ミスト


若い魔物の男と、異形の魔物の闘いがあった。
いや、闘いというのもおこがましい。勝負にすらならず、異形の魔物は、若い男に触れることもなく絶命したのだから。だが、魔物はそれで終わらなかった。倒れた魔物から血の代わりに染み出てきたのは黒い闇。

「ほう……」

 自らが倒した魔物からにじみ出るように湧き出してきた黒い闇が、自分の方へと忍び寄ってきている様子を見て、僅かに感嘆の声を漏らす。

「暗黒闘気の……集合体と言ったところか」

 一目見て、闇の正体を見抜く。

「それで、余の体を乗っ取るつもりか? それとも……」

 ヒタヒタとすり寄る黒い闘気を見下ろして、男はつぶやき喉を鳴らして嗤う。

「余の抱く感情に惹かれているのか……」

 暗黒闘気の集合体から伝わってくるのは思考ですらない。単なる思念。であるというのに、それは呪いにまで昇華するほど強い思い。
――――ニ……クイ……にくい……憎い、憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪憎悪
――――ズ……ルイ……ずるい……嫉妬、嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬
――――クヤ……シイ……くやしい……悔しい、悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい

憎悪憎悪憎悪嫉妬嫉妬嫉妬悔しい悔しい悔しい軽蔑軽蔑軽蔑軽蔑悔しい悔しい悔しい悔しい嫉妬嫉妬嫉妬嫉妬憎悪憎悪嫌悪嫌悪嫌悪嫌猜疑猜疑猜疑猜疑悪嫌悪嫌悪憎悪憎悪

憎悪、妬み、嫉み、恐怖、嫌悪、怒り、恨み、嫉妬、軽蔑、猜疑……
この暗黒闘気から読み取れるのは、混沌たる負の感情。
魔界で数千年にもわたり続けられてきたどす黒い闘争の思念が凝っただけの下級の生命体。知性はなく、ただ生存本能により生き抜いている。そもそも、コレ自体の生命力は非常に弱く、肉体を持つ生命体に寄生しなければ、生きていけない。

「哀れだな」

 例え肉体を乗っ取ったとしても、そこに生きるという以外に目的もなく、己が持つ宿業に囚われ再び戦わなければならない。戦いに負ければ、再び別の肉体に乗り移る。それを永遠に繰り返すだけの存在。それを哀れと言わず、何と言おう。
 最も、暗黒闘気の集合体はそんなバーンの言葉を解するはずもなく、その肉体を乗っ取るために今も触手を伸ばしている。

「消すのは簡単だ。だが……」

 それが抱く感情は興味深かった。混沌とした負の感情は、自身が抱くものと重なる。
 神は、人間が弱いという下らない理由で手厚い庇護に置き、大半の魔物たちを魔界に押し込めて蓋をし、太陽を奪った。
 どれほど強大な魔力を持とうとも、太陽を再現することは敵わない。
 魔界は暗く重く淀み、そこに安寧は一切ない。ただ、わずかな土地や食べ物を奪いあう醜い闘争だけがある。
 神はこの現状を知りながら魔界を放置し、地上と人間を保護し平穏を与えるなどという愚挙を犯し続けている。

 ならば。

 地上を蹂躙し、天界へと攻め入り、自らが神になるより他にない。
 そう決断させるに至るまでには、神への強い憎しみと怒りの感情があった。それこそ、何もかもを焼き尽くしてなお燃え続ける、魔界のマグマのごとき強い感情。
 まるでそれに引かれる誘蛾のような暗黒闘気の集合体。言ってみれば、コレも神の被害者なのだ。

「汝に、生きる意味を与えよう、力を与えよう、知を与えよう、そして名を与えよう」

 厳かに告げ、額にある第三の瞳で見つめる。
 言ってみれば、それは気まぐれ。だが、コレには利用価値がある。
 神となるためには、策を練り力を貯え準備を整えなければならない。それこそ何千年とかかるだろう。その年月を確保する方法も考えてはある。

 『凍れる時の秘法』 
 肉体が所有する空間の時間そのものを凍結させる魔法。数百年に一度しかない皆既日食という時、魔が凝る選定された場、そして術者の強い思いと魔力が必要となる禁呪。精神と肉体を分離し、己が肉体にその秘呪をかければいい。だが、時を止めた肉体を管理する方法がない。誰かに奪われてしまえば、命運が尽きてしまう。
 だが、他の肉体に寄生するという性質を利用すれば、例え時間を凍らせた肉体であっても動かすことができるだろう。そうすれば、他者に奪われることもない。

 思考するはずもないというのにソレは、バーンの視線に是というように揺らめいた。
 そして、ソレにバーンは進化の秘法をさずける。
 生まれたのは、ただ唯一にして絶対たる主を仰ぐ『ミスト』という名の魔物だった。
 





「おまえは、余に仕える天命を持って生まれてきた」

 バーンはミストに語りかける。

「余の言葉を至上とし、余のために生き、余のために死ぬがよい」

 白いローブ姿のミストは、膝を折り己が生きる目的をその魂に刻み込んだ。


(終)



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