名前



たとえば、母や父。たとえば、村のみんな。

たとえば、アバン先生。たとえば、旅の仲間たち。




たとえば………





「聞いたわよ」

唐突な切り出しに、マァムはきょとんとした。

「聞いたって…何を?」



「この前、土砂災害があった村。たまたま通りかかった二人連れが怪我人をたちどころに治してくれたんですって。
しかもその二人は、何のお礼も受け取らずに立ち去ったそうよ。後から特徴を聞けば、きっとそれは大魔道士様と聖拳女様だったって。大の噂よ?」

にこにこしながら、レオナは手ずから紅茶を注いでいく。
ほんわりした柔らかな湯気が、テーブルの周りをあたため、クッキーの香がそれに乗った。

「噂になってるの?」
「違うわ。『大の』噂になってるのよ」

楽しそうに目を輝かせる年下の親友に、マァムは小さく溜息をつく。

「騒ぎにならないように黙って村を出たのに、バレちゃったのね」

そりゃあね。とクッキーをつまみながらレオナが笑う。

「何人もいる重症の怪我人を、あっという間に治したら噂にもなるわよ。それに男女の二人連れでしょ? みんなピンと来るわ」

苦笑する。自分とポップが「そういう仲」で、共に旅をしているというのは既に有名な事らしい。
もっとも、この目の前の若き女王陛下も、勇者との仲を全世界に知られているのだから、仕方がないのかもしれないが。

「照れくさいのはわかるけど、お礼はともかく、名乗ってあげたらいいんじゃない? 世に名高い勇者の仲間が立ち寄った村って事で、有り難がる人だっているでしょうに」

「ええ………そうかもしれないわね」
そっと紅茶を口に含む。




   聖女さま! 聖女マァムさま! お助け下さい!!

   おお、なんと神々しい…! さすが勇者のパーティーのお一人だ。

   聖拳女さまの御技、卑小な私めに、どうかお見せ下さいませ!





名乗りたくない、というのが本音だった。

自分も彼も、当然の事をしただけだ。強い力を持つなら、持たない者よりも出来る事は多く、責任も比例するのは当たり前なのだと思う。

けれど―――。



ふと目を上げると、レオナの真剣な目と視線が交差した。先程までの、噂話を楽しむ少女の目ではない。

「それで、被害はどれぐらい?」

マァムは親友の言葉に、清清しさを感じる。
統治者の責任というものを、この若い女王は決しておろそかにしない。わかっていた事だけれど、こうしてその器を再発見するのは感動を伴った嬉しさをおぼえるのだ。

「家や畠に被害はほとんどないわ。怪我をしたのは若い男の人ばかりで…石工のための切り出しに、山に行っていた人が巻き込まれたの。
大丈夫。死者は出ていないわ」

レオナが安堵の息を吐いた。

「ありがとう。正式に被害が報告されれば、手続きに則って予算を組むけど、先に状態を知っておくのと、そうでないのとでは全然違うわ。
何より、誰も死んでないのね。良かった…」


本当にありがとう、マァム。


親友の笑顔に、マァムも微笑む。
向けられる感謝が、ただ、友からの真っ直ぐなそれである事が嬉しくて。




軽いノックがあり、レオナが入室を許可する。入ってきたのはパプニカ三賢者の一人、アポロ。

「ご休憩中申し訳ありません、陛下。次の会議までにこちらの書類にお目を通して頂きたいのですが」
「わかったわ」

頭を下げたあとに気安い笑顔をひとつ残して、「失礼致しました」と彼は部屋を去った。
書類を受け取った少女は、半ばは王の威厳と言うべき空気をまといつつも、その紙束をデスクに置いてお茶に戻った。
「書類を読まなくてもいいの?」
「いいの。次の会議までまだ時間もあるわ。友達とのお茶くらいしっかり楽しまなきゃ。」


四六時中、国王陛下でなんていられないわよ。


言い放つ親友の笑顔が眩しい。
そうだ、と今更ながらにマァムは思い至った。自分より年若いこの少女は、生まれた時からずっとこの生活なのだ。王の娘として生まれ落ちた時から、家族以外の者に跪かれ、崇められ、『姫』・『王女』と呼ばれ続けてきたのだ。

名前を呼ばれない。その事を、彼女はどう受け止めてきたのだろう。

「…どうしたのよ、難しい顔しちゃって」
「うん…その……」




「もう、慣れたわ。というかそれが普通ね」
悩みというのとは少し違う、けれどここしばらくの心のしこりとなっていた事を話せば、レオナの答えは至極あっさりしていた。


「この立場にいると、色んな人に会うわ。時には私が小娘だからって舐めてかかってくる人だっている。膝を折って『陛下にはご機嫌麗しく』なんて言ってくるけど、下げた頭は嘲笑を隠すためかも知れないわね」

「でも、大多数の人たちは尊敬の念を込めて『陛下』って呼んでくれてる。わかるの。勿論、その尊敬は私が責務を果たさなければ、決して込めてもらえるものではないわ」

レオナは微苦笑を浮かべて言い切る―――

恵まれた暮らしをさせてもらえるのは、その分そうでない者よりも重い責任を負っているからだ。故に彼らは称号で自分を呼ぶ。そこに込められているのは、『期待』であり、呼ばれるたびに託されるものがある。

―――だからこそ頑張れる、と。

マァムは頷いた。
レオナの言葉は、すとんと心に落ちた。確かに『聖拳女さま』などと呼ばれる時には、何らかの期待が込められている。レオナを女王という立場と切り離せないように、自分も武闘家という事を切り離す事など出来ない。
同様に、込められた期待に応えたいと思うのは、聖拳女であろうがただのマァムであろうと関係ない―――そういうことなのだ。

「考えすぎね、私は」
「そうかもね」

くすくすと笑うレオナに、ありがとねと苦笑して、マァムは辞去を告げた。
もうそろそろ聞いていたレオナの休憩時間が終わる頃だし、一緒に城に来たポップの事も気にかかる。図書館を訪れた彼は、本を見つけたらすぐに合流すると言っていたのに、結局現れなかった。

「ポップ君に宜しくね。それと、あんまり考えすぎちゃ駄目よ」
「ええ。ありがとう、レオナ。…気にしないことにするわ。名前なんて個人の問題だもの。あんまり大切な事じゃないのかもね」

それは、なんとか折り合いをつけて導き出したマァムなりの答えだった。称号で呼ばれようと、自分は自分なのだからと。
けれど、親友は呆れた顔をして首を振った。綺麗な金髪をかしかしと掻き、「何言ってんのよ!」と肩を落とす。




「本当に何言ってんのよ!! 名前は大切よ、何よりも! だって――――――」






























たとえば、母や父。たとえば、村のみんな。

たとえば、アバン先生。たとえば、旅の仲間たち。

たとえば………



「ポップ」

中庭で本を読んでいる青年に声をかける。

「…よお。お茶は美味かったか?」
少しくたびれた感じで、彼は顔を上げた。

「もちろん。楽しかったわよ。貴方も来れば良かったのに。…本は見つかった?」

青年はうなずいた。読んでいた本を大切そうに閉じ、袋に入れて立ち上がる。

「参加したかったんだけどさ、司書のおっさんが必死に探してくれたもんでな。流石に頼んだ当事者が一服するわけにいかなくてよ」

お陰で見つかったぜ。
へらりと笑い、ポップは歩き出す。城の方ではなく、その足は門に向かっている。
「部屋に戻らないの?」
少しは休んだらという自分の言葉に、彼はにっと笑って見せた。

「街に行こうぜ。夜は姫さんを誘って、デルムリン島でダイと合流だ。肉とかいっぱい持って行ってやろう」

いつの間にそういう予定になったのか、とかは一切説明がない。
ただあるのは、友との再会を出来る限り楽しむつもりの子供っぽい笑顔。




………たとえば、恋人。




「つーわけで、買い物に行かねぇか、マァム?」




伸ばされた恋人の手をマァムは取る。微笑む彼女の脳裏に思い出されるのは、出来の悪い生徒を諭すかのような、親友の口調だった。




――――――だって大切でしょう? 名前を呼んでくれるその存在が。


(終)



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