玄関先に、植木鉢が置かれた。
 植えられているのは、肉厚のロカイ。
 自分には買った覚えがないし、居候の魔族は豪快な花を好む(そもそも彼は買い物には行かない)。ならば―――買ったのはマァムだろう。

「これ、どうしたんだ?」

 何気ない会話の中で、ふとポップが購入者に尋ねると、

「肌に良いって聞くから」

 そう言って、彼女はただ微笑んだ。



 そんなやりとりがあった事すら忘れた頃、ポップが調合を終えてキッチン兼ダイニングに行くと、マァムが手をさすっていた。
 その甲が、窓からの光に照らされて微かに輝いて見える。
 ああ…ロカイを塗ってるのか………
 心の中で一人ごちて、ポップは椅子に腰掛けた。
 このところ、よくこういう光景を見る。
 ヒマさえあればロカイの葉を積んで液を手に塗るマァムの姿に、最初ポップはかなり不安になったものだ。
 観葉植物の他のロカイとは違い、木立ロカイは薬用に用いられるものだ。錬金釜での調合に使った事はまだないが、民間でも『医者いらずの草』として昔から当たり前のように使われている。
 だが、頻繁に塗るというのは………
 火傷でもしたのか? と聞けば、違うらしい。
 怪我したの? と問えば、笑いながら彼女はひらひらと手を振った。

 ―――何でもないのよ。単に肌に良いから塗ってるだけ。気にしないで。

 健康そのものの笑顔で、そのように言われては、引き下がるしかなかった。
 だが、気にしないでと言われれば、かえって気にするのが人間というものだ―――特に恋人に関する事とあっては。

 …確かにロカイは肌に良いけどな………

 しっとりと光る手を、マァムはただ見つめている。ポップが自分を見ている事すら気付かずに。

 …何でもないなら、どうしてお前はそんな浮かない顔してるんだよ、マァム?





「私に聞かれても…一緒に住んでるポップ君のほうがマァムについては詳しいでしょう?」
「…まぁ、そうなんだけどな」
 パプニカの大図書館に行った際、ポップはレオナの所に顔を出した。その際、気がかりだったマァムの様子について相談を持ちかけたのだ。男の自分よりも、仲の良い女友達のほうがわかる事もあるだろうと思って。
 だが、レオナはわからないと言う。
「本当に大したことないんじゃない? 怪我をしたわけでもないんだし、気にしすぎじゃないかしら?」
「そう…かな」
 頭ではレオナの意見に頷けても、目の前にチラつくのはマァムの表情。
 そもそも、自分は女ではないから女性の機微には疎い。疎いが、手にロカイを塗るとして、それで眉を寄せて真剣な表情になるものだろうか? 鏡を見つめて黛や紅を刷くというのなら、まだわかるのだが。
「大体さ、おかしいだろ?」

 あのマァムが急に肌の状態を気にするなんて!

 さすがに女王の私室で話しているため声は大きくなかったが、断言したその台詞にレオナが噴き出した。
「ちょ…ポップ君……言いすぎよぉ!」
 だが否定はしない。
 そうだ。確かにマァムがお洒落に気を遣うことなどついぞなかった事だ。女だけの場所なら(もしかしたら異性がいたとしても)、服の裾を動きやすいという理由で腰まで上げてしまうような無頓着な娘なのだ。それが急に肌の手入れなど、ポップが奇妙に思うのも当然だった。
「でも…でもね、ポップ君、それっていい傾向なんじゃないの? あの娘、今迄がおかしかったのよ。自分の魅力に全然関心がないもんだから、貴方も苦労したでしょ? お肌の手入れはお洒落の第一歩なんだから……」
 笑いの余波に涙を浮かべながらレオナは言ったが、ポップは横目で彼女を見ただけだった。
「……手だけを気にしてるから、変なんだろ…」
 ぽつりと言われ、若い女王は笑うのをやめた。普段、飄々としている青年が、ここまで真剣な表情になるのは、ここ最近では余りなかったことだから。

 …それだけマァムに惚れてるって事でしょうけどね。

 ふと、かの勇者はいつまで待てばこんな態度を取ってくれるだろうか? などという切なすぎる疑問がレオナの脳裏に浮かんだが、強引に打ち消した。今は自分の恋愛が議題ではない。

「なぁ姫さん、本当にわからねぇか? 何かほんの少しでもヒントになるような事を、この前あいつと話したりしなかったか?」
 縋るような黒い瞳に見つめられて、レオナは戸惑う。
 実は、レオナは事情を知っていた。マァムに肌のことで相談され、最終的に王宮でもよく使うロカイを勧めてみたのはレオナ自身だったからだ。
 そして、その事をポップに漏らすなと、マァムに硬く口止めされていた。だが……

 ここまで心配してるんだもの……。ポップ君が可哀相だわね………

「姫さん?」
「…私が喋ったって、マァムには言わないでね?」



「レオナは、美容液には詳しい?」
「……え?」

 それは実に唐突な問いだった。レオナは目を瞬いた。問いの内容も意外だが、それを発した人物がマァムだという点がさらに意外だったからだ。

「どうしたのよ、急に?」
「…ちょっと、手がガサつくかなぁって思って」

 驚いたというものではなかった。世の女性に美容・お洒落という必須科目があるとすれば、確実に落第点を取るはずの子が、急に手指の手入れをしようなどとは!!
 その思いが如実に顔に出たのだろう。困ったようにマァムは微笑んでいた。

「レオナなら、そういう『綺麗になるもの』をよく知ってるでしょう? 私でも使えるようなものって、何かないかしら?」

 マァムの表情に引っ掛かりを覚えつつ、レオナは話に乗ってみる。
「…じゃあ、私が使っているのはどうかしら? 茉莉花水ので良いのがあるから」
 レオナはマリンを呼び、美容液の種類や効能、扱っている店の名前などをリストアップしてもらう。……本当はプレゼントしたいのだが、レオナにその自由はない。女王の顔色を整えるのは女官の仕事だ。彼女らの給料から使用する道具まで、それらは無論のこと国庫から出される公費でまかなわれるものであり、公費とはイコール税金なのだから。「ごめんね」とその事を言えば、「とんでもない!」とマァムは勢いよく首を振った。

 受け取ったリストを彼女は真剣な眼差しで読んでいて―――ふと、顔を上げる。

「ちなみに…こういうのって幾らくらいなの?」
「そうですね…。大体、200Gが最低ラインです」
 マリンの簡潔な答えに、マァムはぽかんと口を開けた。
「そ…そんなにするんですか?!」
「ええ。使うなら良いものを使わないと。安物は肌に悪い時もありますから」
 もっともなマリンの答えに、マァムは「はぁ…」と肩を落とした。
 ―――そんな様子を見つめていたレオナが、焦れたように立ち上がった。びくっとなるマァムに詰め寄る。
「マァム」
「な、なぁに?」

「とにかく理由を話しなさいな。美容液云々はそれからだわ」

 強く言い切ると、マァムは逸らしかけた目を再びレオナに戻した。揺れる栗色の瞳が哀しそうだと見えたのは、自分の思い込みなどではないことを、レオナは理性によらず知っていた。


 ―――貴女が聖拳女マァム? アバンの使徒のお一人の?
 ―――あの大魔道士さまの想い人ですもの。どんなお美しい方かと思っておりましたけど…普通ですのね。
 ―――まあ! まるで農婦のようなお手ですのね。あの方とは大違いだわ。

 パプニカ主催の小規模なパーティー。広い庭の片隅で喧騒から離れて座っていたマァムの前に、現れたのは一人の姫君。彼女は豪奢な金の巻き毛をを揺らしながら、まっすぐにマァムに向かって歩いてきた。碧い瞳が強い光をたたえている。
 着慣れぬドレス姿を嗤われるのは構わない。作法だとてロモスで城仕えをするようになってからの付け焼刃だという自覚はあるから、文句を言われるのも仕方がないと思う。
 身分の高い姫なのだろう。こういった手合いに言い返して、更に状況を悪化させるのはマァムの望むところではなかった。だから苦笑を浮かべて聞き流す。
 ただ、

 ―――大魔道士さまの手を取るのはわたくし。貴女は相応しくないわ。

 ただ、それだけは。それだけは厭になるくらい耳にこびり付いて離れなかった。




「…んな事があったのか。俺があのパーティーで席外してる間に……」
「ええ……。そんな女の事なんて気にする事なんかないわよって言ったんだけど……」
 大体が、マァムは武闘家だ。世界の猛者と渡り合える彼女の手が、深窓の令嬢と同じように細く嫋やかなはずはない。そもそも、彼女や皆が身体を張って闘ったからこそ、現在の地上があるというのに。
 心身を鍛え、命懸けで闘って、そうして掴んだ未来。その事に誇りを抱きこそすれ、恥じる事など一切ない。その想いは三年前、戦場に赴いた者全てに共通している。

 だが、そんな事はマァムだってわかっているのだ。…わかっていて、なのに哀しい。誰にも害意を抱かない娘は、己に向けられた負の思念に戸惑っていた。

「それで気休めにロカイを買ってきた…ってわけか。なるほどな」
 ポップの声は低い。イラついているのがわかる。
 友人の表情を見守りながら、レオナは冷めてしまったお茶を飲んだ。
 ねぇ、と彼女は身を乗り出す。

「その姫、ルドマって言うの。ルドマ=ブオム。心当たり、ない?」

 今度は自分が思い出す番になり、ポップは腕を組んだ。眉間にシワがよっている。
「ルドマって名前には…覚えがねぇんだけどさ、ひょっとして、その姫は伯爵家の娘なのか?」
「ええ。サラボ川の一帯を治めてるブオム伯爵家の令嬢よ。…知ってるのね?」
 その問いに、ポップは「あぁ」と頷いた。
「サラボ川の辺りなら、前に薬草の買い付けで行った事があるよ。…あの時か」



 その日は町でひと騒動があった。突如、馬車の馬が暴れだし、御者を振り落として走り出した…らしい。
 なぜ「らしい」のかと言えば、ポップが見たのは、既に御者台が空となっている馬車が、大通りを爆走している姿だったからだ。しかも悲鳴が聞こえる。人が中に取り残されていた。
 放ってはおけない。
 飛翔呪文を唱え、御者台に移動する。だが、こうも馬が暴れていては、座って御する事は難しい。浮かんだまま手綱を握り、馬車のスピードに飛翔速度を合わせると、彼は複数の呪文を矢継ぎ早に詠唱した。
"スカラ" "ボミオス" "ラリホー"
 守護の光が青白く馬車を包み込んだあと、暴れていた馬が徐々に速度を落としてゆく。ついにその暴走は止まり、今までの猛りが嘘だったかのように馬はくたりと眠りについた。初めにかけられたスカラの効果で、かなりの負荷がかかったにも関わらず、馬車は無傷。野次馬からどよめきと歓声が起こる。「伯爵様の馬車だ!!」誰かが叫んだ。
「大丈夫ですか?」
 豪華な装飾が施されたドアを開け、乗っていた人物に声をかける。
 伸べられたポップの手を震えながら取ったのは、金の巻き毛と碧い瞳の姫だった。



「情緒溢れるシーンね……」
 レオナの言葉にポップは頭を抱えた。
「………あれがルドマ姫か。俺、騒ぎになるのイヤだから、すぐに移動したのに…」
 名乗る事すらしなかったのに、とポップはぼやくが、レオナにしてみれば、現場を見た人間は誰でも『大魔道士ポップ』を思い起こすに違いない。そんな状況でそれだけの呪文を自在に操る人間など、限られているのだから。

「とにかく、これで繋がったわね。…レディ・ルドマは美人で有名よ。『サラボの華』って言われてるわ。あと、高飛車でも有名」
「…姫さん、なんか声が楽しそうだぜ?」
「まさか。ポップ君とマァムの困難を楽しむわけないでしょう。上手く解決するって信じてるから、それを想像して喜んでるのよ」
 そういうのは真面目に応援してもらえたほうが嬉しいんだが―――心の中でツッコミながら、ポップが口にしたのは別の事だった。

「伯爵令嬢…か。厄介だな……」

 日頃の軽い言動とは裏腹に、ポップは恋愛については真面目で一途な性質である。もちろん一般的な18歳の男子として、女の子に好かれるというのはありがたいし、嫌な気分ではないのだが、貴族的な遊戯感覚など持ち合わせていない。
 そもそも身分の高い人間というものは、おしなべてプライドも高いものだ。しかも伯爵といえば、貴族の中でも上位である。そんな身分の姫君が、わざわざマァムに宣戦布告をしたというのなら、色々と対策を考えねばならないだろう。
 ふうと溜息をつき、彼は己の手を見た。
「…手……か」
 頭を一つ振り、肩をすくめる。
「ま…なんとかするしかないか。姫さん、そのルドマ姫って今度の園遊会には来るのか?」
「ええ。参加するって書いてあったわ」
「そっか。じゃあ…ひとつ頼みがあるんだ」
にっと笑って、ポップはレオナに何事かを依頼した。





 ランプに火が点され、楽団の演奏が軽やかに始まった。
 パプニカ王宮の広い中庭。そこに設けられた園遊会場には、いまや国内外の貴顕がぞくぞくと訪れてきている。その中にマァムは一人でいた。
 いつもならばポップと連名で送られてくる招待状が、今回は個別に届いたからだ。

 ―――別々に来いって事じゃねえか? その方が、お互い時間を自由に使えるし、姫さんが気ぃ利かせてくれたんだろう。

 ポップの言葉になるほどと納得したものの、いざ一人でいると、案の定、実に居心地が悪い。ロモスのパーティーならばともかく、顔馴染みの人はレオナくらいしかいないが、彼女は会の主人として忙しい身 なので、マァム一人を相手にすることなど論外だ。丁度いまも、彼女はどこぞのお大尽に挨拶を受けている。
 しかも今回のマァムの服装は、どうしても目立ってしまう。いつもならドレスを借りるのだが、今日は招待状にレオナの字で別書きがあり、ロモスで仕立てられた武闘家としての礼装を着てきたのだ。

 戦闘用ならば膝までの長さだが、式典用のそれは踝までの丈がある。女性らしく、落ち着いた花柄の刺繍が銀糸で施されている他は、無駄な装飾を一切排除した赤い道着。しかしそれは逆に、マァムの均整の取れた身体のラインを見事にアピールしていた。
 女らしい円やかさと、すらりと伸びた手。長い脚がスリットからちらちらと見える様は、男たちの視線を釘付けにする。

 幾人もの若い独身の貴族たちが、話しかけてくる。いつもならば横にポップがいるが、今日は遠慮する必要はないと判断されたのだろう。飲み物や菓子を先を争うように持って来られるわ、艶めいた話を振られるわで、マァムは内心溜息をつきたくなった。
 書類の束を抱えて、「少し遅くなるかもしれねぇ」と情けなく笑ったポップの顔が、変に懐かしく思い出された。まだ数時間前だというのに、もう何日も会っていないかのような気分だ。…だが、

「なに、しけた顔してるんだよ?」

 その声が聞こえた途端、群がっていた貴族達がそそくさと退散した。
 まるで、自分のピンチを読んだかのように、ポップが目の前に立っていた。いつも、こういう場に着てくる夜会服ではなく、魔法使いと一目でわかる姿をしている。―――しかも夏用の。
「ポップ」
「遅くなってごめん。今日は暑いだろ? 夏用の魔道士の服は良いのを持ってないからさ、姫さんに頼んで衣裳部屋で借りてきたんだよ」
 お陰でいいのが見つかったぜ、と彼は笑う。確かに涼しそうだ。大戦時はほとんど旅人の服で通していた彼のこと。半袖の法衣などはほとんど無く、今回の物は見るのも初めてだった。
「手袋もしないの?」
「ん? まぁいいだろ。暑いしさ。それより何か飲もうぜ」
 随分と咽喉が渇いていたようだ。先程の連中が置いていったワインやカクテルを、ポップはいつもより早いペースで飲んでいった。美味しそうな彼の表情に、マァムもようやく笑みを浮かべる。
「酔っちゃうわよ?」
「いいよ、別に。それが目的なんだし」
「え?」
 そんな会話を交わした時だった。会場の入口がざわめいた。

 レディ・ルドマがいた。

 なるほど、確かに彼女は美しかった。周りにいる他家の姫君たちも美しいのだが、彼女達を圧倒するような華やかさをルドマは持っていた。豪奢な金の髪も、煌く碧い瞳も、透き通るような白い肌も、個々がその美を競っているにも関わらず、全てが調和して当然のように一個の『美』を表現していた。
   サラボの華よ
   見て。ルドマ=ブオムだわ
   相変わらずお美しいな
   伯爵も完全に快復したらしいしな…社交界に復帰か
 小声で交わされる噂。すでに以前から彼女は有名人だったのだろう。数多の男女が、その元に集う。
 輪の中心でレディ・ルドマはゆっくりと会場を見渡していた。その視線がマァムの面を鋭く薙ぎ、横で緩くなる。……甘やかな視線は、他の誰でもない、ポップに据えられていた。

 ―――大魔道士さまの手を取るのはわたくし。貴女は相応しくないわ。

 思わずマァムは手をさすった。ロカイは怪我には効くが、やはり保湿云々の効果は気休めでしかなかった。武道着姿の今日は、手袋すらしていない。硬く、荒れたその手を。
「マァム? どうした?」
 ポップに呼ばれ、慌てて「なんでもないわ」と笑みを作ったが。

「大魔道士さま!」

 作ったばかりの笑みが凍りつくのを彼女は感じた。ルドマがポップの元に歩いてくる。彼が丁寧な礼をルドマに施すのを見て、全身が悪寒に襲われた。
「お久し振りです、ブオム伯爵令嬢」
「まぁ、そんな畏まらないで下さいませ。大魔道士さまはわたくしの恩人でいらっしゃるのに」
 ころころと鈴を転がしたような声で、レディ・ルドマは礼を返す。口元を覆うその手は、以前と変わらず、肌理細やかで美しい。
「ルドマ姫、飲み物などいかがですか?」
 ポップは普段どおりだった。多少、貴人向けの(本人曰く「営業用の」)言葉使いになっている以外、特に変化はなかった。ルドマにカクテルを渡し、自らはテキーラを咽喉に流し込みながら、サラボの町での事を楽しそうに話している。
 本来感じる必要のない、疎外感とでも言うべき思いにマァムがわずかに俯いた時だった。

 曲調が変わった。
 幾人かの男女が、会話の輪を抜けてペアを組み、踊り始める。―――ダンスの開始だ。

 ちらりとマァムを見たルドマの口元に、意地の悪そうな笑みが一瞬浮かぶ。マァムの背筋を、冷たい汗が流れ落ちた。
「大魔道士さま、今日はわたくしと踊って頂けませんか?」
 星月夜の晴れ渡った空に、遠雷を聞いた気分で、マァムは立ち尽くした。


 ―――わたくしと踊って頂けませんか?
 ポップは、空になったグラスをテーブルに置いた。
 碧い瞳が彼を熱く見つめている。拒絶されることなど、はなから考えていないのだろう。艶やかな笑みに込められた意味は、自信というよりは、傲慢さだった。
 同時に、背後にも自分を見つめている目があることを、ポップは知っていた。
 表ではいつも通りの笑みを作り、彼はマァムに振り向いた。
「マァム…」
「………。」
 返事はなかった。不安げに茶色の瞳が揺れ、今回の騒ぎの発端である彼女の手は、きつく握り締められている。

 ―――あの子は…マァムは、優しいわ。真実優しいから、悪意を向けられるなんて事には慣れてない。私達なら喧嘩でもなんでもして解決するでしょうけどね……

 レオナが言っていた言葉を思い出す。…困っているのならば相談してくれれば良いのにとも思うが、自分に内緒にしたという事は、それだけマァムが『己の』問題としてくれたのだと、自惚れても良いだろうか?
 安心させるために微苦笑を残して、「光栄です、姫君」とポップはルドマに向き直った。
「俺なんかで宜しければ、いくらでも」
 にこにこと彼は笑いかける。



「―――ですが、本当に宜しいのですか?」



「ひっ!」
 小さな悲鳴が上がった。
 差し出されたポップの手に、自らのそれを重ねようとしていたルドマの動きが止まる。刑の執行のようにその光景を見ていたマァムにも、それは伝わった。
「だ、大魔道士さま? そのお手は?」
 震えるレディ・ルドマ。そんな彼女に、ポップはほてった顔で「ああ」と笑う。
 彼が差し伸べた手は、赤く、様々な傷が浮き出していた。
「昔の怪我です。普段は見えないんですが、酒に酔うと血の巡りがよくなるからか、浮き出てくるんですよ」
 それは無数の切り傷や裂傷、そして明らかに重度の火傷と思われる痕だった。右手だけではない、両の腕がアルコールの力を借りて赤く染まっている。とりわけ酷いのは、ケロイドだ。まるで両腕を炎の中に突っ込んでいたかのように、広範囲にわたって炎の舌が舐めた痕がぼこぼこと盛り上がっていた。
「戦場ではそんなに丁寧に治療は出来ませんから、表面は治っても深いところで痕が残るんです」
 ポップは、何でもないことのようにサラリと笑う。普段の飄々とした振る舞いに、皆が思わず忘れがちになる事実がそこにはあった。彼は、戦場を潜り抜けてきた勇者の一人なのだ。
「ルドマ姫?」
 ずい、と再び彼は右手を差し出した。にこやかに笑うその表情。…だが、瞳は酒精の欠片すら見つからぬほど強く、彼女を見据えていた。
 傷跡が、まるで意思を持った生物であるかのようにビクンと脈打つのを見て、ルドマは目を背けた。
「わ、わたくし、先約を思い出しましたわ。失礼いたします!」



 取り巻きと供に脱兎の如く去って行った伯爵令嬢の背中を見ながら、「やれやれ」と彼が呟いた。
「ポップ…」
 マァムは彼を呼んだ。
「はは…振られちまったな」
 ちっとも残念そうではない顔で、ポップは頭をかいた。むしろすっきりした笑顔になっている。
「…良かったの?」
「…何が?」
「あの人…凄く美人だったわ」
「うん」
「お金持ちだし、地位もあるし…」
「うん」
「それに、貴方の事を…好きだったわ……」
 恐る恐る…そう、本当に恐る恐る尋ねると、ポップは「かもな」と頷いた。

「でも俺は、彼女みたいな綺麗なだけの手よりは、強くて逞しい、働き者の手の方が、ずっと好きだな」

「…!」
 真っ赤になり、口をパクつかせるマァムを、ポップは面白そうに見ていた。

 不意に静寂が訪れる。一曲を踊り終わった恋人たちが、温かな拍手に迎えられる。つかの間の休息。あと少しもすれば次の曲が始まるだろう。

「………お前は?」
静かな笑みのまま、彼は想い人に尋ねた。
「え?」
「マァムは、こんな手でもいいの?」

 差し出された手―――赤く大量の傷痕が脈打つポップの手を、マァムは見つめ…そして微笑った。
 とても晴れ晴れとした、笑顔で。

「ええ。もちろんよ…!」




 躊躇う事なく重ねられた武闘家の手に、大魔道士は口付けた。



(終)



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