実るほど


  目の前に広がるは一面の黄金色。
 さわさわと吹く風に、頭を垂らした稲穂が重たげに揺れた。
「なんて綺麗なの……」
 マァムは独りごちた。
 ここジパングでは、畠ではなく田圃と呼ばれるものが一般的で、麦ではなく『コメ』というものが主食だ。マァムの郷里であるロモスは世界一の農業国であり、いたるところにも小麦畠や野菜畠が広がっているが、その彼女にしてジパング地方を訪れるまで見たことのなかった植物である。
「絶景だな。さっすが黄金の国!」
 横に立つポップが、軽く口笛を吹いた。
「黄金の国?」
 マァムが振り向くと、ああ、とポップは頷いた。
「旅行記に書いてあったんだ。『秋のジパングは黄金の国だ』ってな。読んだのは、前にここに来た後だったんだけどさ」
 微笑むポップの黒い瞳は、まるでちょっとした宝物を見つけた時のようで、マァムの脳裏には『男の子』という単語が浮かんだ。別に恋人のことを子供っぽいと言いたいわけではない。

「ジパングの事が載ってる旅行記なんてあるのね」
「おう。温泉のこともそれに書いてあったんだぜ」

 堤の向こう、案内してくれたヤヨイが二人を呼んだ。
 ダイを探す旅の過程で訪れたこの土地で、二人はヤヨイと出会い親しくなった。彼女はいわゆる世話焼きな性格で、その後二人がジパングを訪れるたびに案内や宿泊の手配などを買ってでてくれる。
 今回も二人は彼女の厚意に甘え、宿の手配を頼んだのだ。何しろここは異境。文化も風習もガラリと違うのだから。

「ポップ殿、マァム殿、こちらです」
 にこにことヤヨイが手を振る。簡素な貫頭衣の下につけた、薄紅の裳がふわりと風に揺れた。かつて巫女の館に仕えていた頃の五色の裳ではないけれど、その簡素さは彼女の美しさを却って引き立てていた。
「明るくなったよなぁ、ヤヨイちゃん」
「そうね。…でもあの状況じゃ沈んでて当然だわ。本当に間に合って良かった」
「…だな。あ〜〜ったく!! 嫌なこと思い出させちまった。悪ぃ」
 ポップが掌でその顔を覆った。喉の奥で小さな唸りが鳴る。不快なものを押し殺すときに、よく彼が見せる仕草だった。その唸りの原因は、マァムにも十二分に心当たりがある。
 
  老いた巫女とその取り巻きの老人衆
  身寄りのない、若く美しい下仕え
  始めから結論ありきの評定
  「尊い犠牲」という名の踏み台
  例年のこととて誰もが諦めて……

 
「いいのよ。…彼女だけでも助けられたんだし、それを喜びましょう」
「ああ」
 初めてジパングを訪れた時のことを、二人は思い出していた。

 大戦後、地上を守って行方知れずとなったダイを探す旅でのことだ。竜の伝説があると聞き、辿り着いたのがジパングという小さな島国だったのだ。
 実際には竜ではなく「龍」の伝説だった。
 そして、その伝説を利用する形で、酸鼻を極める行為が行われていた。ヤマタノオロチ―――ポップたちの認識ではヒドラと言われる系統の魔物―――が国に巣食い、毎年若い娘を生贄に捧げさせていたのだ。
 いや…捧げさせていたというのは少し違うかもしれない。ヤマタノオロチと名乗っていたその魔物は確かに生贄を要求したけれども、見返りに富―――ジパングで珍重される鉱物や田畠の実りなど―――を与えていた。
 最初こそ民は、その理不尽さに怒り、嘆き、阻止しようとする者もいたらしい。けれども、生贄の儀式が数度続き、見返りが与えられると、いつとはなしに誰も彼もが口を噤んでしまったのだという。
 ポップたちが訪れた時には、生贄の事に誰も表立っては反対していなかった。まるで税や賦役と同じような義務であるかのように、人々はそのおぞましい行為を受け入れていたのだ。
 一般の民からすれば、どう足掻いても変えられない絶望から、痛みを受け入れるしかなかったという面もあるかもしれない。そのことにマァムは憐みを覚えたし、ポップは苛立ちながらも同情をした。

 だが、巫女とその取り巻きについては別だ。己や身内からは決して犠牲を出さずに生贄を選ぶ立場の彼らには、怒りしか覚えなかった。

 よそ者である二人を、それでも親切に世話を焼いてくれたヤヨイは、神殿の巫女に仕える下仕えだった。二人が、地上を救うために黒の核晶の爆発を喰い止めて行方不明になった勇者の少年ダイの捜索のための旅をしていると知った彼女は、宿の世話だけではない、『龍神』の伝説が残る社や村に、仕事の合間を縫って案内してくれた。全く違う習俗に戸惑う二人を馬鹿にすることなく、どんな基本的な質問にでも快く答えてくれた。
 この地には、大魔王バーン打倒の旅で訪れたことはないし、そもそもほとんど島の外とは交流を持たない地区ゆえに、ダイのことも、地上の危機のこともほとんど伝わっていなかったというのに、何故そんなに親身になってくれるのかというポップの問いに、ヤヨイは答えた。

『だってお二人が必死に探しておられるのでしょう? こんな島国にまで手がかりを求めるくらい…それだけ大切な人なのでしょう?』
『ならばその人だって、お二人に会いたいと思っておられる筈です。私だったら、きっとそう思いますから』
『私、そういう人って放っとけないんです』
 困ったときはお互い様ですよ、と晴れやかに笑う乙女は、ポップとマァムの心に強い感動を覚えさせずにはいられなかった。

 その彼女が生贄に選ばれて、何故二人が大人しく立ち去ると思ったのだろう。
 嘲笑う取り巻きの老人たちを叩きのめし、地下の祭壇に向かったポップとマァムが見たのは、祈りを捧げて去るはずの巫女が、ヒドラに変貌していく場面だった。
 恐怖よりも、敬愛していた巫女の正体を知ったショックで、ヤヨイは祭壇の上で呆然としていた。神の使いと信じていた巫女王ヒミコが、生贄を喰らって生き続けるヤマタノオロチそのものであったとは…! 生贄を選ぶ時の苦渋に満ちた表情も、先ほど地下祭壇への入り口で涙ながらに己にかけた別れの言葉も、全てが演技だった。昨年の生贄は同じ下仕えの友人だった…その友を食べた口で己を慰撫し、神への祝詞を嗤いながら詠んでいたのだ―――その絶望ゆえに乙女は祭壇にくずおれた。
 無言で流される涙を、無言の背中で受け止めて、ポップとマァムは静かにヤマタノオロチと対峙した。


 
「皆さん、もう温泉にお入りになってますよ」
 堤を上ると、ヤヨイは街の方を指さした。ポップたちが定宿にしている街一番の宿はハタゴと呼ばれていて、建物の中にはサイコロ場という賭場や、土産物屋、温泉もある。中でも二人が気に入っているのが温泉で、沐浴とサウナ風呂の普段とは全く違う『温かい湯につかる』という文化が異国情緒をたっぷり感じられて好ましいのだ。
 ダイが帰還してからは数度、レオナやヒュンケルといった旅の仲間も連れて訪れており、いつも喜ばれていたこの温泉宿に、今回はマァムの希望でいつもとは違う人物を招いていた。
「ヤヨイちゃん、あの温泉は腰痛に効くかしら?」
「ええ! もちろん!」
 マァムの問いにヤヨイは大きく頷いた。
「そのかみに法師さまが開かれた湯は、必ず身体の痛みを和らげてくれます。飲んでも健康に良いんですよ!」
 ジパングには、大昔に高名な僧侶が開いたという温泉が各地にあるらしい。民はかねてよりその恩恵にあずかってきた。ヤヨイのお国自慢に二人も笑顔になる。
「そりゃいいや。老師も今度こそ持病が治ったりしてな」
 ひひ、とポップが笑う。マァムが、もう! と彼の脇腹を肘で小突いた。
 マァムの武闘家としての師匠であるブロキーナ老師は、実に珍しい病に侵されているのだ。「おしりぴりぴり病」「ひざがしらむずむず病」「くるぶしつやつや病」等々、聞くたびに部位の変わる奇病である。ちなみに現在は「腰まわりちくちく病」だ。
 そんな気の毒な持病のある老師に、たまには師匠孝行したいというマァムの希望で、老師と、一緒に暮らしているチウやヒムといった面々を誘っての今回の小旅行である。
 宿に戻ったら、自分たちも温泉に入ろう、夕飯は一緒に街に繰り出そう……そんな話をしながら、三人は旅籠へ向かった。
 道すがら、ポップとマァムは一度だけ田圃を振り向いた。

 広がる稲穂の海は、黄金色に輝いてさわさわと鳴る。生贄などなくとも、努力さえすればこの実りを得られるのだ。―――何故、そのことに気付けないのだろう。何故、人々は間違ったのだろう。





「温泉はどうでした、老師?」
 廊下をぺたりぺたりと歩いていた老人は、愛弟子の声に振り向き莞爾として笑った。
「いやあ、実に気持ちの良いものじゃったよ。最近ずっとデルムリン島に住んでおったから、たまには寒いところの方が良いなんて思っておったもんじゃが、湯に浸かるというのは疲れがとれるものなんじゃなぁ」
 呵々と笑って
「この年齢まで色んなことを経験してきたが、まさか素っ裸で他人と湯に浸かって語り合うのが、ああも楽しいことじゃとは知らなかった」
 長生きはするもんだね。との言葉にマァムは微笑んだ。
 常には考えられないほどの高齢であるブロキーナ老師は、体内で気を練る武闘の達人だ。そのため年齢の割にはとても健康で動作もキビキビとしている。
 けれどそれは、若いという事ではない。
 大魔宮での戦いは老師の身体にかなりの負担を強いた。若ければ溢れる体力で自然と補えるような事が、老師の身体には小さな無理として次第に蓄積していくのだ。デルムリン島に大戦後移り住んだのは、もちろんチウやヒムといった人外の仲間のためもあったろうが、彼自身の体調を考えて温暖な地域が良いということもあったろう。
 老師自身は、老いの苦しみを他人に見せようとはしないし、愚痴も言わない。そのことが逆にマァムには気がかりだった。
「気に入ってもらえて良かった。なかなかお誘い出来なくてすみませんでした」
「なんの」
 老師は、ほほっと軽い笑いを漏らした。
「お主もポップ君も忙しい身じゃ。それだけ皆に必要とされていて、その期待に応えているのが手に取るようにわかるよ。ワシのことなぞ気にしなくても良い」
 くるりと元の方に向き直る。
「年を重ねると、若い者の活躍が嬉しいもんだよ。それも弟子なら尚更だ。お主やチウを見ておると、自分の撒いた種がきちんと育って、立派な枝葉をつけて花を咲かせているのが胸にグッとくるでな」
 ひらひらと手を振り、老師は笑んでまた歩き出した。
「ワシは幸せ者じゃよ。有り難うな、マァム」
 言うべきことは全て言った―――そんな笑みだった。



 夜、出かけた街の酒場で、ポップたち一行はジパングの様々な郷土料理を皆で堪能した。さすがにこんな遅くまで既婚者であるヤヨイに付き合ってもらうわけにはいかないので、一軒目でたらふく御馳走させてもらって別れたわけだが、その後、二軒目からは飲み会である。
 滅多に食べられない珍しい料理に舌鼓を打ちながら、赤い紙のランプ(提灯というらしい)が掲げられた店を三軒もハシゴしただろうか。チウが慣れないサケに酔いつぶれ、逆にどれだけ飲んでも平気なヒムが「隊長さんをおぶって旅籠に戻る」と言い出したのを機に、ようやく飲み会はお開きになった。
 老師とヒム、チウのデルムリン島組と旅籠の廊下で別れたあと、マァムは前栽の紅葉にふと視線をなげた。

 篝火に照らされて、赤く色づいた葉が、それ自体が燃えるように輝いている。その輝きのまま、一枚がはらりと散った。

「あ…」
 思わず出た声に、ポップが振り向いた。
「どうした?」
「モミジが……ううん、何でもないわ」
 自分でも何を言いたかったのかマァムにはわからず、それゆえの「何でもない」だった。
「酔ってるのかしら、私? あんまり飲まなかったつもりだけど…」
「ああ、お前、飲まずに食ってばっかだったもんな。太っちまうぞお?」
「ちょっ…!」
 にやにや笑いながら腹をつまもうとするポップに、条件反射のように拳が出そうになるが、
「待て待て! さすがに宿を破壊するのはまずいって!!」
 こちらも条件反射のように飛びずさったポップは小さく叫んだ。
 「まったく…」とマァムは拳をほどく。もう幾十回と繰り返してきた彼ら二人のやり取りだ。この場に友人たちがいれば、さらに冷やかされたり煽られたりするのだろうが、旅籠の中はもう寝静まっていた。遠く賭場の声は聞こえるけれども、酔客の喧嘩も女衆(おんなし)の明るい喋り声も聞こえない、静かなものだった。
 居心地が悪いわけでもなく、さりとてこれ以上喋るのも、また黙って部屋に向かうのも妙だという空気が二人に流れた。

   はらり

 また紅葉が散った。
 視界の端にそれを捉えてマァムは知らず眉を下げる。恋人のそんな動作を見逃すポップではなかった。
「…マァム、何か心配事でもあるんだったら、聞くぜ?」
「……ありがとう。でも、心配事じゃ…ないの……。私自身、よくわからないから……」
 優しい言葉にマァムは微笑んだ。実際その通りだった。何が心に引っかかっているのか、彼女自身にもわからないのだ。ポップにそんなあやふやな事で相談に乗ってもらうのも悪いだろう。
 訝し気なポップを促し、マァムは部屋に戻った。薄紙を張っただけの木の扉を開け、アンドンの灯に既に布団が敷かれているのを見る。相も変わらず細やかなサービスだ。
 お茶でも飲んでから寝よう―――そうぼんやり思ったマァムの耳に、ポップの声が届いた。

「マァム、来てみろよ」
「なあに?」

 呼ばれ、部屋の奥窓の方に向かう。窓の外には朱塗りの柵が設けられており、そのシンプルだが独特の色に、初めてジパングを訪れた時に目を瞠った、大鳥居を彷彿した。
 この宿最奥の部屋の位置から、窓の向こうは旅籠の裏だ。山に囲まれたこの国は、大きな建物は行政府である巫女王の神殿しかり、そのほとんどが山を背にして建てられている。朱色の柵は仕切り。人の住まいと外界との区切りだ。
 街の賑やかさとは裏腹に、静寂に包まれた山を月が照らしていた。
 その中腹まで、段々に続いてかすかに揺れているのは、あれは―――

「田圃…?」
「ああ。棚田だ…綺麗なもんだなぁ」

 木々が風に鳴るのとはまた違う。音もなく揺れる気配だけが二人に届いた。
 暖かな中天の陽に、橙に沈む夕陽に、そして今は神々しく輝く太陰に照らされて、黄金色の稲穂は静かに頭を垂れて輝いている。照らしてくれる存在に感謝を捧げるかのように。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな―――かぁ」

「え?」
「ジパングの故事にあるんだってさ」
 人格者であるほど謙虚であるというその諺に、マァムはうなずいた。同時に、この国に巣食っていた正反対の人々の事を思い出す。老害という言葉は嫌いだが、そうとしか言い表せないような老人たちだった。
「あんな人たちだっているのにね……」
 ヤマタノオロチを倒した後、巫女王の取り巻きたちは一斉にこの地を追われた。曲がりなりにも彼らは知識層であり、統治のノウハウも知っていたので追放までせずともという意見もあったが、民に積もった怒りは深かった。幸いにも、彼らの下で働いていた者たちの中には清廉潔白の者もおり、その人たちを立てて何とかジパングは崩壊を免れたのだ。
 取り巻きたちの、生贄を選ぶ時の醜悪さと追放される時の情けなさは、慈愛の使徒といわれるマァムでさえも嫌悪感を抱かずにはいられないものだった。有限の時を生きる存在なら、ブロキーナ老師と彼らは同じ時間を過ごしてきたはずなのだ。ならばどうして長い時の間、何も学ばず何も実らせはしなかったのか。後世に恨みと怒りと嘆きだけを残すような、そんな生き方しかできなかったのか。
 若者の成長を喜び、老いを穏やかに受け入れ、その生き方そのものが憧憬の的になるような立派な人だっているというのに……
 ぽつりぽつりとそこまで話して、マァムは唐突に思い当たった。

(そうか…私は……)

 彼方で揺れる稲穂に、先ほどのモミジが重なって見えた。

(私はさっき…老師のことを考えたんだわ……)
「マァム?」
「…老師にね、言われたの」

 年を重ねると、若い者の活躍が嬉しいもんだよ。それも弟子なら尚更だ。
 お主やチウを見ておると、自分の撒いた種がきちんと育って、立派な枝葉をつけて花を咲かせているのが胸にグッとくるでな。
 ワシは幸せ者じゃよ。有り難うな、マァム。


「そっか…」
 ポップは身体を乗り出し、柵に肘をついて呟いた。
「老師はさ、『コメ』なんだな。マァムにとってさ」
「え…おコメ?」
「ん」
 棚田を指さし、ポップは続ける。
「俺たちは麦を食べるけど、植えた時も食う時も麦は麦だろ。呼び方なんて変わらねぇ。でも」
 ポップは言う。稲は違う、と。
 この国では稲の実を食べるが、その実のことをイネとは言わない。米という別の字で、別の名称を呼ぶ。他にも食べる穀物はあるけれど、それらとも扱いが違う。粟はアワだし稗はヒエだ。
「『コメ』は特別なんだ。だから呼び方が変わる」
 命の糧であり神聖なもの。何よりもその恵みに感謝をして食すもの。


 自分という存在を形成し、生かすもの。
   

「そうね…。本当に…そうだわ……」
 しみじみとマァムが言うと、ポップは鼻の下を一度こすった。
「ま、旅行記の受け売りだけどな…」
 瞑目し、彼はふうと酒の匂いのするため息をつく。
 月に面を上げたまま、伏せる瞳。
 だからわかってしまった。ポップがそんな態度を取るのは、マァムの知る限り一人しかいない。
 旅行記を書いたのは―――


「―――私たち、『師匠』に恵まれたわね」


「おう。―――ウチのは助平爺だったけどな」
「あら、私のとこなんか、ビースト君よ?」
 くぐもった笑いが漏れたのは、どちらからだったろう。
 静かな夜、窓辺の二人を月は優しく照らし続けた。



(16.11.08UP)



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