ダイの大冒険 SS

『それぞれの平和』




「……無理だよ」

その声は絶望に満ちていた。

「…………諦めんのか?」

うつむく少年に、傍らの青年が尋ねる。

「諦めんのか、ダイ?」

重ねて問われ、ぴくりと少年が震える。

「でも…オレ…………」

わずかに顔を上げ、自分を見下ろす青年にダイは小さく呟いた。無理だ。自分には無理なんだ、と。
避けてはいけない事くらい、わかっている。…けれど、出来るわけがなかった。所詮自分には手に余る問題なのだ。

そう言えば、ポップはそうかよと視線を外す。わずかな怒りがその黒い瞳に宿っていたのを、ダイは確かに見たと思った。
親友でもあるこの兄弟子が、自分に怒ることはまずない。それをわかっているからこそ、ダイは申し訳なさで胸が締め付けられた。


「………私が代わるわ」
「姫さん!!」


二人の様子をじっと見守っていた少女が、ダイの横に移動する。それを見咎めポップが声を上げた。

「何考えてんだ?! 姫さんが代わってどうする! これはこいつの問題だろうが!!」
「…っでも!」

怒鳴られ、けれど萎縮せずに少女は青年に喰ってかかった。

「もういいじゃない! ダイ君は、もう…充分悩んだわ。苦しんだわ。これ以上は無理させたくないのよ!!」

泣きそうな顔だった。この国の女王として、為政者として常に凛と自らを律している彼女が、こうも感情を出す事など最近では珍しい。
それだけ、彼女にとってこの少年が大切なのだ。理を曲げてでもダイを守りたい―――その大きな愛。

「姫さん…」
「レオナ、落ち着いて」

いま一人、同じ部屋でダイを気遣わしげに見ていた女性がそっと立ち上がり、少女の名を呼んで肩を抱いた。

「マァム、私は…」
「ええ。落ち着いて、ね…? ポップも……」

優しい瞳に、ちらと振り向かれ、ポップは気まずそうに息を一つ吐いた。
「…ごめん、姫さん。怒鳴って悪かったよ…」
けど、とポップは言葉を切った。
「ダイがやらなきゃ意味がねぇ…そうだろ? 先生は…先生はお前を信じてこれを託したんだぞ?」
後半は、横の親友に向けたものだった。
ダイは顔を上げる。二対の黒い瞳が相対し、視線が互いを射抜くのを、レオナとマァムは息を飲んで見つめた。

ややあってダイは「わかってるんだ…」と小さく呟いた。

「先生がオレの為に必要だって言ってたんだ…。……だから、やらなきゃいけないのはわかってるんだよ。でも…でも、どうしたらいいのかわからないんだ!!」

激昂ではない、静かな叫び。
拳を握り締める今の彼に、勇者としての覇気はない。それは、責務を自覚しながらも、その重さに耐えかねているごく普通の少年の姿だった。



しばしの沈黙を破ったのは、慈愛の使徒の名に違わぬ、優しさに満ちた声だった。

「ねぇ、ダイ…私は昔、アバン先生にこう教わったわ。『負ける時は、全ての力を出し尽くしてから負けなさい』って―――」

―――今のあなたには、もう何も残っていないの?

息を飲んでマァムを振り仰いだダイを見て、ポップはやれやれと溜息をつく。

「俺も先生にそれ、言われたな。『自分に出来る事の全てをしてから諦めろ』って。ま、俺の場合はちょっとでも厳しい修行になると、すーぐに諦めてたからだけどさ」

―――けど、そうだろ? 諦めたらそれで終わりなんだぜ?

「マァム…ポップ……」
「ダイ君」
そっと、背後からレオナが彼を抱きしめた。金の髪が揺れ、ふわりと甘い香がダイを包んだ。
「レオナ…」
「…二人の言う通りよ。もう少し頑張って。まだ時間はあるんだもの…ダイ君にならきっと出来るわ!」



「……………うん!」



久しく絶えていた力強い笑みが、少年の顔に戻った。同時に窓から陽が差したのは勿論偶然だったけれど、それはその場の全員の心を表して余りあった。



ダイは再びペンを取った。
かつてない『計算式』という名の強敵にも、皆がいればきっと勝てるはず―――そんな希望を胸に。





「台詞だけ聞いておれば、とてつもなくシリアスなのだがな……」

分厚いドアを隔てた隣室の会話をそれとなく聞き取っていた元大魔王は、何とも言えぬ気分で呟いた。

「は? 何がですか?」

チェスの相手が顔を上げる。度の入っていない伊達眼鏡がきらんと光り、やけに眩しい。

「貴様の弟子達の会話だ。ダイが宿題をサボっていたようだな」
「え? そうなんですか? …先週『キチンとやります』って返事してくれたんですけどねぇ」
バッドですねえとカールの大公は溜息をついた。とは言え、あまり悪く思っていないのはその苦笑でわかる。つまりは、かなりの頻度でダイはアバンの出す宿題をサボっているのだろう。

「…あれは、算術が苦手か」
「ええ」

即答か。
バーンは心の中でつっこんだ。ドアの向こうではまた竜騎士が式のヒントだけでなく答までを大魔道士にねだり、怒られている。

本当にこの調子で今日中にレオナ女王に会えるのか。

材木の調達に役立つように姫さんに紹介状を書いてもらう―――そんな理由でポップに呼ばれ(むしろ呼びつけられ)パプニカに来たまでは良かったが、元々謁見の話をポップ達は通しておらず、飛び込みなのだ。
もっとも女王と勇者の仲間であり友である大魔道士ポップと聖拳女マァムを追い払う者がパプニカにいるはずもなく、すんなりと城内には通されたが、肝心のレオナ女王は執務時間外の喜ばしい休憩であるにも関わらず、恋人である勇者の勉学につきっきりで、時間まで隣のサロンで待たされる事になったのだった。

ちなみに『時間』とは、勇者がその師であるカール王国の摂政大公殿下に付いて、学問を修める時間の事である。
パプニカとカールの友好事業の象徴的な事例として双方の民は認識しているが、実際は『勉強の苦手な生徒に、優秀な家庭教師が週に一回読み書き計算を教える』というだけの、どこにでもある時間だ。

それにしても、と元大魔王は盤上を見つめながら脳裏で一人ごちる。まさか彼らと同じ客間で待たされるとは思っていなかった。

侍従にしてみれば、バーンの正体など知らぬし、ポップ・マァムにとってアバンは師なのだからと気を利かせたつもりなのだろうが……アバンが教科書をテーブルに広げて鼻歌を唄い、ダイの護衛としてラーハルトが、レオナの護衛としてヒュンケルが侍している空間に、自分が入った時のあの何とも言えない空気を、他の二人はどう感じたのだろう。
何の断りもなく、さも当然のように隣室の様子を見に行ったポップとマァムが実に羨ましかった。
最高潮に達した気まずさの中、目の前の勇者の家庭教師が、どこからともなく携帯のチェス盤を取り出してゲームに誘った時、彼が一も二も無く応じたのは言うまでもない。



駒を移動させながら、バーンは窓の向こう、青い空を見つめた。
まったりとしたこの空気は不快ではない。だが……


いまのこの雰囲気に、覚えがあることをぼんやりと思い出す。



――――――…あんたを見つけた日も、こんな……



ああ、そうか。


いつか、慣れるのだろうか。






額の傷跡が、わずかに痛んだ。






「…ポップはどうなのだ?」
「ポップですか? そうですねえ…あの子はどちらかというと算術が得意でした。御実家が商売されてるからでしょうかね、計算は結構早いですよ」
「ふん…なら良い」
「は?」
「余を倒した勇者とその相棒が、両者とも阿呆では情けないだろう」

バーンが言えば、はははと力なくアバンは笑った。

「それにしても、よく隣の会話が聞こえますねぇ。さすが魔族、耳がいいんですね」

さりげなく話題を変えて、アバンはドアの脇に立つ青い肌の男に目をやる。

「貴方がそわそわしてるのも、それで納得しましたよ」
「…………。」
「心配ですか? 大丈夫ですよ。別に何かの資格を取るための試験ってわけじゃないんですから」

のんびりやっていきましょう。そう言って紅茶を口にし、ソファにもたれ直す。

「ん。このお茶美味しいですね! ヒュンケル、ラーハルト、貴方達もどうですか?」

「結構だ」
後者にはあっさりと振られ、アバンは苦笑する。
本当に愛想の無い青年だ。それでも、年若い主君の師という事で、自分にはそれなりの気を遣ってくれているのは知っている。
彼の中でまだまだ根深いだろう人間への不信感を、その原因たる彼の過去を考えれば、文句を言える筋合いはない。むしろ返事を返してくれるだけ有難いと思うべきなのだろう。

それでは―――ともう一人、同じくドアの側に待機する、こちらは女王の護衛として佩刀した戦士に笑顔を向ける。
「すみません、先生。今の俺は執務中ですから」
申し訳なさそうに返した青年は、「ただ」と言葉を続けた。

「来週は非番なので。その時はお相伴に預かります」
「…そうですか。楽しみにしていますよ」

返事に微妙な間があった事にヒュンケルは気付いただろうか。
盤上に視線を戻し、アバンは瞳を閉じる―――いま見たばかりの、一番弟子の柔らな笑顔を目蓋の裏に焼付けるために。




耳を澄ましてみれば、自分にもかすかに隣室の騒ぎが聞こえた。

「ああ、青春ですねぇ」

ぽやーんとした呟きに、バーンが「止めぬのか?」と少々うんざりした表情で聞いてくる。

「いいじゃないですか。…あれくらいの歳に、騒げるのは……」

最後の言葉は飲み込んだ。もっとも、何と続けるつもりだったのかはアバン自身にもはっきりわかっていない。
『羨ましいじゃないですか』と言おうとしたのだろうか。『幸せですよ』と言うつもりだったのだろうか。
けれど、それは言うべきでないという事だけは、はっきりしていた。

父の仇を討つために、魔王軍で修行を続けていたヒュンケル。バランの元で人間への憎しみを募らせてきたラーハルト。強さのみが正義である魔界で生き抜いてきたバーン。そして…ハドラーと戦うために旅に出た自分。

口に出せば、この部屋にいるもの全員が、幸せではなかったと言うに等しいから。けれども、それは事実かもしれないが真実ではないから。


だから口にしたのは、全く別の言葉だった。




「……平和な証拠ですよ」




噛み締めるように、その響きを。


(終)





穏やかな時間の中の、それぞれの過ごし方を書いてみました。

最初、このメンバーで部屋が分かれていたのは偶然だったのですが、よくよく考えてみれば、アバン先生はポップやマァムの歳の頃に魔王ハドラーと戦い、戦争孤児のヒュンケルを弟子として育てていたのだなと思うと、軽いだけの話には出来ませんでした。

8月は、色々と考えさせられます。