理由
物心ついたときから水木作品が好きだったが、多分それは父のお陰だ。
父は手塚治虫氏のファンだった。
子供は狭い所が好きだ。閉じこもってしまえば秘密の空間が広がるからだ。
…とはよく書かれている事だし、多分事実だろう。
大人達が愛してくれるって事は、つまりは、いつだって見られているって事だから。
どんな幼児だって、たまには一人を味わいたいだろう。
だからかどうか解らないが、小さい頃はよく押入れに入った。冬は炬燵に潜り込んだ。カーテンの裏とかも。
…んで、
布団が直してある押入れの、上の段によじ登ると棚になった所があり、
手を伸ばすと「火の鳥」なんかが埃をかぶって置いてあった。
それらは全部父のものだった。いくらでも読ませてくれた。
だから、生まれて初めて読んだマンガは「アトム」や「火の鳥」だった。自分で考えてもディープな出会いだ。
大概の字は読めたし、時たま難しいのがあってもルビが振ってあった。
未来の地球や宇宙空間は面白かった。
或る日、父の机の横のラックに見なれぬ漫画があった。
―――『河童の三平』。
(…いつもの絵じゃない)
そう思って読んでみた。
面白かった。「あっさりサッパリ」といった気持ちよさだった。
その頃そんな言葉は知らないが、「現実味」を感じた。
手塚作品によくいる「善い者顔」がいない、というのも新鮮だった。「悪い人」もいなかった。
それは3巻までのシリーズだった。
3巻で主人公である三平は猫に捕まってしまい、猫の町に閉じ込められる。
ここで僕は、脱出に伴う冒険を想像し、ドキドキした。
……が、
三平は脱出に失敗し、死んでしまった。
当時の僕には信じられなかった。
主人公が死ぬという事が。
話の流れだって、脱出さえ成功すれば、三平はお母さんに会えたのだ。
だから何か裏があるのだと勘繰った。
(きっと三平は生き返るんだ…。タヌキと河童が協力したりして生き返って、それで倖せに暮らすんだ……)
もちろん三平は生き返らなかった。
最後まで読んで、どこをどう探してもそんなシーンは無かった。
何度も読み返したが、死神は三平を連れて行ってしまう。
…泣きそうになった。
ようやく三平の死を受け入れられた時、思った。
(…………この漫画だ)
と。
「人は死ぬ。」という事を最初にハッキリと解らせてくれたのが水木作品だった。
主人公だろうが何だろうが死ぬ。
周りがどんなに嘆こうが、都合よく生き返ったりしない。
それが当たり前なのだ。それで当たり前なのだ。
かたや近未来に開発されるだろうロボットの少年の話や、広大な宇宙空間も含めて生命の意味を問い掛けてくる不死鳥の話。
けれど、
タヌキが喋り、小人や鬼や死神がいて、河童が人間の小学校に通う話は、それでも、
何よりの現実味を帯びて、幼心に焼きついた。
僕が水木ファンになったのは、おそらくその日からだ。
以来、手塚ファンにはなり損ねている。
父よゴメン。そして、有り難う。
(了)