても、理解と納得は別の次元に存在しているようだった。
兵士の一人だと言うなら、それは、普段から知っている人間に狙われたということだ。暗殺を実行しようという人間が、鎧姿などという目立つ格好で夜中まで獲物を待つわけはないし、当て身を喰らわせた後で捕らえて身元を調べるなどという事を、彼がこの場合するわけがなかった。ならば、人付き合いの苦手な彼が咄嗟の状況で判別がつくならそれは、見知った人間が刺客だったということだ。
―――そんな近しい者に命を狙われて、何故そうも淡々と話すのか。
襲われた時の状況もそうだ。
「家が近かった? 深夜だった? そりゃあ気は緩むかもしれねぇけどな、その程度のことで、お前がヘータイの攻撃くらい避けられねぇわけないだろうが!」
ヒュンケルは息を飲んだ。ポップの迫力に気圧される。普段の飄々とした態から打って変わって、青年はまるで炎のようだった。黒い瞳はどんな嘘も逃がさぬように、ヒュンケルを見据えている。
「…そうだな…きっと、避けられたのだろうな」

   殺気を感じたその瞬間、危機を回避するために動こうとする身体。
   それを抑制するものがあった。
   「もういい」と。「斬られるべきではないか」と囁く何か。
   ―――そうかもしれない
   瞬きにも満たない刹那、その囁きにヒュンケルは囚われ、ために動作は遅れた。
   男の振り下ろす剣が、振り向こうとした紫紺の背中に吸い込まれていく。
   月に照らされて冴え冴えと輝く銀髪が、数本散った。

ローブを握る手が、震えている。ポップには、自分がどう斬られたかなど、お見通しなのだろう。
「……怪我はなかった。本当だ。この服に護られたから」
刃はヒュンケルに届かなかった。生地の厚さが幸いしたのか、一条の傷すらなかった事に、ヒュンケル自身が驚いた。…刺客には残念極まりない結果だっただろうけれど。

女房と子供の仇だ―――!!

向き直り、改めて対峙した刺客は、そう告げた。少なくとも3人分の憎しみが込められた剣…それを受けるべきではないかという声は、頭の中でずっと響いていた。相手を気絶させても、声は鳴りを潜めただけで消えたわけではない―――当然だ。それは、いつも自分が考えている事なのだから。
「もっと自分を、大切にしろよ…。皆、お前に生きてて欲しいんだぜ?」
「ポップ…だが、俺は…」
戦だから殺したのではなく、憎かったから殺し、破壊したのだ。師のことを父親を奪ったと思い込み、師が大切に護ってきた『地上の平和』そのものが、憎しみに値する存在だった。
新たな主君に「生きろ」と言われ、仲間にも「生きて欲しい」と言われ…自分のような存在を惜しんでくれる人々を、ありがたく思わないはずがない。それでも、その逆の存在を無視など出来はしない。現に今でも…今だからこそ、処分を望む陳情が毎日王城に届けられている。
「生きて欲しいと願ってくれる人々のために生きると言うのならば、死を望む人々のためには…殺してやりたいと憎む人々のためには、どうすればいい?」
「………っ!!」
「ましてや、死を望む人のほうが圧倒的に多いんだ…俺という人間は」
自分さえいなくなれば…そう思わない日はない。自分さえ死ねば、パプニカの民は溜飲を下げるだろう。恨みを抱えて生きる事も無く、未来に目を向けて進んでいける。元魔王軍不死騎団長を重用する女王に対する不信めいた感情も消滅するのだ。
「…そうだな」
ローブを握り締めていた手が放された。
ポップは悄然と項垂れる。ヒュンケルの言う事はよくわかる。もしポップ自身が同じ立場でも、そんな風に考えるだろうからだ。恨まれ、憎まれ、罪の意識に苛まれて…どうやって身を処すべきかを念頭に生きるに違いない。
自分達が生きて欲しいと願う限り、ヒュンケルは「生きよう」と思ってくれるのだろう。けれど「生きたい」とは思わないのだ。
そんな思いでいる限り、大戦の頃のように動けなくなったヒュンケルは、いつかは刺客の手にかかる。それが予測出来てしまう事が辛かった。
けれど―――
「―――だからってそれじゃ、何も変わらねぇよ…」
「ポップ?」
「お前が死ななきゃならねぇなら、バ……ウチの居候も死ななきゃならねぇ。おっさんも、ラーハルトも…ヒムも…」
「それは…」
ポップが挙げた名前は、全て元々魔王軍の陣営にあった者……つまりは、今のヒュンケルと立場を同じくする者達だった。
「『魔族だったから人間を殺しても構わなかった』ってわけにはいかないだろ。人間が、魔族や魔物を殺していいわけないように」
ヒュンケルはその言葉に言いようのない気分を味わった。敢えて表現を当て嵌めるのなら感動だったかもしれない。この弟弟子は、人間と魔を等しく見ているのだ。それは、この地上を支配する種族に属する者としては稀有な、そして危険視されかねない思想だった。
「俺だって、敵を沢山殺した。火炎呪文で焼き殺して、氷系呪文で凍らせて、爆裂呪文で粉々にした。ダイも、マァムもそうさ。剣で切り裂いて、拳でマホイミを打ち込んだんだ。きっと、その中にはビビッて逃げ出したかった奴だっていたはずだし、普段は人間にも優しい奴だっていたはずだけど、何にも考慮しなかった。……恨まれてると思う。殺したいほど。…そんでもって、」
ポップは言葉を切った。項垂れていた顔を上げ、ヒュンケルの目を真っ直ぐに見つめた。
「今更、俺達が殺されてやったところで、誰も生き返りはしないんだ。―――しょうがないんだよ」
過去は変えられない。起こった事は無かった事に出来ない。謝っても悔いても…どう仕様もない。
「………ああ、わかっている。わかってはいるんだが…」
「もしも、」
ヒュンケルの言葉は、ポップの声に断ち切られた。いつも明るく輝いて見える黒い瞳が、違って見える。
「もしも、お前が殺されたりたら、マァムが悲しむ。…ついでに俺もな」
「…ついでか」
彼らしい言い方に、思わずヒュンケルは苦笑に似た表情になる。ポップはそれには構わなかった。
「ああ、ついでだよ」

「生きる事が死ぬ事のついでな奴が死んだって、あんまり悲しむのも変だろうし、」

薄く笑う。兄弟子の戸惑った表情が面白かった。だが、別にポップはからかったつもりはない。本心だった。ヒュンケルが…この『死にたがり』の兄弟子が復讐者の手にかかったりすれば、確かに悲しいだろう。だが、きっと……
「きっと俺は、悲しむより怒ると思うぜ」
昨夜ヒュンケルを襲ったという、誰とも知れない兵士の顔貌を、勝手に色々と想像する。

「お前を殺した相手に怒り、そいつを褒め称える奴らに怒り、それを止める手立てを打てなかった姫さんに怒って…パプニカ全てを―――憎む」

「………!!」
「そうやって繋がってくんだよ。憎しみの連鎖って奴は」
「……憎しみの…連鎖…………」
ポップの言を繰り返し、ヒュンケルはその重みに僅かに震えた。感情豊かなはずの青年の顔は、一切を洗い流したかのように無表情だった。
自分を見つめる黒い瞳が、まるで虚無の穴ように見える。何も残らない、憎しみの果て。

「過去を悔やむなとは言わねぇよ。居直れとも思わない。お前ぇのそういう態度は当然なんだと思ってる。……でも、復讐を認めないでくれ。お前がその兵士を刺客にしたように、今度は俺が誰かを恨まなきゃいけなくなる。ハドラーを憎み続けてなきゃいけなかったろうし、バ……あいつの事も助けちゃいけなかったんだろうし、それに…俺も、ダイも、マァムも、おっさん達も誰かに殺されなきゃいけなくなるんだ」

「……………。」
ヒュンケルは瞳を閉じた。この弟弟子に、何かを教えられた気がした。
「俺は…中々変われないと思うが…」
「ん〜…いいぜ、別に。諦めてるから」
あまりと言えばあまりな物言いだ。だが、反論は出来ない。今回のことだけでなく、一体今までどれだけ自分はポップ達の想いを無下にしてきただろう。
「…すまん」
「謝ってくれなくていいさ。ただ…生きてくれ。あんたが生きてる事が…俺らの生に繋がるんだから」



「あんたの番で、鎖を斬ってくれ」



「…わかった。努力する」
ヒュンケルの頷きに、ポップは安堵と同時に内心で溜息をついた。
努力かよ。…まぁ、それでも一歩前進ってとこかね。
そう言ってやろうかとも思ったが、兄弟子のその表情に、言葉は出口を失った。

泣き出しそうな、笑顔だった。

…ああ、くそ。やっぱりムカつくわ、こいつ。この顔で憂えたり笑われたりしたら、誰が文句言えるかってんだよ!
思わず拳を作りそうになったその時だった。カウンター奥のカーテンが揺らめいた。
「お待たせしました、大魔道士様」
店主だった。そうだ、忘れていた。自分は彼を待っていたのだ。
「あ…ああ、ごめんなおっちゃん。カウンター勝手に使っちまって」
「いえいえ。…薬なんですがね、いま丁度切らしてまして。それで、作り方を書いてきたんですよ。遅くなって相すみません」
メモを差し出され、ポップは満面の笑みになる。
「とんでもねえよ。助かるぜ! 作るなら、こっちの方が手間が省けるし!」
急にいつもの通りのくるくるした瞳に戻ると、ポップはメモに視線を走らせた。頭の中では既に、錬金に用意する材料をピックアップしているようだ。
「サンキュー、おっちゃん! 試作が出来たら、持って来るぜ!!」
にかっと笑い、ポップはメモを懐に収めた。
「帰るのか」
「ああ。…っと、そうだ。おっちゃん、」
「はい?」
「悪いんだけど、こいつ服が欲しいみたいだからさ、探してやってくれねぇかな?」
目線でヒュンケルを示し、小さく頭を下げる。
「ああ、はい。わかりました。今度は大魔道士様も買って下さいよ?」
「へーい。じゃあな、ヒュンケル!」
返事をする暇もなかった。
キメラの翼が輝き、ポップは光の筋となって消えた。―――呆気ないほどの退場だった。



「賑やかな方ですねぇ」
苦笑する店主の声に、光の筋を見送っていたヒュンケルは視線を戻した。
カウンターに置かれた服を、店主は手に取り、見つめた。やおら口を開く。
「お客さん、残念ですが…この服はもう取扱いがありません。他の店でも同様でしょう」
「…そう、なのか?」
どこか店主は笑っているようだった。
「これ、風の賢者さまからのプレゼントでは?」
「! 何故それを?!」
「ウチでお売りした、最後の一着です。この前買いに来られたばかりですから、よく覚えています」
思った通りの物がやっと見つかったと、彼女はとても喜んでいたという。それを言われてヒュンケルは項垂れた。彼女がそうまでして選んでくれたものだというのに…
「直す方法は…無いだろうか?」
「ありませんでしょうな」
にべもない返事に、ヒュンケルは黙るしかない。店主は服を畳みなおすと、彼に向かって差し出した。
「正直にお話しになっては?」
破れた事を。…破れた理由を。
「っ…だが、」
言い差した彼の言葉を、店主は待たなかった。

「同じ物を買って誤魔化しても、その服じゃあないんですよ。―――この国と一緒でね」

「………!!」
息を飲む。そんなヒュンケルを丁重に店主は無視した。
「申し訳ありませんが、全部聞こえてました。出て行くタイミングが難しかったですよ、ホント」
軽い口調で、彼は笑う。どこか、痛々しいその笑み。
「……今更何を言っても、大魔道士様の言うとおり、しょうがないんでしょうな…。なくなったものは…元には戻りません。ですが―――」

「―――より善いものを作る事は出来ましょう」

宙に上げたままの手を、店主は再びヒュンケルの方に伸ばした。
「上手く繕えば、元より丈夫になります。…風の賢者様に、裁縫がお出来になるかどうかは、私は存じませんがね」
ヒュンケルの脳裏に浮かぶのは、この服の状態を見て盛大に泣いた後、縫い針を手に奮闘してくれるだろうエイミの姿。
「きっと、頑張って下さると思いますよ?」
「……ああ」
そして自分は繕われたこの服を再び着るだろう。鎖を斬るという証を背中の縫い痕に覚えながら。
押し付けられるように服を受け取った彼に、哀しそうな、けれど紛れもない笑顔が向けられる。
「大切にして下さい。…今度こそ」
「…承知した」
ヒュンケルは頷いた。深く深く。

一つの傷が、繕われた瞬間だった。


(終)



入口へ  あとがきへ