空の色



「どうした? ボーっと空を見てさ?」

背後から、青年が話しかけてきた。

「別に」
つれない返事をしてやったつもりだが、彼は「そうか」と気にした風でもない。むしろ横に座ってきた。
鬱陶しい。
「何の用だ?」
「ああ。休憩。あいつは村に買い出しに行ったし、パティも勝手に草喰ってるし」
「だったらここでなくても良かろう」
「炎天下で座り込むのと、爽やかな木陰で一息つくのと、あんたならどっちを選ぶんだ?」
周りを見れば、確かに大きな樹はここぐらいだった。
心の中で舌打ちをする。この分では、横に座るなと言っても、ここが一番風があたるとでも言い出すのだろう。
「…お前は、余が怖くはないのか?」
「へ?」
青年は間の抜けた声を出す。
かつては自分を殺そうとした相手の横に、こんなにも無防備で座れるなど、驚くを通り越して呆れてしまう。

「そうだなぁ……怖く…はねえな。今なら多分俺の方が強いし。…警戒はしてっけど」
その言葉と同時に青年の中で魔法力が高まったのを感じる。…いや、あえて高めたのだろう。自分にもわかるように。
それまで無防備に見えたということは、自分がそれだけ力衰えたという事の証左だ。

フッと苦い笑いが軽い息と共に出た。

今の自分の心を表す言葉を、男は知らない。
永年かけて積み上げてきたものが全て灰となり、あと少しで達せられた目的は、もはや手の届く場所から永遠に逃げ去ってしまった。
そうしてくれた原因の一つが、いま横に座っている青年だというのに、不思議と怒りや悔しいという想いは沸いてこない。
虚しいというのが一番近いのだろうか。それすらもしっくりこないのだけれど。

サワサワと木々が鳴る。

男は額に手をやった。
指先が辿るのは、白い包帯の下に隠された深い窪み。既に血は止まり治った筈だというのに、吹く風にツキリと痛む。
喪失の痛みだ。
鬼眼の力は、あの時全て使い果たした。奇跡的に生き延びたが、もう今の自分に残っている魔力は、普通の魔族のそれに、毛が生えた程度だ。
青年の言ったことは正しい。
彼の魔法力は3年前に戦った時より強大になっている―――力を無くした今の自分などより、多分どころでなく確実に強い。

"ならば何故、自分を生かしておく?"

胸の内で渦巻く問いがある。空を見上げて考えていた事。
青年から見れば、自分は敵だ。人類全体を、地上全てを滅ぼそうとした魔王なのだ。
なにより、三年前のあの戦で青年は勝者に属し、自分は敗北者となったはずだ。
だと言うのに、自分を生かして…しかも、わざわざ治療を施して旅に同行させるなど……正気の沙汰ではないだろう。

「傷が痛むのか?」
横からの声に、男は思考を中断した。青年がわずかに眉を寄せて自分を見ている。
「…ああ。少しな」
「薬草、持って来てやるよ」
「いらぬ」
腰を上げかけたので、止める。
「…そうか。酷く痛むのなら、言えよ」
そうしてまた座りなおす。んっ…と伸びをする表情は、まだ幼さも残していて、とても自分を苦しめた勇者の片腕には見えない。
だからだろうか。先程から考えていた疑問が、言うつもりもなかったのにするりと口から零れた。



「何故、余を生かした?」



それは劇的な変化だった。
問いを耳にした途端、こちらを見るその黒い瞳が、先程までの飄々とした風とは打って変わって、真剣味を帯びる。
ああ、この顔だ。
三年前の血戦で、この小僧が自分に見せていた大魔道士の面(おもて)だ。
自分の中で、ザワリと何かが蠢いたのを感じた。久方ぶりに覚える高揚感。あの大戦で敗れるまで、常に己と共にあった感覚。
向けられる視線は、怒りであり、殺意で。
青年が拳を握り締め、震わせて―――



―――ほどいた。



いつまで待っても問いへの答えはない。
男は、あえて重ねて訊く事が出来ないでいた。それはきっと、あの瞬間、拳がほどかれる一瞬の時、青年の表情が泣き出しそうに見えたからだ。
はぐらかされた悔しさを込めて青年を睨めば、その黒い瞳が、ふいと上に向けられる。

広がるのは、雲ひとつない青空。
























「俺達があんたを見つけた日も、こんな青空だったんだ」






























「ポップー!」
村に行っていた娘が戻ってきた。青年も手を振り返し、立ち上がる。
「マァム、どうだった? いいもん買えたか?」
「ええ。とれたての野菜がたくさん売ってたの。それに、玉子をおまけしてもらったわ。そっちは?」
「おお、バッチリだぜ。この辺はハーブが生えやすい土かも知れねえな。パティも腹いっぱいになったし、いいトコだよな」
和気藹々と語る二人は、とても三年前に戦った勇者のパーティーには見えない―――ただの若い恋人同士だ。
それは、こんなうららかな陽の下にいる自分が、実は大魔王なのだと誰にも判らぬのと同じかも知れないが。

「バーン、行こうぜ。今日はオムレツだってよ。マァムのは美味ぇんだぜ!」

黒い瞳は、また飄々とした軽さをたたえている。
バーンは立ち上がった。目に入る空は、どこまでも青い。



ポップのバンダナが、はためいている。




空の色に哀しさを覚えたのは、初めてだった。



(終)



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