比較
水木先生と手塚治虫氏を、よく比較する漫画評論家さんがいる。
夏目房之介氏である。
(無論僕の狭い知識範囲の中なので一概に彼だけがそうとは言いきれないが)
この人の水木・手塚比較には多いに納得するところがあり、僕はよく参考にするのだが、
彼が書く両者の比較をどうしても読んでしまうのは、
僕の中に、駄文その壱『理由』に書いたような幼少期の思い出があるからだろう。
また、
手塚治虫=マンガの神様
という図式を生理的に受け付けないサガが、
敬愛する水木先生の作品と彼のそれをぶつけてみたいのかもしれない。
ただ、「優劣」なんてものは着く訳もない。
漫画の優劣なんてのは、結局は読む方の主観の問題であって、最終的に自分の嗜好に行き着くだけだ。
僕は水木作品を取る。何故なら好きだからだ。
それだけである。
ゆえに、この比較は「何故僕が『水木』を取るか」を語るもので、
両者の優劣を競うもんじゃないと明記しておく。
駄文その壱『理由』でも書いた「現実味」。
それは水木作品においていつでも覚える事だが、
手塚作品に、それがない訳ではない。
ではどう違うのか。
僕は「現実味」に付加される「ヒューマニズム」の割合に違いがあるのだと思っている。
それを最もよく感じるのは両者の描く『戦争』だ。
手塚漫画は、
登場人物の誰か一人は、死に逝く者に対して泣くか、もしくはそれに類する行為をする。
水木漫画は、
登場人物の誰一人として、死に逝く者に対して泣いたり、それに類する行為をしなくても成り立つ。
手塚氏の話には、必ずといって良い程、どこかに『善』がある。
この場合、特に『善』に対立する『悪』が明確でなくとも良い。
それを手塚氏があえて描きたかったのか、それとも自然とそういうストーリーになってしまったのかは分からない。
だが、どこかに「人間性善説」がある。とりあえず僕が読んできた手塚作品は、そうだった。
そう感じ取れた。
水木作品には無い。
こう書くと、
「鬼太郎はどうなんだ?!」
という批判を受けるかもしれない。
が、『ゲゲゲの鬼太郎』の場合、主人公の鬼太郎が例え「正義の味方」でも、
それを笑うピエロの役目をする者がいる。
ねずみ男だ。
『ゲゲゲの鬼太郎』の読者は、時折、
ねずみ男の台詞にこそ「正しさ」を認めるのではないだろうか?
それは「現実」という名の正しさであり、
それによって、鬼太郎の成そうとする善は、「正義として戯画化される」のである。
つまり水木作品では、
正義はあっても善はないのである。
以上が、僕が感じた両大御所の違いである。
僕は手塚作品の登場人物に憧れる。
そして、水木作品の登場人物に共感を覚える。
まさにその違いであって、
僕は水木作品の登場人物には憧れない。
鬼太郎の様にもねずみ男の様にも、共感するが、
そうなりたいとは思わない。
何故なら、
僕は僕のままで良い からだ。
水木作品はそう思わせてくれる。
正義を語っても構わない。
金儲けに貪欲であろうが構わない。
そんな事は大した事じゃあないんだ。
だから…
だから僕は水木をとる。水木でないと困るんである。
(了)