ここから再び



 彼は気付いた時にはそこに立っていた。
 いつから立っていたのかもわからない。気付いたらいたのだ。

「ここは……?」

「忘却の河だよ。」
 呟きに、答えがすぐに返された。
 これも不思議なことで、気付いた時には目の前にゴンドラが泊まっていた。船頭が一人、櫂を持ちこちらを見ていた。

「忘却の、河……?」
 聞き返す自分に船頭は笑ったようだった。
 ちゃぷん ちゃぷん と音が鳴る。
 その波の音に、ああ本当だ、と思う。自分は先程から、ゴンドラがあって、そこにいる人の事を船頭だと認識していたではないか。だからここは確かに河なのだとわかっていたのに。なのに気付くことが出来ないでいた。
 周りを見渡せば何もない。ただ穏やかで、靄のかかったような乳白色の世界の中、河と、足下の河原の石とが違う色だった。河はここに太陽が無い事を示すように曇天時の大河の色に似ていた。透明なのに澄みはせず、覗き込むまでもなく深くて黒い部分をいくつも見せる。そして河原は赤くくすんだ色だった。同色の石が無数に転がり、それらは積めばいくつでも重ねられそうなくらい平たかった。
 船頭以外は誰もいない。不思議な空間だった。

 常の自分ならば有り得ないことだ。どんな時だって状況をまず真っ先に把握するのは竜騎士として当然のことだというのに。

 どうにも頭がぼんやりとする。術にかかったとか、そういう敵意というものがこの場には一切ないから、それでどうしても気が抜けるのだろうか。
 彼は、船頭のゴンドラが来たのであろう河向こうを見遣った。果てが無いように見える。対岸は遥かに遠く、何も定かではない。
 だが一番定かでないのはやはり、彼が何故ここにいるのか。ということだった。

 一体どうして自分はここにいるのだろうか。どうやってここに来たのだろう。つい先程まで、パプニカの岬にいたはずなのに。明るい日差しの下、仲間たちの墓の前で座り、色々と報告をしていたはずなのに。

「ああ、お前さんはあれか。まだ死んだ自覚がないのか…」
 船頭の呟きが聞こえた。灰色のフードは目深に被られているが、視線は感じられた。真っ白な長い髭を蓄えているのだから歳を経た男性なのだろうという事くらいしかわからないが、声音に宿る響きは優しかった。
 だが、船頭が言った言葉は優しい声にも関わらず、物騒だった。思わず彼は聞き返す。
「え? ……死んだ? オレが?」
「そうだよ。ここは死者の魂だけが来るところなんだから。」
 静かで優しく、教え諭すような声だった。今でも尊敬してやまないアバン先生のような。
 懐かしい…と遥かな昔を振り返る。教えを受けた期間はとても短かったのに、あの人の言葉には力があった。真実と知識を得る楽しさを伝え、考える意味と必要性を教えてくれた教師の鑑のような人だった。だからその言葉を疑うような事は有り得なかった。
 だというのに、似ていると思ったこの船頭の言葉にはすぐに頷けなかった。
「死んだ…本当に? だってオレは――」

 ――死ねないのだと思っていた。

「そうだろうなあ。お前さん、理の外にいたからな。」
 船頭が頷いた。声に出さなくても伝わるのかと思ったが、いやそもそもこの姿も、魂だけの状態というならば肉体という容器が存在しないのだから、「声に出す」という行為自体が「そうしようとする思い込み」に過ぎなかったのだろう。
 そんな風に考えていると、また船頭が優しく言う。
「そうだよ。理解すると早いなあ。さすが竜の騎士さまだ。」
「…オレの事を知ってるの?」
「勿論だ。迎えに来たんだから。」
 髭に覆われた口元が少し上がる。軽い声なのに、からかわれているような気はしない。どこまでも老爺の声は優しさに満ちていた。
(こんな死神なら、付いていくのも嫌じゃないな…祖父ちゃんみたいで。あの死神とは大違いだ。)
 思い出したのはやはり遥か昔の記憶だった。自分を慈しんで育ててくれた心優しい鬼面道士、ブラス祖父ちゃんと、最後の最後まで卑劣で死の神を気取っていた道化の男。
 それらの記憶は、自分の一生からすれば子どもの頃の、言ってみればスタート地点にすぎなかった。あれから幾度もの戦いを経験してきたというのに、数えるのも馬鹿らしいほど生きてきたのに、それでも鮮やかに思い出す『昔』はあの頃の記憶ばかり。
 そんな事を思っていると、老人が苦笑した。
「私はただの船頭だ。死神なんて大層なものじゃない。それに、あの死神とは比べられたくないよ。」
「あ…ごめんなさい。」
 素直に謝る――こういうのも久しぶりだ、と思う。
 もうこの数百年ほどは対等に喋ってくれる人などいなかった。
 子孫たちからも竜の紋章を持つものは滅多に産まれなくなり、魔界との争いは歴史書の中の話になって……人間も魔族も、さらには竜族も、戦闘という事に関して軒並みレベルが下がったのだ。自分一人が異常な力を持ちながら、いつまでも変わらない姿で、そんな気はないのに二界に『君臨』していた。
 畏れられても恐怖されるよりはマシだ。もう諦めた。むしろ、かつて妻が教えてくれたように敢えて親しみを感じさせるような態度をとらず、隔絶した者として生きる事で上手くいったのだろう。



『いーい? 人間ってね、自分と似てる存在の方が愛せるかもしれないけど恐れも持つのよ。だから、私たちや子どもたちや孫…貴方の事をよく知る人がいなくなったら、神様になりなさいな。最初から人間とは違うんだって思わせるの。……そうしたら排除されないわ。王族と一緒ね。
 貴方の事を理解出来てる人だけを、上位の神官に選んで交流するのがいいわ。争いの裁定者として祈りを捧げられた時だけ現れる竜の騎士――そういう風にしたほうがいいの。…そうね、今はラーハルトがいるんだから、彼を魔族として初代の神官に任命しときましょう。私が命じて先例にしておくわ。彼、きっとハーフだって言っても普通の人間よりは長生きだもの。今から神官になっとけばその内、誰よりも経歴が長くなって大神官ってことになるでしょ。トップが魔族なら更に融和が進むわ。
 …ごめんね。私が、見たくないのよ。貴方が排除される光景を。貴方がそれを受け容れる光景も。
 歯痒いわ。〇〇〇くんがいてくれたら、きっともっと良い案があったと思うんだけど……私では彼の策を補強する事しか出来ない。
 ねえ、地上は貴方の故郷よ。貴方が守ってくれた場所なのよ。人間全体の傾向がそんなでも、貴方を愛する人はこれからもちゃんと生まれるわ。物語の中で。歴史の中で。いつかきっとそうなる。その頃にはきっと、竜の騎士の宿命なんて世界に必要が無くなってる。そうしたら……自由になって。』

 ――私ずっと待ってるわ。〇〇〇くんもね。

 愛したひとの声が耳の奥で蘇った。懐かしい。こんなに細かくハッキリと再現出来たのが嬉しく、何故か一部だけが掠れたように思い出せないのがツライ。
 人間の寿命そのままのレオナは、けれど老いてもずっと綺麗なひとだった。美しく、気高かった。子を何人も授けてくれて、自分に新しい家庭をくれた。彼女が目一杯の愛情と死後の策をくれたお陰で、自分は今までやってこれたのだと思う。
 変身呪文が使えればいいのにと何度思ったかしれないが、いつの間にか文明が進んで、化粧や変装の道具も技術も武器や兵器と同じように発達していったから、そういう道具を使ってたまに別人として世界をぶらつくことで気晴らしをした。

 戦う相手がいなくなって、地上と魔界での交流が盛んになって。
 二界は「互いに互いが必要不可欠な存在」となり、ついに地上と魔界の全ての国で相互不可侵と相互扶助の条約に調印がなされた。
 その祝賀会を遠目に見てから、自分は墓に詣でた。パプニカ王家の墓所にレオナの墓があるのは当然だが、かつての仲間たちは、それぞれの祖国で王族に準じる扱いで祀られている。それらの場所ではなく、彼が『墓』と言えばかつて剣の岬と呼ばれていた場所で、今ではマァムやヒュンケルたちアバンの使徒の記念碑が建っている所だった。
 どれほど開発がなされても、その場所は誰も手をつけない。穏やかに風が吹き、太陽の光が暖かく照らして花が咲くそこで、記念碑の前に座り、平和が成った事を皆に報告した。
『皆に会いたいな。もう、いいよね…オレ頑張ったよ……』
 ……記憶はそこまでしかないから、きっとそのまま自分は死んだのだろう。まさしく竜の騎士としての役目を果たして、もうその力が世界に必要なくなったから。
 と、そこまで振り返って、思い至った。
 自分が死んだのなら、きっと今頃神官長らはとても慌てているのではないだろうか。仲間達の『墓』に行くのだと言ってきたけれど、帰らなければきっとまた寄り道をしていると思って、発覚するのが遅くなって責任をとらされるのではないかな。

「大丈夫だよ。お前さんの身体は大神官が確認して触れれば光となって消える。人間達が好む様な幻想的な風景と、厳かな声の演出のおまけつきだ。」

「……は?」
「お前さんの声で『役目は果たせた。あちらに行くことにするよ。×××達、今までよく仕えてくれたね。』だったかな。×××の所には大神官の名前が入るようになってる筈だよ。そうしたら職務怠慢とか言われずに済むだろうから、あとは壮大な葬儀が営まれるだろう。」
「………でも、信じるかな。オレは生き神の扱いだったけど、変装して外に出るの好きだと知ってるし、何かの策だと思われないかな。」
「竜の騎士に仕える大神官になる者は代々魔族か竜族だから、寿命が長いだろう。ちゃんと申し送りがあるんだよ。」
「申し送り?」
「そう。寿命が無いお前さんの魂と肉体は、きっと竜の騎士という役割がこの世にある限り続く。裏を返せば、役割がなくなれば世界に留まれない。だから、その想定を代々の神官長に、長となった時に伝えられてきた。」
「……知らなかった。レオナが?」
「いいや。お前さんの友達からだ。」

「友達? ……………誰?」

 そんな事が出来る友達が、自分にいただろうか。思い当たる節がなくて尋ねると、老人が「ああ」と呻くような声を出した。

「……ああ、忘れたんだな。人間の心だもんな…。」
「…ゴメちゃんの事なら、覚えてるさ。」
「うん。そうだな。その子も河の向こうでお前さんを待ってるよ。」
 船頭が苦笑する。彼は河に刺した櫂に体重を預けるようにして、少しかがむ様な姿勢になった。何だか疲れたようだった。
「あの…大丈夫?」
「ああ。大丈夫だよ。そうだな…お前さんは千年も生きたんだ。当然だろう。我が子の事だって忘れる親がいるんだから。」
 そんな酷い親がいるのか、と彼が思ったのが伝わったのか、船頭は再び苦く笑った。
「仕方がないんだよ。人間の心は強いけれど弱い。我が子の事を忘れるっていうのも、この場合は酷い親じゃない。いとしくてかなしくて、それ故に喪った事が悲しくて、そのままでは生きていくのが辛すぎるから飲み込んでしまうんだ。覆い隠してしまうのさ。たとえば喪った子に兄弟姉妹がいたりしたら、その子らのためにも親は明るく生きなければならないだろう? だから、忘れるんだよ。
 忘れられた子も、親に自分の事で泣いて苦しんで欲しいわけじゃないんだ。責めたり恨んだりはしない。」
「そうなのか……。」
 説明されれば納得できた。自分にも子は何人もいたが、彼らは人間としての寿命しか持たなかった。何度も経験する逆縁。孫にも曾孫にも先立たれ、その辛さから逃げるように、いつしか自分の為に建てられた神殿に籠るようになった。……それももう随分と昔の事だ。
「そうだよ。考えようによっては、忘れたいくらいに自分の死を悲しんでくれたのだともとれる。だから仕方のない事だ。」
 人間の心は強いが弱い。
 老爺は再びそれを呟いた。
「ここは魂だけの世界だから、形や記憶を保てる者はあまりいない。ほとんどの者は、この河を渡って向こうに行くまでに色々と忘れていってしまう。
 私だってここに来た当初からすれば随分と変わってしまった。生まれ変わりを選んだ先代から役目を継いで、地上は今どれくらい時間が経っただろうと考えているうちに老いた姿をとるようになったよ。」
 言われ、ただ頷いた。老爺は生まれ変わりと言ったが、ならば妻や仲間達ももしかしたら生まれ変わって、あちらで何度か知らぬうちに出会っていたりするのだろうか。
 奥さんか。と老爺は笑った。
「お前さんの奥さんは、河向こうでちょっとした有名人だ。生まれ変わっても夫婦にという者がほとんどなんだが、彼女は違ったから。」
「え…」
「『生まれ変わったらそれはもう[私]じゃないでしょ? 彼がその存在を愛しても、それは[私]じゃないし、その存在が彼を愛しても[私]が愛したわけではないわ。私はね、彼を愛した[私]を上書きしたくはないのよ。だからここで待っているの。』だったかな。大したもんだよ。」
「そっか…レオナ、待っててくれてるんだ。…仲間達も?」
「皆ではないよ。我が子たちが切り開いた世界を新しい人生で生きてみたいと生まれ変わりを選んだ者もいる。そんな彼らも、再びこちらにきてお前さんに会えば、きっとすぐに思い出すさ。」
 ――お前さんは、皆に愛されていたんだから。
 優しいその声。老爺が手招き彼が近づくと、皺々の手がそっと彼の頭に置かれて子どもにするかのようにクシャクシャと撫でられた。
 ピリ…と痺れが走った。この感覚には覚えがあった。
 膨大な記憶の中、最奥にしまってあるものがある事はわかっていた。聖くて、尊くて、何よりも自分の中で光り輝く大切な思い出だからこそ封じて……何を? 『友』だ。そうだ、『彼』の事をだ。
 何故封じた?
 それはさっき船頭が言った話と同じだ。

 愛しくて愛しくて、それ故に喪った事が悲しくて、そのままでは生きていくのが辛すぎるから。

 そうだ…オレの、大切な友達の名前は……!!

 ギイと音が鳴った。はっと顔を上げると、船頭の手はもう頭から離れていた。櫂を握り、ゴンドラを動かそうとしている。
「ど、どうして⁈」
「時間切れだ。迎えに来たが、お前さんに何か未練があるのなら、この河を渡るのも辛いだろう。それに、無理を言ってここまでこの仕事をさせてもらってきたが、私もそろそろ生まれ変わらないと魂が時間と心に耐えられない――最後にお前さんに会えて良かったよ。」
 船頭の言葉が韻々と脳裏で木霊する。ほとんど腕を動かしていないというのに、櫂は器用に動き、ゴンドラはするすると岸を離れていく。
「待って…」
 バチャリと河に足を踏み入れた。
 遠のくゴンドラに向かって走り出す。バチャバチャと飛沫が上がる。ああ――あの時の『彼』と同じだ。
 船頭が振り向いた。
「待って! オレ、そっちに行く! せっかく役目を終えたんだ、未練なんて無い!!」
 視線が語る。喜びと、「いいのか?」という問い。
 頷く。
 皆に愛されていた。その事をひしひしと感じる。役目のために閉じこもって、関わりを断って生き続けたけれども、それでもレオナの言葉の通りに親しくしてくれた者もいた。伝説となった戦いに対しての敬意であったとしても憧れられて交流をした者もいた。家族やかつての仲間だけではない。愛されて愛して、そして皆を見送らねばならなくて、寂しくて、悲しくて、感情を封じていった。
 皆この河を渡ったのだ。その中でも『彼』は、一等早かった。死の間際に優しく乱暴に頭を撫でてくれた感触が、微笑みが、言葉の一つ一つが蘇ってくる。
 忘却の河だなんてとんでもない。忘れ去るとするならば、いじけて殻に閉じこもろうとした、かつての恥ずべき自分だ。悔いがあるとすれば、『彼』の事を忘れていた…その心の弱さだけ。けれどそれも喜びだ。自分は『彼』の事をそれだけ愛していた…!

 走る。
 走る。
 船縁に足がかけられ、手が伸ばされる。
 自分の背を押すように、河面をゴウと強い風が吹いた。それは『彼』のフードを吹き飛ばし、その顔を顕わにさせる。
 一刹那ごと、『彼』が自分を見つめ「馬鹿野郎」「ずっと待ってたんだぞ」「忘れてんじゃねえよ」と涙を零すたびに、その老爺としての姿が変わっていった。
 皺が消え、しなやかな筋肉がつき、髭が掻き消え、髪は黒く豊かに。
 切なく優しい微笑から、友を希求する力強い笑みに。
 嗚呼 嗚呼…!
 跳ぶ……!!
「ダイーーー!!」
 呼ばれる名前は自分のもの。久しく鼓膜を打つ事なかった『彼』の声。
「ポップーーー!!」
 叫んだ名前は友のもの。久しく封じていた親友の名。

 掴んだ手は親友ポップのもの。誰よりも愛しい半身の手。

 狭いゴンドラの中、引き上げられ、つんのめって抱き締めて、ポップが尻もちをつく。
「…あの時と逆だな。」
「…そうだね。」
 それだけで通じるのが嬉しい。デルムリン島から旅に出た時を互いに思い出していた。
 姿は変わり、自分は青年のまま時が止まり、ポップはさっきまで年老いてしまっていたけれど。
「えっと、どう、呼んだらいい? お爺さんの姿をとるぐらいだったんだし、『ポップ爺ちゃん』とか?」
「馬鹿。ならオレはお前の事『ダイ様』とか『守護神様』とか呼ぶのかよ?」
 冗談じゃねえ。と拳骨が頬にぐりぐりと押し当てられた。

「――ポップでいいよ。」
「――うん。またよろしく、ポップ。」

 二人の間は、それだけで良かった。


 そして再び冒険が始まる。


(終)







入口へ  あとがきへ