洗濯


その日は、とてもよく晴れていた。
ふと顔を上げたマァムの視線の向こうには、先程竿に干されたばかりの洗濯物が、風をはらんではためいている。
ほんのり滲んだ額の汗すらも気持ちいい。そんな日。

絶好の洗濯日和―――って、こういう日を言うのね。

マァムは絞り終わったシャツを脇に置くと、さて、と洗いの続きに取り掛かる。
確か、もうほとんど残ってはいないはずだ。今日のように緩い風もある日なら、あっという間に乾くだろう。雨の心配もない。あとは街にでも行って買い物をしようか。
そんな事を思いながら、彼女はカゴの中身を盥へと一気に空けた。
残っていたのは一枚だけ。

 ふわり

綻んでいたマァムの表情が、少しだけ硬くなる―――それは、厚手のスカーフだった。









小さな水音を立てながら、マァムはスカーフを洗う。
恋人が作った石鹸を使い、シミになっている部分を軽くこする。この石鹸は、市販の物より断然質がいい。スカーフは絹地だが、その事を余り気にせずに使えるので重宝していた。

 ちゃぷ ちゃぷ

「……………。」
軽く舞い上がる泡。それとは対照的に、彼女の表情は重く沈んでいた。
さわさわと風が鳴る。
自身が立てる水音だけを聞いていた彼女の耳が、違う音を拾ったのはその時だった。

「洗濯か」

背後から聞こえたその声は、彼女がごく親しくしている魔族の男から発せられたものだった。
「……バーン」
マァムは振り向いた。
「お帰りなさい。村はどんな様子だった?」
彼女と彼女の恋人が治療したこの元大魔王は、もう日常生活にほとんど支障がないほど回復している。
共に旅をして暮らすうちに、今のバーンには数日おきに訪ねるほどこだわりのある場所も出来ており、かつてのような地上への嫌悪感は鳴りを潜めている。その事実が、沈んでいたマァムの心を僅かながらも浮上させた。…笑顔が成功したとは自分でも思えなかったが。

ぎこちない微笑みが気になったのか、バーンはわずかに眉を顰めたが、特に文句を言うわけでもなく、訊かれた質問に答える。
「どんな様子と訊かれてもな…。すぐには変わらぬさ。家は建ったが、基本的に定住に慣れていない者ばかりだからな…雑なものだ」
そう…とマァムは笑う。戻って早々に渋面を見せられれば、バーンにとっては不快であるに違いないから。心が沈む原因は、バーンとは無関係なのだから。…けれど。
「そう……でも、家が出来たのね。良かったわ」
無理やりに笑顔を作れば、やはりぎこちなさは隠せない。自分の演技力のなさにマァムは苛立ちを覚えた。

―――ポップはあんなに巧いのに。彼ならばどこまでも巧く笑顔を作るのに。

マァムの脳裏に浮かぶのは、共に暮らす恋人が見せる笑み。見る者の心を明るくさせるポップの「いつもの」笑顔だ。
あのようにいつでも笑顔を見せられる人を、彼女は他に知らない。……それが良い事なのかどうかは、わからないけれど。

バーンは家の方を顎で示した。
「アレは、おるのか?」
誰の事かは尋ねるまでもない。その問いに、マァムはふるりと頭を横に振った。
「いまはパプニカよ。本を借りに行ったわ」
バーンは頷き、荷物を置きに家に向かった。背中を見送るマァムから笑みが消える。力を失ったかのように彼女は座り込み、腰に当たった盥の縁に、自分が洗濯中だった事を思い出した。

盥に浸かるのは、ポップのトレードマークとなっているバンダナと同じ色のスカーフ。
新年の祝いの席や、先日の春の祭典で、ぐっしょりと濡れてしまったそれは、早めに洗ったにもかかわらず、頑固なシミが小さくもいくつか出来ている。
先程よりも強めに擦りながら、マァムは溜息をついた。
ベンガーナに登城する際、ポップは必ずこのスカーフを身に付けるようにしている。…いつの頃からだったろう。決して初めからではなかった。
おそらくは、ダイが帰還した前後からだ。その頃から、ポップは王の招聘を受ける事が多くなった。

―――そして、爵位の授与が噂されだしたのも、丁度同じ頃から。

勇者の仲間達は全員別々の国に所属している。
レオナがパプニカにいるのは当たり前だが、ヒュンケルもパプニカでレオナの護衛という立場にある。彼の戦力が最早過去のものとなったと言っても、将来的には、勇者ダイまでもがパプニカに加わる可能性が高いと目されている状況で、例えどれほど親しい間柄だと言っても、他のメンバーまでもがパプニカに所属する事など許されなかった。
師アバンが摂政としてカールに存在するのは婚儀によるものだが、他は違う。
マァムはロモスに。ポップはベンガーナ。メルルはテラン。リンガイアにはノヴァと、皆それぞれの生国に所属することが暗黙の内に決まった。
圧力がかかったたわけではない。戦力及び国力のバランスを王達が考えているのは自明の事だったし、それがひいては仲間や己の身を…誰よりも『勇者ダイ』を守る一番の方法だという事を、各々が肌で感じた結果なのだとマァムは思っている。
温厚な性格で知られるシナナ王でさえも、マァムが任官を受諾した際に安堵の表情を見せたのだ。その事実が、彼女に政治というものの複雑さを如実に教えてくれた。
そんな状況の中の、授爵の噂。
今の時点でもポップはベンガーナ王の相談役という立場にあるが、王としては、ポップを確実にベンガーナに取り込みたいのだろう。
気さくなポップの性格は、多くの人に好かれる。そしてその魔法力の強大さと機動力とは、どの国にとっても垂涎の的であるのは明白で。
けれど、たとえ現在はベンガーナに所属していても、表面上は自由意志での所属なのだ。野に下ったり、他国に流れられたりしてはたまらない。だから―――土地や領民によって国に縛り付けようとする。

吹く風に揺られ、耐える様に震えたあと、弾けて消える、泡。
いつしかマァムの手は止まっていた。

ポップが、爵位を受けるつもりでいるのかいないのか。それはまだ本人も決めかねているようだ。
だが重要なのは、ポップの選択云々よりも前に、周りが動き出したという事だった。

 ぱちん ぱちん

微かな音を立てて、シャボンが割れる。
虹色の膜はこんなにも美しいのに。

   …ぱちん

風に揺れて浮かぶ姿は、こんなにも綺麗なのに。



















「隙だらけだな」

ハッと息を飲んでマァムは振り返る。
バーンだった。低い声はわずかに嗤いを含んでいて。
「…驚かさないで」
知らず、硬い声が出る。それはマァムにしては珍しい事だ。
バーンは目を細めた。盥の中身は、先程と変わっていない。水に浮かぶスカーフには見覚えがあった。
「……そのスカーフ、随分念入りに洗うのだな?」
「え…」
「余が戻ってから、何分たったと思っている?」
マァムは赤くなる。周りを見れば影の位置がハッキリわかるほどに移動していた。その事が、どれだけ自分がぼんやりしていたかを物語っていて。
だが、バーンには別に揶揄したつもりはないようだ。金色の瞳は笑っていない。

「毒か」

ざわ…と風がなる。
ややあって、マァムはこくりと頷いた。
「…知ってたのね」
「酒をこぼしたにしては、妙なニオイがするのでな。…しかも頻繁にすぎるわ」
バーンは指を小さく鳴らした。スカーフが浮かび上がり、雫を垂らしながら彼の手に移動する。
典雅な動作が似合う元大魔王が、洗濯物を持っているというギャップも、今のマァムには何の面白味も感じさせなかった。先程、努力して作った笑みは既に消えている。
スカーフのシミは、まだとれてはいない。ちらりとその部分に目をやって、バーンはわずかに咽喉を震わせ笑う。
……こういうのを『凄みのある顔』というのだろうかと、どうでも良いことを沈んだ気分のままマァムは思った。
バーンの笑いは、蔑みと皮肉を足して2で割ったら出るのではないかという笑みで。ぼんやりとそんな分析をしながら、それでも彼女が腹を立てないのは、皮肉はともかく、蔑みの対象が自分や恋人でない事を心のどこかで理解しているからかもしれない。

「愚かな人間もおるものだな。世界を救った恩人に毒を盛る、か…」

何もかもわかっているかのように、バーンは独りごちる。シミに向けられていた視線が、移動した。その先には―――マァム。




「このようなシミのあるスカーフ、捨ててしまえば良いのではないか?」




マァムは一瞬、何を言われたのかわからなかった。
風の音がやけに大きく聞こえる。

 ざわざわ ざわざわ

「気に入らぬものなど、消してしまえばよいのだ」

口調は嗤いを含んでいるのに、金の眼は真剣そのものだった。刺すようなその視線はマァムを真っ直ぐに見つめている。

(うぬ)らには、その力があるだろう」

「……………バーン」
マァムは言葉を探す。バーンの言う意味は明らかだ。
政敵を消し、国を…世界を手に入れる―――それは確かに、今の自分たちなら不可能ではないのだろう。己の利権を守るためにポップの命を狙う輩など、力づくで排除してもマァムの心も全く痛まない。
けれど、とマァムは思う。


―――大丈夫だぜ?


脳裏に浮かぶのは、恋人の笑顔。
悪意にさらされるたびに、自分が案じる言葉をかける前に、ポップは笑う。いつもと変わらぬ明るい笑顔で。自分にはとても真似出来ない笑顔で。
それが作られた笑みだとマァムは知っており、しかし、込められた想いに嘘はない事も彼女は知っている。ポップが大丈夫と言うのなら、きっとまだ大丈夫なのだ。

彼の笑みは強さの証であり、困難に立ち向かう勇気の証明。……ならば疑ってはならない。邪魔をしてはならない。

だから、マァムは首を横に振る。口にする言葉は、危険な誘いへの返事ではなく。
「ありがとう、バーン」
「………何のことだ?」
「心配してくれてるんでしょ、ポップの事?」
「な………っ?! 誰があやつの心配など…!?」
強く否定する元大魔王の姿が可笑しかった。そこまでいきり立って否定する事もないだろうに。
心の中で苦笑しつつ、マァムはバーンの手からスカーフを取ると、「不思議ね」と呟いた。
「命懸けで戦った敵の貴方が、私達を気遣ってくれて。命懸けで守った人達の中から、私達を殺そうとする人が現れる」
「…………。」
命懸けで戦った敵のほうが信頼に値し、命懸けで守った存在の中に憎しみや敵意が潜む、この不思議。
「でも、世の中そんなものなのかもしれないわね…。決して一つの色には染まらない……」
スカーフを広げる彼女に、バーンはふんと鼻を鳴らした。
「知ったような口をきくのだな」
……確かに、20年も生きていない小娘がこんな事をしみじみと語るのも妙な話だけれど。
「でも、そうでしょ? 合わないからって捨てるばかりじゃ、貴方ともこんな風に喋ったり出来ないもの」

勇者の仲間と、元大魔王。勝者と敗者。人間と魔族―――倶に同じ空の下に存在するはずもない立場の自分たちが、今ではそう問題もなく一緒にいる。

それを言えば、バーンは小さく息を吐く。そのまま彼は何も言わずに視線を外した。
数千年を生きた男のそんな態度が、何だかとても子供っぽく見えて、マァムは笑う。
もう完全に気分は浮上していた。自分が普通に笑えている事がその証拠。

 ぱたぱた ぱたぱた

スカーフを絞って、竿に干す。はためくそれは、風を孕んで小さな音を立てた。
強い風は、彼女の髪をかき乱して通り過ぎていく。
マァムは目蓋を閉じた。




―――このようなシミのあるスカーフ、捨ててしまえば良いのではないか?




「捨てないわ…」
ぽつりと零れた呟きは、決意。
「私もポップも、このスカーフ、とても気に入ってるんだもの」
誰が聞いていなくても、彼女自身は聞いている。
忘れないために、言い続けねばならない―――それが自分たちの選択なのだと。


軽くシワを伸ばして形を整えると、マァムはカゴを持って小屋に向かった。途中から小走りになる。
もうこんな時間だ。急いで街に行かねばならない。ポップが帰って来るまでに買い物を済ましておこう。
今日は彼の好きな玉子料理だ。


駆ける彼女の後ろで、スカーフがはためいた。
消えずに残ったシミは、それでも僅かに薄くなっている。


(終)



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