水木しげる年表

水木しげる先生の、大まかな歩みをまとめています。
新たなエピソードを見つけ次第、追加していきたいと思っています。

※1988年(昭和六十三年)まで※

年代 歩み
1922年
(大正十一年)
3月8日。武良亮一・武良琴江の次男、武良茂として、大阪府西成郡粉浜村(現、大阪府大阪市住吉区東粉浜三丁目)にて産声を上げる。生後1ヶ月ほどで母親に連れられて境港に戻ったため、戸籍は鳥取県西伯郡堺町(現、鳥取県境港市)。
1925年
(大正十四年)
生まれて初めて言葉を話す。※1「ネンコンババ」。
1927年
(昭和二年)
5歳になってもロレツが回らず、自分の名前『茂』を『ゲゲル』と発音。聞いていた相手がガキ大将であったため、『ゲゲ』と命名される。
「速い潮の流れに人間を置いたらどのように進むだろう」と思い、そばにいた3歳の弟、幸夫を突き飛ばす。弟は泣き叫ぶが、茂少年はその当時から哲学者であった為、助けなかった。(倖いにも近くを通った荷馬車引きの人に助けられて、弟は無事。)
家に帰り、合計六つのお灸を背中にすえられる。
ご本人曰く。「ウチに帰ったら"やいと"ですよ…熱かった…」
1929年
(昭和四年)
小学校に入学。
1935年
(昭和十年)
小学校高等科一年生の時、由木教頭先生の肝いりで行った個展が、『少年天才画家あらはる!』と毎日新聞地方版の記事になる。気をよくして『天昆童画集』や『茂鉄似顔絵集』を作ったのもこの頃。※2
小学校高等科卒業から召集まで 転々と職を変えつつ、学校で勉強。
1943年
(昭和十八年)
5月。21歳で召集される。鳥取歩兵第四〇連隊に入営。
しかし「ラッパ卒を(まったく上手く吹けないから)辞めさせてくれ」と人事係の曹長に頼む事3度に及び、「北がいいか、南がいいか」と訊かれる。寒い所よりも暖かい所が好きな事から「南です」と答え、南方行きに。
同年10月。岐阜連隊で歩兵第二二九連隊の補充要員となりラバ ウルに送られ、ニューブリテン島ラバウル湾岸のココポに到着。
11月25日。臨時歩兵第二二九連隊(後に第一次ズンゲン支隊と呼ばれる。大隊長に成瀬懿民少佐。)が編制され、ラバウルの南方約80キロの地点にあるズンゲンに警戒と情報収集のために派遣される事になるが、その第二中隊(中隊長 児玉清三中尉)二百余名の中の一兵卒として編入される。
1944年
(昭和十九年)
4月末。成瀬大隊は師団命令により、児玉第二中隊のみをズンゲンに残し引き上げる事になる。ズンゲン守備隊と命名された第二中隊のみで120キロにも及ぶ海岸線を警備する事になり、武良茂二等兵は、その中でも最前線のバイエンに分遣隊の一員として派遣される。
5月下旬。ある明け方、最後の歩哨として望遠鏡でオウムを眺めていると、オーストラリア軍斥候に指揮された土民軍に急襲され、彼1人を残し、バイエン分遣隊は奥田分遣隊長以下13名が全滅。
飲まず食わずで海軍の監視所に辿り着き、ズンゲンに戻るが、上官に「次は真っ先に死ね!」と生き残った事を責められる。
6月。上記から1ヶ月もしないうちにマラリアにかかり、高熱にうなされているところを爆撃を受け、負傷した左腕を切断される。
6月末。大発(大型発動艇)でココポの野戦病院に移送される。
復員船で帰国するまでの1年8ヶ月余 ラバウル近郊の施設を転々としつつ、マラリアの再発に悩みながら過ごす。
1946年
(昭和二十一年)
3月。ラバウルから駆逐艦雪風で復員。神奈川県浦賀に上陸。
左腕の再手術を受ける必要があり、同県の臨時東京第三陸軍病院(現、国立相模原病院)に移送される。
1946年〜1949年
(昭和二十一年〜
昭和二十四年)
手術後、デッサン教室や武蔵野美術学校(現、武蔵野美術大学)に時々通いながら、各種の職業を転々とする。
この間、傷痍軍人の団体である『新生会』に加わり折に触れて行動を共にする。
1949年
(昭和二十四年)
たまたま一泊した神戸の安宿の女主人に「この家を買わないか」ともちかけられ、二階建て十室のアパート経営者となる。
1950年
(昭和二十五年)
28歳。そのまま神戸に落ち着き、間借人だった紙芝居画家のツテで自身も紙芝居画家になる。
アパートが兵庫区水木通りにあって水木荘と名づける。
1951年
(昭和二十六年)
29歳。紙芝居業のトモエ画劇社、林画劇社を経て、紙芝居演者の名人、鈴木勝丸が経営する阪神画劇社の専属となる。その縁で加太こうじ氏と知り合う。
鈴木が水木荘の茂の事を、何度訂正しても「水木さん」と呼ぶのでそのまま「水木しげる」がペンネームとなる。
「怪談・雨夜の傘」「人と犬」「ひまわりの母」「ガラス」(前後編)などを描く。
1952年
(昭和二十七年)
30歳。西部劇映画をヒントに「拳銃王」「謎の西部王」「アパッチ断崖」やSF「キングコング」など、7作品を描く。因みに、この当時の紙芝居の原稿料は1巻(10枚)で200円だった。
1953年
(昭和二十八年)
31歳。アパート経営がうまくいかず、売り払って西宮の二階家に引っ越す。
兄、宗平と同居する事になる。金がかかるので1階は人に貸す事にした。
本格的な絵の勉強をするために神戸市立美術研究所に夜間週3回ほど通いデッサンの勉強をする。
「猫娘」「ガマ令嬢」(グロ悲劇モノ)、大作「巨人ゴジラ」等、紙芝居4作品を描く。
1954年
(昭和二十九年)
32歳。鈴木勝丸氏曰く「昔東京で伊藤正美原作の[ハカバ奇太郎]という因果物があったが、こう言う不況の時代は因果物がアタル」との言を受けて、後の鬼太郎シリーズの前身である「蛇人」「空手鬼太郎」「ガロア」等を描く。
だが「蛇人」は陰惨かつグロテスクすぎて余りウケず、その反省から「空手鬼太郎」では甥をモデル(髪型など)に鬼太郎を可愛く描き、また敵役に実在の沖縄空手の達人ギチンを登場させ、人気を博す。
初めての戦記物「南十字星」や他計7作品を描く。
1955年
(昭和三十年)
33歳。「河童の三平」(前後編)を描く。「小人横綱」が好評を得た。
後に「河童の三平」は漫画となる。「小人横綱」は貸本漫画の「金太とピン子」の原点。
1956年
(昭和三十一年)
34歳。この頃から、テレビの普及が進み、紙芝居業界の衰退がハッキリしてくる。
作品は、「チビ武蔵」(前後編)や「化烏」「人鯨」「小人横綱」(後編)などを描く。
1957年
(昭和三十二年)
35歳。紙芝居業界がほぼ壊滅。七年間いた業界と神戸から、貸本業界に活路を見出すべく単身東京へ上る。所持品は本箱と絵の道具のみであった。加太こうじ氏によって小寺国松氏が経営する下宿へ食事付きで預けられた。下宿代は、四畳半二食付きで月に7千円。
紙芝居の大御所である加太こうじ氏の手伝いや、好評だった「小人横綱」(第三部)を阪神画劇社に送って収入とするが、毎日机に向かい、漫画を描き続けても、暮らし振りは全く楽にならなかった。ちなみに、この「小人横綱」で丸6年に及ぶ紙芝居画家時代に終止符を打つ。
貸本漫画家の相沢氏に、水道橋にある兎月書房を紹介され、他の作家が描き残した原稿の加筆をし、幻の作品と言われた「赤電話」を完成させる。また、年末には2ヶ月かけて処女作である「ロケットマン」を描き上げる。
余談だが、この年に写したお見合い用写真が現存している。
1958年
(昭和三十三年)
36歳。2月に「ロケットマン」が兎月書房より発行される。原稿料は2万7千円。
他、戦記物「戦場の誓い」(兎月書房)、ギャグ漫画「飛び出せピョン助」(兎月書房)、SF「怪獣ラバン」(暁星)、怪奇作品「怪奇猫娘」(緑書房)などを描く。原稿料は2万5千円〜3万円。
1959年
(昭和三十四年)
37歳。新宿に転居。その後、調布の建売住宅を月賦で購入し、兄・宗平の一家と同居する。
責任編集と執筆をした「少年戦記の会」の戦記漫画専門誌『少年戦記』が兎月書房から刊行され好評を博す。他、「台風爆弾」「必勝雷撃隊」などを描く。
この年の4月に皇太子殿下と正田美智子さんの結婚があり、一般家庭にもテレビが普及しだした。そして、貸本業界には一気に翳りが差し始める。
1960年
(昭和三十五年)
38歳。水木しげる責任編集のSF専門誌『宇宙少年』と怪奇専門誌『妖奇伝』が兎月書房から刊行。『妖奇伝』ではついに鬼太郎が「幽霊一家」で漫画として登場。『妖奇伝2』では「墓場鬼太郎」が発表される。『宇宙少年』『妖奇伝』はいずれも思惑からはずれ、2巻で廃刊となる。
が、熱心な読者の手紙により鬼太郎モノは怪奇読切傑作集『墓場鬼太郎』の創刊で復活する。墓場鬼太郎夜話の「地獄の片道切符」「下宿屋」が掲載。3巻まで出る。
兎月書房とは原稿料不払いの為に一時絶縁し、後にガロを創刊する長井勝一社長の三洋社から「墓場鬼太郎」の完全なシリーズ続編である「鬼太郎夜話」の第1巻を出版する。
その一方で兎月書房は「墓場鬼太郎」は本の題名であるとして、竹内寛行氏に4巻以降の続編を描かせた。こちらも人気はあったようで、19巻刊行されている。
1961年
(昭和三十六年)
39歳。1月20日に鳥取で見合い。1月30日に結婚する。妻、布枝。
上京。
6月。近所の市営住宅に当選し、兄夫婦が入居する。
『鬼太郎夜話』を第4巻まで出したが、三洋社は長井勝一社長が入院し、倒産。その為、第5巻『カメ男の巻』は原稿が紛失し、幻の作品となる。
怪奇物「半幽霊」「ねずみ町三番地」、戦記物「山本元帥と連合艦隊」「壮絶!特攻」や、「決戦千早城」「残月」といった時代物が続く。
兎月書房と和解後『河童の三平』(全8巻)の刊行が開始。
当時は「水木の名前では売れない」と貸本業界の一部が勝手に「堀田弘」や「竹取いさむ」の名前で本を出すという事もあった。
1962年
(昭和三十七年)
40歳。『河童の三平』が完結した後、「此の一戦」「硫黄島の白い旗」等の戦記物を出す。また墓場鬼太郎シリーズの「怪奇一番勝負」「霧の中のジョニー」を出す。兎月書房は倒産。
12月24日。長女尚子誕生。
1963年
(昭和三十八年)
41歳。「墓の町」「怪奇鮮血の目」「墓を掘る男」「地底の足音」といった怪奇漫画を62年暮れより、曙出版から出す。また、「呪いの谷」「嘆き川」「花の流れ星」といった幻想怪奇ロマン物も発表。これら幻想怪奇物はは貸本店の受けを狙い小島剛夕風のタッチとなっている。
長井勝一氏復帰。白土三平氏を主軸とした月刊の貸本漫画誌である『忍法秘話』が青林堂から創刊される。第二巻に、「忍法無芸帳」を描く。
1964年
(昭和三十九年)
42歳。桜井昌一氏の東考社から貸本短編誌『黒のマガジン』『劇画No.1』が創刊。それらに「約束」「鉛」等の短編を発表。他には長編として「悪魔くん」(全三巻)や「猫姫様」「怪談かえり船」等の幻想怪奇ロマンを発表。
『墓場鬼太郎』のシリーズが佐藤プロから出る。「おかしな奴」「アホな男」「ボクは新入生」「ないしょの話」の連作である。
9月。青林堂がガロを創刊。「不老不死の術」「勲章」などを描き人気を博す。
1965年
(昭和四十年)
43歳。光伸書房から資本漫画「青葉の笛」「ゴマスリ二等兵」など。また、同社創刊の貸本短編誌『日の丸戦記』『怪談』でも連載。
佐藤プロから「地獄」。『劇画マガジン』に「太郎岩」などを発表。
貸本業界末期状況となる。
『ガロ』に「神変方丈記」や「イソップ漫画」「こどもの国」「新講談宮本武蔵」(これら3つははシリーズ物)を連作する。
講談社『別冊少年マガジン』にて「テレビくん」を発表。第6回講談社児童漫画賞を受賞。貸本から雑誌へと移り、ついに貧乏生活から脱出する。
1966年
(昭和四十一年)
44歳。『月刊ぼくら』1月号より「カッパの三平」を。『週間少年マガジン』の1月1日号から「悪魔くん」を、それぞれ短期連載。『週間少年マガジン』では同時に「墓場の鬼太郎」を断続的に連載。『中一コース』には「なまけの与太郎」を連載する。
妖怪画を雑誌巻頭に描く事が多くなり、『少年サンデー』では連載「ふしぎなふしぎな話」が始まる。
この頃からプロダクション制をとる。アシスタントの中に、つげ義春・池上遼一など。
コダマプレス社より、初の新書単行本である「忍法屁話」「墓場の鬼太郎」が、東考社からは「夜の草笛」「つぼ」「水木しげる傑作選」(全五巻)、朝日ソノラマ社より「日本奇人伝」「猫又」がそれぞれ刊行される。
実写版「悪魔くん」が、10月6日よりテレビ放映開始。
12月24日。次女悦子誕生。
1967年
(昭和四十二年)
45歳。『ガロ』6月号より、貸本時代のリメイクとなる「鬼太郎夜話」の連載が開始。
『週間少年マガジン』に連載されていた「墓場の鬼太郎」が、11月12日号よりアニメ化に伴い「ゲゲゲの鬼太郎」に改題されて新連載となる。
朝日ソノラマ社から「怪奇死人帳」「死者の招き」、講談社から「墓場の鬼太郎」、東考社から「古墳大秘記」を刊行。
駄菓子屋向けの商品「夜光ゲゲゲの鬼太郎」や、水木プロ書き下ろしイラスト入りの五円ブロマイドが発売。
キングレコードが『少年マガジン』連載の10作品を選出し、各漫画家に作詞を依頼。LPレコード「少年マガジン大行進」を製作。この時、熊倉一雄歌う「墓場の鬼太郎」が、アニメ化の際にも主題歌となった。
1968年
(昭和四十三年)
46歳。1月3日より、アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の放映開始。
『たのしい幼稚園』で鬼太郎の連載が始まる。
『少年キング』に大映の「妖怪百物語」のコミック版を計3回の短期連載。
『ビッグコミック』で※3「世界怪奇シリーズ」の連載が始まる。
『月刊宝石』で、「ドキュメント劇画ベトナム戦記」が連載される。
『週刊少年サンデー』で※4「河童の三平」の連載が開始。
講談社より、初の妖怪画報の総集編である『日本妖怪大全』が刊行される。
10月4日より、実写版『河童の三平・妖怪大作戦』が※5NETで放送開始。
1969年
(昭和四十四年)
47歳。『週間少年サンデー』での「河童の三平」の連載が、この年より毎週になる。また、河童と言えば「河童シリーズ」を『漫画アクション』で月一回連載。
アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の主題歌が大ヒットしたため、作詞家として「ヒット賞」を受賞。
「ゲゲゲの鬼太郎チョコ・ガム」をシスコが発売。
8月。「ゲゲゲの鬼太郎妖怪自動車全国一周パレード」が行われる。主催は講談社。
1970年
(昭和四十五年)
48歳。『現代コミック』(1月8日号=創刊号)より全9回、「サイレントショック」シリーズを連載。
『月刊別冊少年マガジン』の2月号に「敗走記」。
『少年ジャンプ』で貸本版の「悪魔くん」のリメイク「悪魔くん復活千年王国」が連載。
『ぼくらマガジン』5月12日号に「妖怪水車」を全3回の短期連載。『週刊プレイボーイ』の7月28日号から「コロポックルの枕」(貸本版「地獄」のリメイク作品にあたる)を全7回連載。
『週刊マンガサンデー』8月1日号からは外伝を含めて全10話の「コケカキイキイ」が連載される。「怪奇幻想旅行」が『漫画アクション』9月3日号から6回にわたって連載された。『ガロ』10月号に新撰組の近藤勇の生涯を描いた「星をつかみそこねる男」。
朝日ソノラマ社より、「水木しげる妖怪画集」が上製箱入本として、また「河童の三平」を新書版で刊行。双葉社からはやはり上製箱入本として「水木しげる集」。また、河童シリーズを収録した「河童膏」が刊行。実業之日本社からは「コケカキイキイ」が刊行された。計13冊が刊行された。
河出書房新社では林不忘の『丹下左膳』、番町書房では『日本伝奇名作全集』の挿絵を担当する。
1971年
(昭和四十六年)
49歳。『週刊漫画サンデー』の5月15日号より、「20世紀の狂気!!ヒットラー」を連載。『週刊漫画アクション』の5月24日号から「野坂昭如原作シリーズ」が、連載開始される。
「ゲゲゲの鬼太郎」がカラー版で2度目のアニメ化(10月7日〜翌年の9月28日まで)。これに併せ、週間少年サンデーにて「ゲゲゲの鬼太郎」の連載が開始される。小学館の学年誌にも同時に連載が始まることとなる。この時点での連載誌は10誌に及ぶ。
「千年王国」が集英社より全3巻刊行。また、「虹の国アガルタ」「サラリーマン死神」「原始さん」「悪魔くんの冒険」「妖怪水車」といった短編集が朝日ソノラマから。筑摩書房からは「水木しげる短編集」(全3巻)が上製箱入で刊行される。
この年の夏から兵庫県の宝塚遊園地で本人監修で「お化け大会」を開催することとなり、20数年続く。
この時再会した戦友と共に、ニューブリテン島ナマレを訪れる。実に26年ぶり。現地でトライ族の歓迎を受け、終戦当時少年だったトペトロ氏と再会。彼は酋長になっており、以後、水木は10度以上ナマレを訪れる。
1972年
(昭和四十七年)
50歳。連載の量を減らし、ガロと小学館学年誌のみとなる。「ゲゲゲの鬼太郎」(全8巻)の刊行を虫プロ商事から始め、「星をつかみそこねる男」も同社から刊行する。
実業之日本社からは「劇画ヒットラー」。また、描き下ろし絵本「水木しげるの雨月物語」を番町書房から刊行した。
1973年
(昭和四十八年)
51歳。カラー画報「日本土俗神探訪」(全12話)の連載が月刊『太陽』の1月号からスタート。また「新春雨物語」「新雨月物語」(全4回)を『潮』1月号より開始。
『月刊少年ジャンプ』の5月号に自伝漫画である「突撃!悪魔くん」を発表。
8月、講談社より「聖ジョージ岬・哀歌 総員玉砕せよ!!」を描き下ろしで刊行。
「鬼太郎とねずみ男」(全3回)を『いんなぁとりっぷ』8月号からオールカラーで連載。『コミック&コミック』の10月31日号から「魔女モンロー」(全5回)の連載開始。
『週刊漫画サンデー』11月24日号に南方熊楠の伝記である「怪傑くまくす」を発表する。
初の貸本版「悪魔くん」の復刻本(限定800部)が北冬書房より出される。また、双葉社から『漫画アクション』に掲載された作品を収録した「糞神島」が刊行される(なお「糞神島」自体の初出は1971年の『漫画アクション』である)。
1974年
(昭和四十九年)
52歳。エッセイ・対談・イラストの仕事が増えだす。
『月刊テレビマガジン』8月号から、「フーシギくん」(全5回)を連載。
『週刊朝日増刊号』(4月20日号)に「波の音」(戦記物)を発表。また『週刊漫画サンデー』10月19日号に「落第王」(自伝漫画)を発表。他にも短編を数作描く。
宮田雪氏脚色の描き下ろし日本の妖異シリーズとして「東海道四谷怪談」と鬼太郎が登場する「死神大戦記 上・下」を学研より続けて刊行する。
小学館入門百科シリーズに「妖怪なんでも入門」を刊行する。
妖怪画集「ふるさとの妖怪考」をじゃこめてい出版より刊行。
1975年
(昭和五十年)
53歳。自伝物「なめちゃん」を『週刊プレイボーイ』(6月10日号)に発表。なお、これにはかの※6田辺一鶴も登場する。
『月刊ガロ』6月号にて「水木しげる作画稼業25周年記念ANTHOLOGY」特集が組まれる。『週刊少年サンデー増刊号』(6月20日号)に「漫画狂の詩――池上遼一伝――」を掲載・
『平凡パンチ増刊号』(8月30日号)に「かげおんな」(怪奇物)を発表。また『週刊少年チャンピオン』(11月3日号)で「のんのんばあ」を月イチのペースで4回連載。
朝日ソノラマ社から「ゲゲゲの鬼太郎」全12巻が刊行される。東考社から限定500部のフランス装で「化烏」「猫姫様」「兎月書房版河童の三平」(全8巻)など14冊が復刻版として刊行される。
妖怪画集「東西妖怪図絵」が読売新聞社から。
「水木しげるのお化け絵文庫」(全10巻)が弥生書房から上製箱入本で刊行開始。
エッセイ「娘に語るお父さんの戦記」が河出書房新社より刊行される。
1976年
(昭和五十一年)
54歳。この年から第一次漫画文庫ブーム。
『週刊パワァコミック』(1月9日号)で「縄文少年ヨギ」が連載開始。全17話。
『少年アクション』(1月26日号)で「鬼太郎の世界お化け旅行」の連載が開始になる。全15話。
『月刊少年ジャンプ』7月号に悪魔くんと鬼太郎という二大スターの競演作「新作悪魔くん 悪をほろぼせ!!の巻」を発表。
「ああ天皇とボクの五十年」を『漫画面白半分』(創刊号。11月20日)に発表。
「復刻版悪魔くん」(全2巻)・「復刻版河童の三平」(全4巻)・「復刻版墓場鬼太郎」(全3巻)の全8巻が二見書房からサラブレッド文庫として刊行される。
対して小学館からは「墓場の鬼太郎」全8巻を小学館文庫として刊行開始。講談社からは講談社文庫として「丸い輪の世界」が刊行される。まさに文庫化ラッシュ!
日本文芸社から「新雨月物語」と「河童千一夜」が刊行。桃園書房からは「妖しのマリリン・モンロー魔女モンロー」が刊行。
1977年
(昭和五十二年)
55歳。怪奇ルポ「水木しげるの不思議旅行」の連載が「月刊小説」1月号から開始。全20回。
『週刊実話』(7月21日号)で「続ゲゲゲの鬼太郎」(全23回)が連載開始。これは鬼太郎が高校生になっている。
『月刊DONDON』7月号(日本ジャーナル出版)では「水木しげるの幻想劇画シリーズ」の連載が始まる。全10回。また『週刊漫画サンデー』(8月16日号)で「鬼太郎挑戦シリーズ」の連載が開始。これも全10回。
少年時代のエッセイ集である「のんのんばあとオレ」が筑摩書房から刊行。
朝日ソノラマ社からは短編集の「水木しげる幻想と怪奇シリーズ」全11巻が刊行される。
1978年
(昭和五十三年)
56歳。『月刊ガロ』1月号より「水木しげる日本幽霊館」(全11回)が連載される。『週刊実話』(1月5日号)より「新ゲゲゲの鬼太郎スポーツ狂時代」の連載開始。(全23回で「相撲の巻」「野球の巻」の2話)さらに同誌6月29日号から「新ゲゲゲの鬼太郎」の連載(全23回)が始まる。
さらに同誌12月21日号からは「沖田総司」の連載(全22回)が始まる。
週刊少年キング6月5日号より、SF漫画「ぽけっとまん」(全8回)の連載開始。また、同誌の9月11日号に少年時代の自伝漫画「花町のケンカ大将」を発表した。この時点で連載は5誌となる。
「鬼太郎総力大特集」が『月刊Peke』(2月号)に掲載される。「新選組風雲録・星をつかみそこねる男」が新人物往来社から豪華本として刊行される。サンケイ出版からは、「水木しげるの不思議旅行」(2編加筆有り)が刊行。ポプラ社より、青年期のエッセイ本と言える「ほんまにオレはアホやろか」。東考社・桜井文庫が「火星年代記」「呪いの谷」「台風爆弾」の復刻本。
この年は、全12巻が刊行。
1979年
(昭和五十四年)
57歳。『月刊少年ワールド』1月・2月号より実録戦記「地獄と天国」前後編が発表された。片腕を失う描写を漫画化したのはこれが初である。
「おばけのムーラちゃん」(全11回)が『月刊テレビマガジン』で連載される。『カスタムコミック』No.1(5月)に戦記漫画「カンデレ」。No.2(7月)に幻想漫画である「アマゾン大明神」。連載は2誌。
小学館入門百科シリーズで妖怪シリーズ第3弾「妖怪100物語」を刊行。東考社・桜井文庫からは「花の流れ星」「怪談幻行灯」「怪談嘆き川」の3冊が刊行。
全6冊刊行。
1980年
(昭和五十五年)
58歳。『月刊DONDON』4月18日号から「大ボラ鬼太郎」(全5回)が連載開始。
6月、ポプラ社より絵本である「水木しげるのお化け学校」の刊行が開始となる(全12巻)。少年画報社の『月刊少年ポピー』8月号より、「雪姫ちゃんとゲゲゲの鬼太郎」(全11回)の連載が始まる。また、「SF新鬼太郎」が東京三世社から刊行。別冊新評「水木しげるの世界」で全特集される。
中野書店から「水木しげる初期作品集」が刊行される。限定500部の復刻作品であり、東真一郎名義での作品も復刻。「ロケットマン」「地獄の水」「怪獣ラバン」「怪奇猫娘」の4作品。全16冊が刊行された。
1981年
(昭和五十六年)
59歳。朝日ソノラマ社より「水木しげる幻想と怪奇」後半の「剣豪とぼたもち」(第6巻)から「巻物の怪」(第11巻)までが刊行。
東京堂出版より「水木しげるの妖怪事典」(全12冊)が刊行。
1982年
(昭和五十七年)
60歳。「鬼太郎夜話」全4巻が中野書店復刻シリーズ5として刊行(限定500部)。別冊として「戦記スケッチ画帳」と肉筆イラスト入りのミニ色紙が付録としてついていた。
『季刊えすとりあ』第3号で「水木しげる特集」が。童夢出版から書き下ろしのエッセイ集で、限定500部の豆本「楽園慕情」が刊行される。
また、双葉社からは「水木しげる作品集テレビくん」を刊行。筑摩書房からは「ねぼけ人生」を。東考社・桜井文庫からは「深雪物語」「怪談かえり船」「妖怪死人帖」「怪奇鮮血の目」の復刻本が刊行された。
この年は、全15冊の刊行となった。
1983年
(昭和五十八年)
61歳。東京堂出版から「水木しげるのあの世の事典」が豪華事典の第2弾として刊行される。
ほるぶ平和漫画シリーズの一冊として戦記漫画集※7「敗走記」が刊行される。
(株)アイベックから「霊界アドベンチャー日本幽霊館」が刊行。
1984年
(昭和五十九年)
62歳。『現代』2月号に「【絵随筆】たわむれの人生」を発表。また、「水木しげるが描くあの世の霊界図絵」が『トワイライトゾーン別冊心霊ミステリー』7月10日号に掲載。
東京堂出版より、「水木しげるの続妖怪事典」がシリーズ第三弾として刊行。
朝日ソノラマ社から「河童の三平」(全3巻)がワイド版で刊行。同社より「ゲゲゲの鬼太郎」(全8巻)のワイド版の刊行が開始される。
東考社・桜井文庫から「手袋の怪」「地獄流し」等の復刻版8冊を刊行。
年末より、日東化学から「水木しげるの妖怪系図」・「水木しげるのゲゲゲの鬼太郎」(どちらもシリーズ)として、「小豆洗い」「呼子」などのプラモデルが発売される。
父、亮一死去。
1985年
(昭和六十年)
63歳。「ゲゲゲの鬼太郎」が月曜ドラマランドで実写ドラマとして放映。水木しげる本人も霊界郵便配達人として出演。10月には「ゲゲゲの鬼太郎」の3度目のアニメ放映が開始。10月12日〜昭和63年4月1日まで放映。これにより鬼太郎・妖怪ブームが起こり、特集が多々組まれるようになる。
『月刊テレビ・マガジン』10月号には「鬼太郎画報」等の特集が組まれ、また、水木プロ作品として、「最新版ゲゲゲの鬼太郎」が『月刊コミックボンボン』9月号より全25回の連載開始。
「水木しげる短編傑作集」全5巻が朝日ソノラマ社からワイド版で刊行される。また、同社から増補改訂版「水木しげるの妖怪画集」「水木しげるの幻獣事典」が上製本として刊行。また、講談社からは「ゲゲゲの鬼太郎」全17巻及び、「新ゲゲゲの鬼太郎」全4巻の刊行が開始となり、豪華装丁版妖怪画集「妖怪伝」が刊行される。
東京堂出版から、シリーズ4弾目となる「世界妖怪大事典」が。小学館入門百科シリーズから「カラー版妖怪まんが鬼太郎」といった10冊が刊行。復刻本としては、東考社・桜井文庫から「暁の突入」等4冊が刊行。
この年、連載は3誌。単行本は計57冊刊行。
1986年
(昭和六十一年)
64歳。『少年マガジン』5月7日号より、「ゲゲゲの鬼太郎」が48回に渡って連載される。『COMIC BOX』6月号に「特集:何処へ行く!?墓場の鬼太郎」が掲載された。また、手塚真監督のビデオ映画、「妖怪天国」に出演。馬場のぼる・手塚治虫・楳図かずおと共演。
東京堂出版より、「水木しげるの続妖怪事典」がシリーズ第三弾として刊行。
朝日ソノラマ社から「耳なし芳一」がワイド版で刊行。「ねぼけ人生」「水木しげるの妖怪まんが集」(全4巻)が筑摩書房からちくま文庫として刊行。講談社からは、「水木しげる幻想と怪奇」(全4巻)及び、「星をつかみそこねる男」と「沖田総司」の二つを収録した「新撰組夜話」(全3巻)を刊行。朝日ソノラマ社からは「水木しげる資本漫画傑作選」第1期全10巻の刊行を開始。更に、東考社・桜井文庫からは「悪魔くん」(全3巻)と「壁ぬけ男」を刊行。
この年は、連載が4誌。単行本は48冊刊行された。
1987年
(昭和六十二年)
65歳。この年は、水木プロ設立20周年にあたり、記念謝恩パーティーにデーモン小暮と聖飢魔Uが出演。
『月刊少年マガジン』6月号より、「ゲゲゲの鬼太郎・鬼太郎地獄編」が4回に渡って連載される。
ポプラ社からは上製絵本「ゲゲゲの鬼太郎おばけの国」シリーズ(全8巻)が刊行開始。
『コミックBE』(10月31日号)から「悪魔くん世紀末大戦」(全7回)が連載開始。これは貸本版「悪魔くん」の続編にあたる作品で、連載は月に1回のペース。
朝日ソノラマ社から「水木しげる資本漫画傑作選」第2期全10巻の刊行が開始。
講談社からは「水木しげるの不思議な世界」(全4巻)が刊行された。
この年、連載は4誌。単行本は33冊刊行。
1988年
(昭和六十三年)
66歳。鬼太郎たちが出迎えてくれるようなデザインの、武良家の墓が完成。
調布市市立図書館発行の季刊誌である「図書館だより」No.128(7月15日号)から表紙に、シリーズ「調布を描く」がスタート。
8月、TBSの番組、テレビ世界紀行で「水木しげるのアフリカ幻想 精霊と妖怪のふるさと」が放映される。
『月刊コミックボンボン』12月号より、「最新版悪魔くん」(全17回)がアニメ化に先駆けて連載開始。
また、中央公論社からは「愛蔵版ゲゲゲの鬼太郎」が全5巻刊行。
筑摩書房から、ちくま文庫として「悪魔くん千年王国(全)」と「河童の三平(全)」の2冊が刊行。
講談社より、自伝漫画の集大成とも言える「水木しげる昭和史」全8巻が刊行開始。
この年は全13冊の単行本が刊行された。
1989年
(昭和六十四年・平成元年)
67歳。1月7日、昭和が終わる。

とりあえずは昭和時代までをリストにしてみました。
誤った箇所や、書かれていないエピソードがあれば、お教え下さい。
-----参考文献-----
★『水木しげる記念館公式ガイドブック』 (監修:水木しげる、水木プロダクション 発行:朝日新聞社)
★『妖怪と歩く 評伝・水木しげる』 (著:足立倫行 発行:株式会社文藝春秋)
★『妖怪まんだら水木しげるの世界』(発行:世界文化社)


語註
※1 ネンコンババ…「糞をしたのはオレではない、猫だ」の意。
※2 茂鉄…「鉄のように強い茂」の意味である。
※3 「世界怪奇シリーズ」…記念すべき第一話は「妖花アラウネ」。
※4 「河童の三平」…掲載雑誌は週刊誌だが、連載は月1回である。
※5 NET…現、テレビ朝日。
※6 田辺一鶴…第12代田辺南鶴の内弟子。強度の吃音を克服し、現在では講談の第一人者として活躍中の御仁。作品には「水木しげる物語」がある。
※7 表題である「敗走記」は本収録時より2ページ改稿される。


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