玻璃のような
そう言えば…と、薄桃色の髪を揺らして、恋人がこちらを振り向いた。
「いつお城に行ったの?」
「え?」
ポップは書き物を中断して、質問者を見る。彼女が示した視線の先には、先日ひと騒動あった問題の薬が、装い新たに小瓶に詰められていた。
「悪夢を見る、なんて作用は被験者がいないとわからないわ」
純粋な質問だったのかもしれないが、言いながら、最近の日程を思い描いたのだろう。マァムの形のいい眉根が微かに寄っている。
薬の作成からこっち、薬師ギルドに連絡を取るだの、国王の許可をもらって囚人達に会うだのという時間はなかった。バーンの騒ぎがあって、もうその事はうやむやに済まそうと思っていたのに。
「何だよ、急に? そんなに俺は信用ねえの?」
笑って、問いに問いで返す。いつもなら、それで話の流れは自分に移るのだが、今日は勝手が違った。
「……試したのね?」
「う…」
悲しそうなその目―――自分の事を心から気にかけてくれる瞳にポップは弱い。
腰に手をあて、きゅっと睨む目。
姉が弟をたしなめる様なその態度は、以前は時折ポップを 『ちっぽけだがしっかり有る男としての矜持』 を以って悩ませたが、恋人として付き合いだしてからは割り切る事が出来るようになってきた。
他者を思いやる心はマァムの本質であり美徳なのだ。そもそも彼女の前で、情けなく頼りない面を見せてしまう自分の甘えがある限り、この弟扱いは変わらない。
ポップは降参の態で手をあげる。
「試した。ごめん」
「ポップ…!」
傷ついた光が彼女の双眸に走るのが見えた。当然の叱責に肩をすくめながら、「ごめん」とポップは再度謝る。
「今回のは不可抗力なんだ。砕いてる時に…粉末にしてる時にうっかり吸い込んじまって……ホントにすまねぇ」
「……本当に?」
「本当だって」
嘘はついていない。と言うか、この件に関しては嘘をつきたくない。
もう二度と己の身体で実験しないと約束したのだ。
自分の事でマァムが泣いてくれるのは、歪んだ喜びを伴うけれど、自分の所為で泣かせたいなどとは決して思わない。
「…………なら、いいわ。…よくないけど」
マァムは静かに息を吐き出した。対面の椅子に座る。
「…大丈夫だったの?」
ポップの空いている左手をそっと包み込むようにして、彼女は尋ねた。
そのあたたかな手が震えているのは、ひとえにポップへの心配のためだ。愛しさと感謝を込めて彼は右手を重ねると、いつも通りの笑顔を作る。
「大丈夫だって! 考えてみろよ。もし俺がバーンみたいに酷い状態だったら、すぐにわかるだろ?」
俺は顔に出やすいんだからさ。
カラカラと笑って言い放つ。いつも通りの笑顔といつも以上の明るい声で。
「そう……ね。粉末なら、そんなに長く眠らないもんね」
「そうそう。量もホントにちょっとだったしよ、心配いらねーって」
気をつけてよねと、軽く怒った口調を作ったあと、マァムはようやく微笑んだ。
言えるわけねーよな………。
書類に戻ったポップは心の中で一人ごちる。
夢を見るというのは、実は眠っている時間の長さは余り関係ない。
一般的には、長い眠りが長い夢を誘うと考えられているが、短い午睡の間にでも長い夢を、しかも複数回見る場合すらある事から、先人の中には研究した者もいるし、書物も何冊か出されている。ポップは師の遺した蔵書の中から、その類を読んで学んでいた。
そんな知識をマァムに披露していなくて良かったと、ポップは心底から思う。もし話していれば、いくら笑顔を作っても彼女は心配するだろうから。
悪夢の実の粉末を誤って吸い込んだ際、ポップはしっかり見たのだ―――これ以上はないほど悪い夢を。
地上の人々すべてがそれを望むのなら……オレは……
パキンと小さく硬い音がした。
「ポップ?」
「あ…や、何でもねぇ」
ペン先が折れていた。書類には、活かされる事のなかったインクが黒い染みを作り、穴まで空いている。
いくらなんでもこんな用紙を提出するわけにはいかない。舌打ちをして紙を丸めると、マァムが気遣わしげにこちらを見つめていた。
「……本当に?」
「おう。ちょっと考え事しただけだって」
新しい紙とペンを引き出しながら、ひらひらと手を振る。
嘘ではない。何でもないのだから。夢の内容を考えていただけだ。それこそ瞬きする程の一瞬の時間の夢。しかし心に刻み込まれるに充分な、凝縮された悪夢。
けれど、大丈夫だ。
そう。何でもない。本当に何でもない事だ。本当に大丈夫。
思うに、偶然作ってしまったあの実は、悪夢を見せるというよりも 『自分が望まない事柄を見せる』 と言った方が正しいのかもしれない。
それはそれで便利と言えるだろう。皆、自分自身の心など存外わかっていないものだから。
少なくとも自分は―――わかっていなかった。
あの日、自分が見た夢は、確かに半分は想像していた事だ。
親友…ダイに待ち受ける数多の未来の、最悪の形。彼の両親がそうであったように、繰り返されようとする悲劇。世界規模の迫害。
ダイが地上を追われるという事になどなれば、自分はどうするだろう。そんな事も何度か考えた。
3年前のあの日のように、どこまでも共にと願うだろうか。それとも、地上に残り、何とか人々を説き伏せようとするだろうか。
大体がその二択に辿りついて、更に色々と思索を深めたけれど。
夢に見た自分は、そのいずれでもなかった。
自分は許さない。あいつが守った世界で、あいつが守った存在が、あいつへの感謝を忘れてしまう事を。
弱さを笠にきて、愚かである事を免罪符にして、醜悪な正義を振りかざす事を、決して許すことは出来ない。
もしも、人間がその道を選ぶのなら…もしも、それが人間だと言うのなら、その時、自分は彼らを………
新しい紙に、新しいペンで文字を走らせながら、ポップは知らず薄い笑みを浮かべていた。
おろしたての細いペン先は、まるで針のようだ。鋭く、もし刺さればとても痛いだろう。まるで、明日この書類を提出する貴族のお偉方の言葉のように。
けれど、大丈夫だ。だって俺は―――
世界は時折、牙を向く。
玻璃のような美しさと輝きの中に、針のような痛みを潜ませて。
―――それでもいいって思ってんだから。
「ポップ、またペンを折る気?」
ハッとして顔を上げると、マァムが困ったような笑みを浮かべている。
「…お茶でも淹れるわね。そうそう、昨日あのお婆さんがくれたクッキーがあるの。一緒に食べましょう」
さり気なく、ペンを持つ手を彼女の手が包み込んだ。それは先程と変わらずに、優しさに溢れてあたたかく、針のように研ぎ澄まされたポップの心を和らぎで覆っていく。
「……ああ」
ポップはペンを置いた。腰掛けたまま伸びをすれば、そんなに長時間座っていただろうか、身体の節々が固まっていた事に気付く。
ふと、昼の眩さに白っぽく見える室内を見回した。
ああ…そうだった………
テーブル端の花瓶に挿してある小さな花は、近くの村の子が持ってきてくれた。
それに、昨日の婆さんからクッキーをもらったのだと言われれば、マァムがいま淹れようとしてくれているお茶は、先日の患者が、薬の礼と言って置いていってくれたものだ。
壁の刺繍は、道具屋の奥さんが俺たち二人にってプレゼントしてくれたんだっけ。
奥の部屋に置かれてる木彫りの剣と、可愛いぬいぐるみは、今度パプニカに行った時にダイと姫さんに渡してやらなきゃな……。子供らと約束したんだった…………
目を伏せ、ポップはゆるゆると頭を振った。
椅子に背を預けて仰向けになる。その目蓋を腕で覆った彼が吐いた息は、深く、長かった。
「………ひと息つきましょう…ポップ」
差し出されたカップを受け取り、彼は微笑む。
「ありがとう」
それは、微かに痛みが混じりつつも。
とりあえず、まだ大丈夫。まだ世界は玻璃のように輝いている―――限りなく脆くも、とても美しく。
(終)